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第三章 抗えない淫愛 4

「神官様、ちゃんと待ってた? お利口さんにしてたご褒美、持ってきたよ。とっておきのね」    ――なんてことだ……大男より、はるかに(たち)の悪いやつが……。    突然――コン、コン、と懺悔室の扉が叩かれた。   「ねぇ、開けてよ。今日も一緒に気持ちいいことしよ?」 「帰ってくださいっ!」    アドニスが叫ぶと、男のため息が聞こえた。   「冷たいなぁ……せっかく、神官様のために用意したのに」 「いりません! 帰って!」  しばらく沈黙が続いた。  やがて、男はまた位置を変え、懺悔室の小さな隙間から、何かを、こちらに放った。  ぽとっ。  湿った音がして、何かが足元へ転がってきた。  つま先に触れた感触は、ぬめりを伴う柔らかさだった。  足元で何かが這うような錯覚に襲われる。  月明かりが、ゆっくりとそれを照らす。    褐色の肌。  剛毛。    そして――。    手の甲に浮かび上がるのは、見間違えるはずのない、あの印だった。  タトゥー。  昼間、あの男に刻まれていた……前科者の証。  ――手首だ。   「っ……あ……ぁあああっ!」  アドニスの喉から、悲鳴が迸った。  足が震えて、身動きが取れなくなる。  あの大男が、ここにないことが恐ろしいほどの現実味を持って迫ってきた。   「俺の神官様に、汚い手を出すからこうなるの」 「だ、だからといって、殺す必要は……!」    声を制止するかのように、コツコツと足音を立てて、男は懺悔室の扉の前にきた。   「本当はこいつが来なくてほっとしてるんでしょ?」 「……っ!」    男は見透かすように笑った。  あの大男が二度と現れないのだとわかった瞬間、何か解放された気になった。  手をかけていないにしろ、大男に消えて欲しいと望んだ事実は消せない。   「ああ……神よ……どうかお赦しを……」 「赦すよ。神官様が望むなら、なんでも――俺は神だから」    その言葉が、神ではなく「あの男」から発せられたことに、吐き気が込み上げた。   「戯言はやめてください!」    怒りが唇を震わせ、声にならない言葉が喉奥で燃えた。   「この者の悪事を許すことはできません。ですが……」 「ねぇ、もしかして……この汚い豚とヤってみたかった?」    アドニスはぎゅっと拳を握った。  ――この男に、理屈など通じない。   「神官様が喜んでくれると思ったのになぁ……。そっかぁ、俺よりそんな汚い豚とヤッてみたかったんだね」 「違います! そうではありません! 私は神に仕える者として、その命をも背負わねばなりません。だから……だからあなたにそれ以上、罪を背負ってほしくないのです!」 「……じゃあ、神官様。消してよ、俺の罪。神官様の綺麗な手で、全部……真っ白にして?」 「そ、それは……」    扉が、ドンッと重く叩かれた。    それは、苛立ちの音か。  それとも、これから始まる罰の合図――。    アドニスの胸に冷たいものが落ちた。    答えなければ――誰かが死ぬ。    そんな確信めいた予感が、胸の奥を冷たく締めつけた。   「……今日いた女の子とお母さん、家でおばあちゃんの面倒みてるんだよねぇ……」    瞬時に背筋に悪寒が走った。   「ちょうど昼間のやり取りも何人か見てるし、あの男のせいにして強盗しちゃおうかな」 「やめてっ!」    声が裂けるように飛び出した。 「お願いやめて……あなたの標的は僕でしょう? 村のみんなには手を出さないで……」 「……じゃあ、どうするかわかってるよね……?」    アドニスは唇を噛んだ。    男の罪を消すことは――修道士を殺したことを肯定する。  ただ、このままだと少女の家族だけでなく、村人に危害を及んでしまう。    ――この村を救うために、免罪符を与える以外に方法は……。  ユリセス様……どうか、答えてください――。  ……その答えは、どこにもなかった。  ――僕が決めるしかない。

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