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第七章 愛という名の赦し 4
「アドニス様……?」
ユリセスが覗き込んだ瞬間、反射的に身を引いた。
――なぜ……なぜなの、ユリセス様……。
ザラッとした感触。
まったく同じ、大きさ、深さ、位置。
まさにあの男と同じ傷が、ユリセスの手の甲にあった。
アドニスの喉が詰まり、かすれた声が零れた。
「ゆ……ユリセス様……その傷は……?」
ユリセスは眉をぴくりと動かすと、すぐに柔らかな表情を浮かべた。
「……ああ、これは賊にやられてしまいまして……」
心臓がどくんと鳴る。
あの男にそっくりな――抑揚のない言い方。
アドニスは一歩また一歩と後ずさった。
「本当……ですか?」
「ええ」
ユリセスの瞳が、ゆっくりと、黒く、深く染まっていく。
あの優しく微笑んでいた瞳が、もうそこにない。
「傷は……いつ、つけられたのですか……?」
「これは……確か五日前でしたか? ちょうど――免罪符初日ですね」
心臓が跳ね上がる。
くすっと笑ったユリセスは、悪魔にしか見えなかった。
「なぜ、そこまで傷にこだわるのです?」
ユリセスの視線が、すっと冷たくなった。
アドニスはその圧に怯 みながら、震える唇で声を絞り出した。
「……僕は免罪符の初日に強盗犯と会いました……」
一瞬、ユリセスの口角が上がった。
「……ナイフで……手を切りつけたんです。あの男に……」
「それで?」
身体が震える。
足元に力が入らない。
ユリセスの声が、もうあの男のものにしか聞こえなかった。
背中を伝う汗の感覚さえわからないほど、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「僕は……そのあと、強盗犯の……弔いに行きました……」
ユリセスの視線が刺さる。
喉がひゅっと縮まる。
それでも、声を絞り出した。
「……処刑された男の手には……傷が、なかったのです」
「ほう……」
ユリセスの瞳から、とうとう光が消えた。
「ゆ、ユリセス様……その傷はもしや……」
後ずさりしていると、ちょうど背中にセレア像が当たった。
静寂が、背後から突き刺さるように重くのしかかる。
……もうこれ以上は、逃げられない。
ぎゅっと目を瞑った胸の奥で、静かに何かが芽吹くのを感じた。
――どうして、こんなときに……。
まるで冬の土の下で、ひっそりと膨らむ蕾のように。
その正体がわからず、ただ、温度だけが心を満たしていく。
――僕の知らないところで、僕のすべてを知ってくれていたのが……。
――あの人でありますように……。
その願いが口をついて出る寸前で、理性が叫ぶ。
――違う、違うんだ! そんなこと、あってはならない!
あの男は、罪のない人々を弄び、命さえ奪った。
僕が愛すべきは、民を守り、清くあるべき騎士団長ユリセス様だけ。
それなのに――。
胸の奥で響く声が、かすかに震えていた。
……どうして……どうして、ユリセス様があの男であってほしいなんて……。
そんな、おぞましい願いをしてしまうんだ……僕は……。
ユリセス様は気高く美しい御方……なのに……!
そのとき――。
どこからか、ふっと息を呑むような気配がした。
アドニスが顔を上げるより早く、静寂を破るように――。
「ふふっ……ははっ、ははははははは……!」
ユリセスが、狂ったように笑い出した。
その声を聞いた瞬間――。
もう、その男に名は要らなかった。
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