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第七章 愛という名の赦し 3

「ゆ、ユリセス様!」    アドニスが声をかけると、ユリセスは安堵のため息を漏らした。   「アドニス様……免罪符中にご無礼をお許しください、どうかお会いできませんか? どうか最後にアドニス様のお顔を……」    ――最後……だって……?    その言葉に、アドニスの胸がざわついた。  すぐに懺悔室から出ると、月明かりに照らされたユリセスの姿が――そこにあった。   「ユリセス様……!」 「ああ、アドニス様……っ!」    ひしと抱きしめられ、アドニスはユリセスの背に手をまわした。  ユリセスの切ない声に自然と涙が溢れてきた。   「ユリセス様……最後とは……?」 「実は……」    ユリセスはかすかに眉を曇らせ、俯い(うつむ)たまま、押し殺すように口を開いた。   「……私は、次の戦場で先鋒(せんぽう)を任されました」  その言葉を聞いた瞬間、アドニスの背筋が凍りついた。    先鋒――それは、敵陣へ真っ先に斬り込む役目。    真っ先に、命を落とす覚悟を背負わされる立場――。   「きっと、私は生きて帰ることはないでしょう……」 「そんな……ユリセス様……」 「どうか……私の懺悔を聞いていただけませんか?」    そう言ったユリセスは、おずおずとアドニスの両手を取った。  その手は小刻みに震えている。  けれど、どこか決意を帯びた力が、指先に込められていた。  しばらく、二人のあいだに静寂が流れた。    ユリセスは何かを迷うように、そっと目を伏せる。  そして――絞り出すような声で口を開いた。   「私は……神に仕える神官とわかっていながら、ある方を愛してしまいました……」    アドニスの唇が震えた。  だんだんと身体全体が熱くなって、心臓の音が早鐘を打ち始める。   「アドニス様……あなたを愛してしまったことをどうかお赦しください……」    そんな……。    ユリセスから想いを打ち明けられて、アドニスの心は乱れていた。  あんなにも遠い存在だと思っていたユリセスが、自分のことを想ってくれている。    アドニスはうれしさのあまり、涙が溢れた。   「僕も……ユリセス様に……赦しを乞わなければなりません……」    ふと、ユリセスの瞳が揺れた。  どこか戸惑いを含んだまなざしで、アドニスをじっと見つめ返してくる。    静けさが落ちたような空気の中、アドニスはそっと目を伏せた。   「気づけば、神官であることも忘れるくらい……あなたを、深く……想ってしまっていたんです……」 「ア……っ……アドニス様……っ!」 「ユリセス様……どうかお赦しを……」    互いの想いを口にしたあと、ふたりの間に、静かな沈黙が落ちた。    アドニスはそっと顔を上げる。    そこには、まっすぐ自分を見つめるユリセスの瞳があった。  ――こんなふうに、見つめられるなんて……。  視線を外せない。    鼓動がせわしなく跳ね上がっていく。  その顔が、少しずつ近づいてくる。    あと少し。  あと――。  ユリセスの吐息が頬を撫でた瞬間、唇に柔らかな温もりが触れた。 「んっ……」  優しくて、どこか不器用な口づけだった。    けれどその温もりが、乱れていたアドニスの心を、そっと落ち着かせてくれる――。    なんて幸せなのだろう。    誰もいないしんとした教会で、村人の歓声が聞こえてくる。  たくさんの花々に囲まれ、美しい蝶が飛び回る。    そんな楽園にいるような夢心地だった。    ユリセスはアドニスの唇をついばむように何度も重ねた。  時々、ユリセスの端正な鼻がアドニスの鼻に当たる。    とてもぎこちなくて、それが愛おしく思えた。   「申し訳ありません……このようなことは不慣れでして……」 「僕も……初めてです……」    そうして、ひとしきり唇を重ねると、ユリセスは名残惜しそうに身体を離した。 「アドニス様……最後に、お願いがあります……」  唐突な響きに、アドニスは少しだけ眉をひそめた。 「……なんでしょうか」  ユリセスの瞳が、ほんのわずか伏せられる。  小さく息を吸って――彼は、静かに言った。 「私に……免罪符をください」  瞬間、アドニスの背中に冷たい衝撃が走った。  胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 「……え……?」  ユリセスはまっすぐにアドニスを見つめた。 「私は、戦場であらゆる敵兵を(あや)めました。時には、民を守るために、味方をも犠牲にしました」 「……」 「どれだけ祈りを捧げても、私の手は、もう……血で汚れすぎてしまった……」  その言葉には、言い訳も、美化もなかった。  ただの事実として、静かに告げられた。   「アドニス様、私は穢れなき身体で最後を迎えたいのです……。どうか……」    ユリセスの目から一筋の涙がこぼれた。  それは――あまりにも静かで、あまりにも美しかった。  まるでこの世界のすべての悲しみを受け入れて、それでも誰かを愛そうとする者の、穢れなき祈りのようで。  思わずアドニスは、言葉を忘れて見とれた。  初めて会ったあの日と同じ、いや……あのとき以上に、胸を打たれる。  こんなにも、心を掴まれるなんて――。   「どうか……アドニス様……」    ユリセスの切ない声が、胸の奥でやさしく反響する。  ――好きで、戦場に向かう者なんていない。  明日を生きられるかもわからない不安の中で、命を懸けて誰かを守る人がいる。  ユリセスも、きっと……そのたびに、何かを失ってきたのだ。  アドニスは静かに目を伏せ、唇を噛みしめた。 「……免罪符を渡す前に、一つだけお願いがあります」 「なんなりと」 「……帰ってきてください。必ず、僕のもとへ」 「……ええ。約束します。アドニス様のもとへ、必ず……」  それが、守られぬ約束だとしても――アドニスは、こくんと頷いた。 「ユリセス様……それでは手をお出しください」  アドニスが手を差し出すと、ユリセスも迷いなく応えた。  指先が触れる。  ゆっくりと、掌が重なる――。  その瞬間。  何かが、冷たい稲妻のように、アドニスの背を走った。 「っ……!」  反射的に、手を引いた。  世界が音を失ったかのように静まり返る。  身体が、一瞬で凍りついた。  額に滲んだ汗が、皮膚を這う感覚だけがやけに鮮明で――。  ――違う。……この手は……ユリセス様のものじゃない。    会いたかった。  ずっと夢に見ていたのに。    ユリセスの美しい顔が、見知らぬ誰かの影に重なっていくようで――胸の奥が、ぎゅっと軋んだ。  

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