56 / 66

第七章 愛という名の赦し 4

「アドニス様……?」    ユリセスが覗き込んだ瞬間、反射的に身を引いた。    ――なぜ……なぜなの、ユリセス様……。    ザラッとした感触。  まったく同じ、大きさ、深さ、位置。    まさにあの男と同じ傷が、ユリセスの手の甲にあった。  アドニスの喉が詰まり、かすれた声が零れた。   「ゆ……ユリセス様……その傷は……?」    ユリセスは眉をぴくりと動かすと、すぐに柔らかな表情を浮かべた。   「……ああ、これは賊にやられてしまいまして……」    心臓がどくんと鳴る。  あの男にそっくりな――抑揚のない言い方。    アドニスは一歩また一歩と後ずさった。 「本当……ですか?」 「ええ」  ユリセスの瞳が、ゆっくりと、黒く、深く染まっていく。  あの優しく微笑んでいた瞳が、もうそこにない。 「傷は……いつ、つけられたのですか……?」 「これは……確か五日前でしたか? ちょうど――免罪符初日ですね」  心臓が跳ね上がる。    くすっと笑ったユリセスは、悪魔にしか見えなかった。 「なぜ、そこまで傷にこだわるのです?」  ユリセスの視線が、すっと冷たくなった。  アドニスはその圧に(ひる)みながら、震える唇で声を絞り出した。   「……僕は免罪符の初日に強盗犯と会いました……」    一瞬、ユリセスの口角が上がった。   「……ナイフで……手を切りつけたんです。あの男に……」 「それで?」    身体が震える。  足元に力が入らない。  ユリセスの声が、もうあの男のものにしか聞こえなかった。    背中を伝う汗の感覚さえわからないほど、頭の中はぐちゃぐちゃだった。 「僕は……そのあと、強盗犯の……弔いに行きました……」  ユリセスの視線が刺さる。    喉がひゅっと縮まる。  それでも、声を絞り出した。   「……処刑された男の手には……傷が、なかったのです」 「ほう……」    ユリセスの瞳から、とうとう光が消えた。   「ゆ、ユリセス様……その傷はもしや……」    後ずさりしていると、ちょうど背中にセレア像が当たった。  静寂が、背後から突き刺さるように重くのしかかる。    ……もうこれ以上は、逃げられない。    ぎゅっと目を瞑った胸の奥で、静かに何かが芽吹くのを感じた。  ――どうして、こんなときに……。  まるで冬の土の下で、ひっそりと膨らむ蕾のように。  その正体がわからず、ただ、温度だけが心を満たしていく。  ――僕の知らないところで、僕のすべてを知ってくれていたのが……。    ――あの人でありますように……。  その願いが口をついて出る寸前で、理性が叫ぶ。  ――違う、違うんだ! そんなこと、あってはならない!  あの男は、罪のない人々を弄び、命さえ奪った。  僕が愛すべきは、民を守り、清くあるべき騎士団長ユリセス様だけ。    それなのに――。  胸の奥で響く声が、かすかに震えていた。  ……どうして……どうして、ユリセス様があの男であってほしいなんて……。  そんな、おぞましい願いをしてしまうんだ……僕は……。  ユリセス様は気高く美しい御方……なのに……!  そのとき――。  どこからか、ふっと息を呑むような気配がした。  アドニスが顔を上げるより早く、静寂を破るように――。   「ふふっ……ははっ、ははははははは……!」    ユリセスが、狂ったように笑い出した。  その声を聞いた瞬間――。    もう、その男に名は要らなかった。

ともだちにシェアしよう!