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第七章 愛という名の赦し 10 ⭐

 ――何を……何を言っているの……。  考えるより早く、口の中から嫌な味が広がった。   「ご、ご主人様……?」 「村人を守るためなら、俺の言うことを聞く――そう言ってたね。自分を犠牲にしてでも他人を守るなんて……アドニスは、本当に素晴らしいよ」  言葉が、耳の奥を素通りしていった。  演技なんかじゃない。  信仰なんて……とうに壊れていた。  村人のことなんて、もう考えたこともなかった。  ――僕は……ただ……ご主人様の……そばにいたいだけ……。 「だから、アドニスは連れて行けない」  身体が一瞬で凍りつく。  頭と心が追いつかない。  ――連れていけない……? 「嘘……ご主人様……連れて行ってくれるよね……?」  手を伸ばした。  ようやく、優しいユリセスの顔に指先が届いた、そのとき――。  パンッ。  乾いた音と共に、その手が払われた。 「いや」    心臓が冷え込んでいくのを感じた。  理解が追いつかない。  どうしてが、頭の中で何度も反響する。 「ご主人様ぁ……つ、連れて行って……」 「もう演技しなくていいんだよ?」  冷えきった声。  慈しみのかけらもない視線。 「いやぁっ! いやだぁっ! ご主人様ぁっ! お願い! お願いです! 僕を連れて行ってぇっ!」  喉が枯れるほど叫んだ。  涙がひっきりなしに溢れた。  ユリセスの足にしがみつき、懇願の言葉を繰り返した。 「僕を……ひとりにしないで……お願いです……」 「アドニスには村人も神様もいるじゃない? 一人じゃないよ?」  その言葉で――村の記憶がふっと浮かぶ。  笑い声。  やさしい手。  自分を慕う瞳たち。  だけど。  そのどれもが、今は遠く霞んでいく。  ユリセスだけが、心の中にいた。 「うう……ご主人様ぁ……ほんとうに……ご主人様だけなんです……なんでもします、なんでもしますから……どうか、そばにいさせて……」 「なんでも?」  ユリセスの口元がゆっくり吊りあがった。 「じゃあ……神に逆らう覚悟はある?」  瞬時に瞳孔が開いた。    ――神に、逆らう……?  アドニスはその言葉が意味するものを理解した。  神も、人も、神官としての自分すらも――すべて、捨てなければならないのだ。 「あ……うあ……」  身体が小刻みに震え始める。  口にしてしまえば、もう二度と戻ってこられない。  深く暗い場所に、自ら飛び込むことになる。  自分を失って、全てを投げ出すことが、初めて怖いと思った。    口ごもるアドニスを見つめ、ユリセスの目がすっと細くなる。  その瞳から、ほんのわずかな情も消えていた。 「……そう。結局、それまでなんだね」  低く落ちた声は、感情のない氷塊のようだった。  ユリセスは無言のまま、アドニスの髪を掴む。  乱暴で、容赦のない手つきで――その顔を自分の目の前へと引き寄せた。   「ひっ……!」  恐怖に目を見開いたアドニスを、氷のような視線が貫いた。 「――二度と、俺をご主人様と呼ぶな」  身体が、空気が、瞬時に凍りついた。  その声には、凍てつくような怒気が含まれていた。  静かであるほどに怖くて、拒絶の刃が心の奥まで突き刺さるようだった。  その時、アドニスの心に走ったのは喪失だった。  神を失うよりも――ユリセスに見捨てられるほうが、恐ろしかった。    ふいに、ユリセスの視線が、アドニスから逸れた。  まるで目の前の存在が、すでに「興味を失った玩具」だと言わんばかりに。  応えはない。  アドニスの言葉も、涙も、もう届かない。  ユリセスはひとつ、静かに息を吐くと――  アドニスの手を乱暴に振り払った。  まるで、「もう俺に触れるな」とでも言うように。    アドニスの中で、なにかが――  ぽきり、と音を立てて折れた。  ――もう、人には戻れない。    それでも、声は止まらなかった。  祈りなんて、とうに届いていなかった。 「……ご主人様ぁ……」  声にならない声で、空気を震わせる。  そばにある欲棒がアドニスを狂わせる。  息が漏れ、舌が甘くこぼれた。  信仰も、誓いも、もう何の意味もなかった。    ただ、ユリセスのそばにいることだけが――  生きる理由だった。   「……僕……神官を……辞めます……」  ……もう、ユリセスに赦されるなら、それだけでよかった。  もう一度、ユリセスの欲棒を握りしめて舌を這わせた。  まるで――誓いのキスをするように。    ユリセスは動かなかった。  長い沈黙ののち――ユリセスの口元が、満足げに、ゆっくりと吊りあがった。  それは、ようやく手に入れた所有物に向ける、絶対者の笑みだった。

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