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2 1日目ー1回目の注射と食事
凜が俺の足の上に陣取り、その場所から俺を見下ろしている。
軽く首を傾げながら、微笑を浮かべたその表情は──いつもと同じだった。
「番って……なんで……?」
俺がそう聞くと、凜はにっこりと笑っただけで答えなかった。
まるで、言うまでもないことのように。
「服、少しめくるね?」
するり、とシャツの端がわき腹から持ち上げられる。
その仕草に一切の逡巡はなく、指先が冷たい空気を連れて肌に触れたかと思うと──
凜は迷いなく注射器を俺のわき腹に刺した。
チクリ。
まるで蚊に刺されたような軽い刺激だけが、残った。
「…………え?」
ほぼ無痛だった。拍子抜けするほど。
そして、特に何も起こらない。
「な、なんだよ……効かないじゃん……」
俺が呟くと、凛がゆっくりと頷いた。
「……そうだね。でも、あと8回あるから」
「は???」
思考が、ぴたりと止まる。
意味が、わからない。
「8回?」
凛は穏やかに笑う。
「うん。全部で9回投与するんだ。1日3回。そうすれば、君はちゃんとΩになる」
「…………」
理解が追いつかない。
いや、理解したくないのかもしれない。
「いや、お前さ……本気で言ってんのか?」
「うん、本気だよ」
当然のように頷く凛に、背筋がぞくりと冷えた。
「冗談だろ……こんなもんで俺がΩになるわけがない」
自分の言葉にすがるように、安心しようとする。
でも、凛は。
「大丈夫だよ、ちゃんと効くから。失敗はないよ」
その一言だけは、妙に確信めいていた。
声の温度が、どこまでも静かだった。
──それから、数時間。
何も変わらない。……変わるはずがない。
そんな都合のいい薬、あるわけがない。
俺は手枷を外す方法を考えながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
凛は、少し前からこの部屋を離れていた。
それまでは俺に水を飲ませたり、毛布を整えたりと甲斐甲斐しく世話を焼いていたが、今はどこかで何かを準備しているらしい。
……今のうちに、逃げる方法を考えないと。
「……くそ、これどうにか……」
足を動かしてみる。
──カチャン。
手と同じように金属の音が響いた。
四肢はすべて繋がれている。
動ける範囲は、限られていた。
ここは、どこなんだ。
ベッドの構造、壁の材質、ドアのつくり。
目を凝らして視線を走らせる。
小さな違和感ひとつが、逃げ道になるかもしれない。
(落ち着け。とにかく、手を自由にする方法を……)
そう思った瞬間。
「……っ」
じんわりと、体の奥から熱が湧き上がってきた。
皮膚の裏に、濡れた布を当てられたような感覚。
「……なんか、暑い」
ぼそっと呟いた声が、自分の耳に妙に熱を含んで聞こえる。
室温のせいか?
いや、さっきまで何ともなかった。
……気のせい、か?
「ああ、兆候が出てきたね」
不意に声がして、肩がビクッと跳ねる。
「っ……!」
いつの間にか、凛がベッドの横に戻ってきていた。
手には銀色のトレー。上には器と、小さなスプーンが乗っている。
「兆候とか言うな!!!!!」
ムカついた勢いで叫ぶと、凛はくすりと笑った。
「ちゃんと進んでる証拠だよ」
「進んでねぇわ!」
……でも。
体の中の変化が、否定できない。
喉が渇く。
皮膚が敏感になる。
呼吸が、熱を持って胸の中に沈む。
「……なんだよ、これ……」
心臓の鼓動が、やけにうるさく響く。
内側から自分が異物になっていくような感覚。
「れーちゃん、ご飯にしよっか」
唐突な言葉に、思わず眉をひそめた。
「……は?」
「お腹空いたでしょ?」
「いや、こんな状況で飯とかいう流れになるか?」
「なるよ。だって食べないと、体調崩しちゃうし」
凛が、俺に近づいてくる。
距離を取ろうにも、拘束された体ではそれもできない。
凛はトレーをベッドサイドのテーブルに置き、一度しゃがんで何かを取る。
それは、ベルトのようなものだった。
俺の脇下へと通し、カチン、と留め具を留める。
体がベッドに固定されたのが、明確にわかった。
次の瞬間──
カチッ。
「……っ、なっ……!」
静かに、ベッドが動き出した。
俺の上半身がゆっくりと持ち上がり、強制的に起き上がる姿勢になる。
「これ……っ!」
身をよじるが、脇に回されたベルトが逃げ場を与えてくれない。
「暴れないで、大丈夫だから」
凛がリモコンを操作しながら、当たり前のように言う。
「……これ、なんだよ」
「れーちゃんが食べやすいように、支えてあげるベルトだよ」
「……」
嘘だ。
それはどう見ても“固定するための器具”だった。
「手枷はそのまま。足枷もついてるけど、これなら上半身は起きられるでしょ?」
事務的な口調で、凛が言う。
「さ、食べよっか」
トレーから器を取り出し、スプーンを手に取る。
「……ふざけんな。自分で食える」
「でも、手が動かないよね?」
手枷のせいで、手首の自由がほとんど利かない。
届かないわけではないが、まともに食べられる状態じゃない。
「……」
「はい、口開けて?」
「……っ」
反抗の言葉を探しても、口から出ない。
凛は、そのまま待ち続けた。
声を荒げることもなく、ただじっと。
「……クソが……」
結局、俺は渋々口を開けた。
温かいスープが、ゆっくりと口の中に流れ込んでくる。
火傷をしない絶妙な温度。
舌の上でほどける塩気と、だしの香り。
「……これ、お前が作ったのか?」
「あたりまえじゃない」
当たり前のように言う凛の顔には、誇らしげな色さえ浮かんでいた。
「ちゃんと栄養バランス考えたんだよ」
「……監禁してるくせに、バランスは気にするのかよ」
「大事なことだからね」
凛は、微笑んだまま言った。
「ちゃんと健康じゃないと、体がうまく変化しないでしょ?」
「……」
「Ωになっても、ちゃんと元気でいてもらわないと困るから」
ああ。
やっぱりこいつは、ヤバい。
分かっていたことだけど、改めて実感する。
「俺はΩにならねぇっつってんだろ」
「うん。でも、なるよ」
「……っ、お前……」
「安心して、全部うまくいくから」
「ふざけんなよ、凛!!」
俺がいくら叫んでも、凛は穏やかに微笑むだけだった。
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20250831:改稿
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