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第七章 愛という名の赦し 6
足元がもつれながらも、アドニスは一直線に教会の扉へ駆けた。
取っ手に手をかけ、渾身の力で引いた――けれど、扉は微動だにしなかった。
「残念だけど、内側から開かないようにしちゃった」
喉を鳴らすような嘲笑が背後から響いた。
ユリセスの足音がゆっくりと、確実に近づいてくる。
汗が額を伝い、指先がかすかに震えた。
――ダメだ、逃げなきゃ。ここにいたら、また……!
裏口に向かうには、ユリセスの目の前を通らなければならない。
それは捕まれにいくようなものだった。
「アドニスー、鬼ごっこしたいのー?」
教会に響く、底抜けに無邪気な声。
アドニスは反射的に視線を懺悔室へ向けた。
――あそこなら……!
まるで救いを求めるように、アドニスは懺悔室に飛び込んだ。
窓の位置は低い。
机さえ動かせば、外へ逃げられる。
まずは鍵だ。
何よりも先に、あの扉を閉めなければ。
扉に手を伸ばし、鍵へと指を伸ばした。
そのときだった。
静まり返った空間に、氷のような声が、上からぽたりと落ちてきた。
「……本当はね、殺すつもりだったんだよ」
アドニスはびくりと振り向いた。
懺悔室の小窓の向こうに、ユリセスの瞳があった。
静かで、まっすぐで、何ひとつ感情を隠していない目。
あの日と同じ、獣のような飢えた瞳に身体が震えた。
「修道士も神官も、神を名乗るやつらを皆殺しにしようと思ってた。でも……気づいたら、愛してた」
滴る汗が瞼を刺す。
アドニスは瞬きをして、視界を無理やり正気に戻した。
――鍵を、閉めないと。
「一緒にいて、初めて幸せになれた。だから……俺のものにしたいと思った。身体も心も全部」
ユリセスから言葉が紡がれるたびに、鍵に触れたはずの指が、ただ空を彷徨っていた。
なぜか、身体が言うことを聞かなかった。
「アドニス……信じて。あの夜、俺が言ったこと――あれだけは、本物だった。アドニスには嘘をつきたくなかったんだ」
一瞬、胸の奥に、何かが引っかかる。
――そんなわけ、ない。
あれは全部、騙すための言葉だった。
僕を、縛るための嘘だった。
……なのに。
鼓動が、ひとつ跳ねた。
ユリセスの声が、熱を帯びて胸の奥に染み込んでいく。
まるで、本当に――あの夜だけは、嘘じゃなかったって。
ダメだ。
そんなの、信じちゃいけない。
逃げなきゃ。
拒まなきゃ。
信じたら、もう二度と戻れなくなる……!
自分の指先が、意思ではなく、欲望に縛られているかのように動けなかった。
――ダメだ、アドニス! 鍵を……! 逃げなきゃ……ユリセス様から……!
「……アドニス……愛してるよ」
……言葉が、胸の奥に落ちてきた。
静かに、深く、どうしようもないほど優しくて。
張りつめていた糸が、音もなくぷつりと切れた。
……心の奥にある何かが、じわじわと染み出してくる。
あの夜――懺悔室で与えられた快楽の記憶。
――あれは全部、ユリセスだった。
声も、顔も――あの夜の記憶が、ユリセスの姿で脳裏に重なる。
その瞬間、アドニスの心がかすかに揺れた。
あの手が、また自分を壊しにくる。
優しく? それとも、冷たく?
想像の中で、蕾が疼いた。
恐怖に引きつる身体の奥で、悦びがひたひたと膨らんでいく――そんな自分が、何より恐ろしかった。
――逃げなきゃいけないのに。どうしてこんな時に、そんな想像を……っ。
鼓動がドクドクと高鳴る。
ユリセスの足音が、また一歩ずつ近づいてきた。
『閉めなさい!』
怒号のような声が、頭の奥に響いた。
――お願いです……! 神よ、どうか……この手に力を……!
震える指が、鍵に触れた。
ほんの一瞬、教会全体が静止したようだった。
その瞬間――
身体が神の力を拒否した。
……そうだ……。
……閉めなかったら……また、あの夜に堕ちるんだ。
赦されなくても、誰にも認められなくてもいい。
あの地獄に、もう一度堕ちたかった。
指先はもう、鍵を見てすらいなかった。
伸ばした手が、自然と落ちた。
鍵を――閉めたくなかった。
欲望に尻尾を振るように、自然と舌がだらりと垂れる。
キィ……と、ゆっくりと扉が開いた。
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