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第六章 愛を失って、神を知る 4

「カインっ!」    泣き叫びながら女性が青年のもとへ飛び込んできた。  駆け寄るその足元は裸足で、髪はぼさぼさに乱れていた。 「下がれっ!」    警備隊が女性を掴んだが、振り払って青年の手を握った。   「何かの間違いです! 優しい息子がこんなことをするはずがありません!」 「しつこい! こいつは留守中の邸宅に忍び込んで金を盗もうとしたんだ!」 「昨日の朝、カインは牛を買いに行きました! あのお金は……その時の……!」 「しつこいぞ!」     警備隊が二人がかりで女性を引き離した。   「……うううっ……カイン……カイン……」  警備隊は泣き縋る女性を力づくで引き離し、そのまま遠くへ連れて行った。    しばらくして、警備隊の一人がアドニスの方を向いた。 「失礼しました。……あれは、この男の母親です」 「……そうですか」  ――あの男にも……親がいたのか……。  男は愛されていた、親に。  ……でも、アドニスを愛する者は、もうどこにもいない。    その事実が、なにより悔しかった。    静かに頷いて、青年の手に触れた――その瞬間。 「え……」  声にならない(うめ)きが漏れる。  震える指先で手の甲を撫でる。  何度も、何度も。  ――ない。あの傷が、どこにもない……。    途端にアドニスの身体は震え始めた。    あの晩の情事がすっと頭に浮かんだ。  男の手には、アドニスがつけた切り傷があった。  何度も触ったのだから間違いない。    では、この青年は……いったい……。   「アドニス様? あまり顔色がよくないようですが……」 「……申し訳ありません、馬車に少し酔ったようで……すぐに済ませます」    アドニスはさっと弔いの儀式を済ませると、足早に馬車へと戻った。    誰にも声をかけず、誰の目も見ず――ただ、逃げるように。  胸の奥で、何かが暴れそうだった。  この動揺を、誰にも見られたくなかった。  そして、教会へ戻り、自室の扉を閉めた瞬間――。    アドニスはドアに寄りかかり、膝から崩れ落ちた。    唇がわなわなと震え出し、涙が零れた。    ――まさか、男は生きているの?    心臓が、息苦しいほどに高鳴っていく。    いや、違う。  そんなはず……ない。    男は――死んだ。  ……はずだ。  そう、きっと。  あの傷だって、本当に手の甲だった?    見たわけじゃない。  ただ……触れただけで、思い込んで……?  ――違う。違うって、言ってよ。お願いだから……。    そう納得させようとしても、信じたくない。  けれど、心は勝手に――彼の生存を願っていた。    そんな自分が、何より怖かった。    ――もし、男が生きていたら、僕を迎えに来てくれるの……?    何度首を振っても、その想いは消えてくれなかった。

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