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第七章 愛という名の赦し 1

 六日目の朝。    結局、男は来なかった。  死んだのだから当たり前のことなのに、まだ何かに縋っている自分がいた。    免罪符も、今日で最終日。  きっと、またユリセスに会える……はずなのに。  心はどこか空っぽのまま、何ひとつ戻ってきてくれなかった。  あの男の影だけが、まだ心に居座っている。   「神官様!」    声をかけてきたのは、丸い腹を揺らすように歩いてきた地主だった。   「今日は免罪符の最終日でしょう? 昼には広場に来てくださいね!」  ……ああ、そうだ。慰労会。  毎年のことなのに、今年はすっかり忘れていた。  こんな大切な行事さえ忘れていたなんて――どれだけ、あの男に囚われていたのだろう。    アドニスは軽く会釈して部屋へ戻り、そっと(まぶた)を閉じた。    やがて昼の鐘が鳴り――  広場へと足を運ぶと、村人たちが採れたての野菜や果物、卵や肉を手に迎えてくれた。 「いつも、こんなにたくさんのものをありがとうございます。皆さんの生活も苦しいのに……」 「いいんだよ! この村の神官様にはいつまでも元気でいてもらわないと!」 「そうですよ! それに、神官様のところには孤児も来るのだから、その子のために使ってくださいな」    アドニスは涙ぐみながら、村人たちに感謝の言葉を一人一人に伝えた。  しばらくして、広場の真ん中で民族楽器の演奏と共にダンスが始まった。    アドニスは広場の端にある簡易的な椅子に座り、その様子を眺めていた。    美しい音楽と一緒に衣装に身を包んだ女性が踊っている。  小さい子どもたちがそれを見よう見まねで踊り、そばにいる大人たちも笑いながら、手を叩いている。    なんて、平和なのだろう。    オアシスが広がった光景は幻で、まだ自分は砂漠の真ん中にいるような感覚がしていた。    ――なぜ、自分だけ不幸の最中にいるのだろう。    アドニスは頭を振った。    いや、もう男のことを考えるのはやめよう。  みんなが平和に生きている。  それだけで十分だ。    甘い果実の味が、ほんの一瞬だけ現実を遠ざけた――。 「そういや、最近強盗が死んだって?」    心臓がどくんと音を立てる。    一瞬で、何も聞こえなくなった。  陽気な音楽も人々が騒ぐ声も全く入らなかった。    ただ、その男たちのやり取りを、一字一句聞き逃すまいと、アドニスは静かに集中した。   「まさか、あんな若いやつが犯人とはな」 「わざわざポルタ村から、こっちに牛を買いに来たんだとよ」 「なるほど、金が足りなくてやっちまったってことか」    アドニスの身体がガタガタと震え出した。  ――ポルタ村……? ポルタ村だって……?  ポルタ村は、このリーヴェ村からかなり離れた場所にある。  馬を使っても、往復にほぼ一日かかる距離だ。  『息子は昨日の朝、牛を買いに行くと出かけました!』  母親の叫びが、耳の奥でよみがえる。  つまり、免罪符の初日から三日目の間、リーヴェ村とポルタ村を行き来していたことになる。    けれど、みすぼらしい格好の青年が、馬を買えるとは思えない。  ……本当に、来たのか?  もし最初の日に来ていたとしても、二日目、三日目はどうしたのか?  ……ずっとこの村にいた?    いや――青年は「昨日の朝まで」家にいた。    それに、青年の手……。  あるはずの傷がなかった。  情事に(ふけ)ったあの日、何度も愛を確かめるようにお互いの手を組み合って、指で男の手の甲をなぞった、あの傷がない。    アドニスの唇が震え出した。    ――だとしたら、免罪符の日に来ていた男は……。    アドニスの頬に冷たい風が当たった。   『ねぇ……本当に迎えに来ると思ってたの……?』    風に乗って、男がせせら笑った気がした。    その瞬間、アドニスの中で何かが音を立てて崩れていった。  美しい音楽は不協和音に変わり、村人たちの楽しむ顔がすべて歪んでいく。    ――僕は……あの男に騙された……?  アドニスは、感情のやり場もなく立ち上がった。    心の奥底でまだ終わっていないと思っている何かを確かめたくて、いや、ただ――  あの男の温もりが残る場所に、どうしても戻りたくて。    教会の扉を開けた瞬間、身体が勝手に動いた。    気づけば懺悔室の前。  あの扉に縋りつき、震える手で――押し開けていた。

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