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第六章 愛を失って、神を知る 2
――あの男が、死んだ。
それは、あまりにも簡単に告げられた。
誰かが笑いながら「朗報だ」と言った、その一言だけで。
けれどアドニスには、それが世界の終わりのように響いた。
力の抜けたように椅子に座ると、身体がガタガタと震え始めた。
村も助かる。
皆が夜、怯えることもなくなる。
そのはずなのに――心にぽっかりと隙間が空いている。
喉の奥がひりつく。
胸がうまく動かない。
今まで当たり前のようにそばにいた何かが、急にごっそりと抜け落ちたようだった。
まるで、魂ごと――。
胸を押さえながら、アドニスは深く息を吐いた。
――この感情は、なに……?
男が死んだ事実を受け入れられない自分がいる。
受け入れたくない、と言った方が正しいのかもしれない。
『絶対に迎えに来るからね……』
耳の奥に、男の声が囁いた。
その瞬間、すべてが歪んだ。
「……嘘だ」
ぽつりと呟いた声は、すぐに怒号へと変わった。
「嘘だっ! 嘘だっ……!」
堪えきれずに頬に雫が零れた。
机上に二つ、三つと小さな水滴が落ちる。
なぜ、涙が出てくるのだろう。
人の金品を盗み、果ては罪もない人を殺した男に罰が下っただけだ。
いつかはそうなるとわかっていたはずなのに――。
――僕の身体を無茶苦茶にしておいて……。僕を愛してるなら、簡単に死なないでよ……。
ねぇ、誰が僕の身体を慰めてくれるの?
僕をこんな身体にしておいて、自分は死ぬなんて……。
「……ふふっ、そうだよ……」
アドニスは、不自然な笑みを浮かべた。
――もう、どうにでもなればいい。
壊れかけた心を守るように、現実から目を逸らすように。
自分にすがるために、優越感という名の仮面をかぶった。
警備隊がやってきたら、「男に愛された」ことを話してやる。
乳首の形が変わるまで捏ね回されて。
口の中で男の怒張と白濁の味を覚えさせられて。
肉壺から漏れ出るまで、何度も何度も吐精されたこと――。
全部、事細かに伝えてやるんだ。
他の修道士は愛されなかった。
だけど、アドニスは違う。
――そう、あの男は、他の誰でもなく、僕を愛していたんだ。
冷酷な犯罪者の心を動かしたのは、僕だけなんだ――。
そう思わなければ、もう立っていられなかった。
信じていなければ、ここまで堕ちた意味すら消えてしまうように思えた。
思い出すのは、髪を撫でてくれた指。
苦しそうな声で、「愛してる」と囁いた、あの声。
でも――もう男はいない。
いくら喚 いたって――
誰にもこの真実は届かない。
その瞬間、心の奥で、何かが崩れる音がした。
アドニスの唇が、かすかに震えた。
……違う――愛された証明が、欲しかった……。
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
否定したいのに、口を開けば、何かが崩れてしまいそうだった。
――じゃあ、僕は……男のことを……。
そのときだった。
ひやりとした風が、窓の隙間から吹き抜けた。
『ねぇ、俺がいなくてさみしい?』
『神官様、必ず迎えに来るからね……』
『俺の神官様……愛してるよ……』
……耳元で、男が囁いたような気がした。
「ううっ……いやだ……いやだっ……!」
訳のわからない感情が埋めつくして、アドニスは机を叩いた。
側にあった燭台 が揺れる。
何度も、何度も叩き、果てはそばにあった本を壁に投げつけた。
アドニスは机に突っ伏して声を上げて泣いた。
男に死んでほしくなかった。
迎えに来てほしかった。
本当に愛していると、証明して欲しかった――。
それが嘘でも、幻でも良かった。
――いや、違う、違うんだ! 僕の心は、気高き騎士団長ユリセス様に捧げると決めたはず!
なのに――。
仮想の男が、影になって目の前に現れる。
あの嘲 るような笑い声と、優しく囁く声が交差する。
けれど……その幻の中に、ふいにユリセスの顔が混ざった。
どちらの声かも分からない言葉が、胸をえぐる。
――「愛してるよ」
心が、乱れる。
何に縋っているのかさえ、わからなくなっていた。
――ユリセス様……ユリセス様……僕を、助けて……! ……僕、自分が……何を考えているのか、もう……わかりません……!
今すぐ……ユリセスに会わなければ。
このままじゃ……壊れてしまう。
「ユリセス様……」
その時――。
教会の扉が、きぃ……と音を立てて開いた。
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