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第一章 この愛は、罪 9-2

 握られていた手を引っ張られると、唇に何かが当たった。 「今この瞬間だけ、騎士を辞めてもアドニス様は赦してくれますか?」  ユリセスの指がゆっくりとアドニスの唇をなぞっていた。  その瞬間、ユリセスの意図に気づいた。    騎士でなくなる――    ……一人の男になる。 「ふふっ……冗談です」  一気に肩の力が抜けた。  ほっとしたような残念だったような不思議な心情がぐるぐると回る。  なぞる指先が離れると、今度はアドニスの方から手を握って指を絡めた。  ――ユリセス様に触れたい……触れて欲しい。    しかし、その後はたわいない会話ばかり続き、気づけば外は明るくなっていた。  鶏の鳴き声が響くと同時に、ユリセスの顔が曇った。 「ああ……時はなんて残酷なのでしょう。こんなにも離れ難い……」  ユリセスはアドニスを見つめて、何度も何度も指を絡ませた。    身も心もすべてが欲しい――そんな仕草だった。    ユリセスは絡めていた指を解くと、アドニスの手のひらに小さな革袋を置いた。 「これを受け取ってください」  アドニスが紐を解くと、数十枚ほどの金貨が入っていた。 「こ、こんなにたくさん受け取れません!」 「私はこの教会に寄付したいのです。それで孤児へたくさんの絵本を買ってください」  ユリセスの真っ直ぐな瞳に、アドニスの胸も熱くなる。    ――ユリセス様を失いたくない……。どうか、神よ……。  アドニスはそっと首元に手をやる。  そこには、肌身離さず身につけてきた青いフェルメンがあった。  祈りのときも、悩んだときも、神の声を求めていたときも――いつも傍にあった。  神に仕える者としての証であり、自分が神官であることを自覚させてくれる、大切な宝物。  ほんの一瞬、迷いが胸をよぎる。だが―― 「あなたがいてくれるだけで、村の人たちが安心できるんです。……どうか、無事でいてください」  その言葉とともに、アドニスはフェルメンを外した。  指先がふるえるほどに名残惜しかったが、それでも差し出す。  それは、神の加護を――彼に託した瞬間だった。 「これは……! 教会に伝わる……フェルメンでは!」  ユリセスは一瞬、目を見開いた。    その手に、アドニスがそっとフェルメンを載せる。  ……だが次の瞬間。  その指先がかすかに震え、ゆっくりと押し返された。 「こんな大事なものは……受け取れません」 「では、こうしましょう。これは貸したことにします。ユリセス様がここに戻ってきて、必ず僕に返してください」  ――生きて帰って……返しに来てください……。  アドニスの視線にユリセスはためらいながらもこくんと頷いた。  そして、フェルメンを大事そうにしまった。  いよいよ出立(しゅったつ)の時、アドニスは我慢できずに涙を零してしまった。 「も、申し訳ありません……。ユリセス様と笑顔でお別れしようと思っていたのに……!」 「アドニス様……」  ユリセスは身体を抱き寄せると、額に軽くキスをした。 「必ず……必ずアドニス様の元へ帰ります。それまでどうかご無事で……」  ユリセスはそう一言だけ告げると、馬に乗って走り出した。  馬が見えなくなっても、アドニスはその場を動けなかった。    ユリセスの唇の感触と温もりが、額に静かに残っていた。

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