3 / 35

2 1日目ー1回目の注射と食事

凜が俺の足の上に陣取り、その場所から俺を見下ろしている。 軽く首を傾げながら、微笑を浮かべたその表情は──いつもと同じだった。 「番って……なんで……?」 俺がそう聞くと、凜はにっこりと笑っただけで答えなかった。 まるで、言うまでもないことのように。 「服、少しめくるね?」 するり、とシャツの端がわき腹から持ち上げられる。 その仕草に一切の逡巡はなく、指先が冷たい空気を連れて肌に触れたかと思うと── 凜は迷いなく注射器を俺のわき腹に刺した。 チクリ。 まるで蚊に刺されたような軽い刺激だけが、残った。 「…………え?」 ほぼ無痛だった。拍子抜けするほど。 そして、特に何も起こらない。 「な、なんだよ……効かないじゃん……」 俺が呟くと、凛がゆっくりと頷いた。 「……そうだね。でも、あと8回あるから」 「は???」 思考が、ぴたりと止まる。 意味が、わからない。 「8回?」 凛は穏やかに笑う。 「うん。全部で9回投与するんだ。1日3回。そうすれば、君はちゃんとΩになる」 「…………」 理解が追いつかない。 いや、理解したくないのかもしれない。 「いや、お前さ……本気で言ってんのか?」 「うん、本気だよ」 当然のように頷く凛に、背筋がぞくりと冷えた。 「冗談だろ……こんなもんで俺がΩになるわけがない」 自分の言葉にすがるように、安心しようとする。 でも、凛は。 「大丈夫だよ、ちゃんと効くから。失敗はないよ」 その一言だけは、妙に確信めいていた。 声の温度が、どこまでも静かだった。 ──それから、数時間。 何も変わらない。……変わるはずがない。 そんな都合のいい薬、あるわけがない。 俺は手枷を外す方法を考えながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。 凛は、少し前からこの部屋を離れていた。 それまでは俺に水を飲ませたり、毛布を整えたりと甲斐甲斐しく世話を焼いていたが、今はどこかで何かを準備しているらしい。 ……今のうちに、逃げる方法を考えないと。 「……くそ、これどうにか……」 足を動かしてみる。 ──カチャン。 手と同じように金属の音が響いた。 四肢はすべて繋がれている。 動ける範囲は、限られていた。 ここは、どこなんだ。 ベッドの構造、壁の材質、ドアのつくり。 目を凝らして視線を走らせる。 小さな違和感ひとつが、逃げ道になるかもしれない。 (落ち着け。とにかく、手を自由にする方法を……) そう思った瞬間。 「……っ」 じんわりと、体の奥から熱が湧き上がってきた。 皮膚の裏に、濡れた布を当てられたような感覚。 「……なんか、暑い」 ぼそっと呟いた声が、自分の耳に妙に熱を含んで聞こえる。 室温のせいか? いや、さっきまで何ともなかった。 ……気のせい、か? 「ああ、兆候が出てきたね」 不意に声がして、肩がビクッと跳ねる。 「っ……!」 いつの間にか、凛がベッドの横に戻ってきていた。 手には銀色のトレー。上には器と、小さなスプーンが乗っている。 「兆候とか言うな!!!!!」 ムカついた勢いで叫ぶと、凛はくすりと笑った。 「ちゃんと進んでる証拠だよ」 「進んでねぇわ!」 ……でも。 体の中の変化が、否定できない。 喉が渇く。 皮膚が敏感になる。 呼吸が、熱を持って胸の中に沈む。 「……なんだよ、これ……」 心臓の鼓動が、やけにうるさく響く。 内側から自分が異物になっていくような感覚。 「れーちゃん、ご飯にしよっか」 唐突な言葉に、思わず眉をひそめた。 「……は?」 「お腹空いたでしょ?」 「いや、こんな状況で飯とかいう流れになるか?」 「なるよ。だって食べないと、体調崩しちゃうし」 凛が、俺に近づいてくる。 距離を取ろうにも、拘束された体ではそれもできない。 凛はトレーをベッドサイドのテーブルに置き、一度しゃがんで何かを取る。 それは、ベルトのようなものだった。 俺の脇下へと通し、カチン、と留め具を留める。 体がベッドに固定されたのが、明確にわかった。 次の瞬間── カチッ。 「……っ、なっ……!」 静かに、ベッドが動き出した。 俺の上半身がゆっくりと持ち上がり、強制的に起き上がる姿勢になる。 「これ……っ!」 身をよじるが、脇に回されたベルトが逃げ場を与えてくれない。 「暴れないで、大丈夫だから」 凛がリモコンを操作しながら、当たり前のように言う。 「……これ、なんだよ」 「れーちゃんが食べやすいように、支えてあげるベルトだよ」 「……」 嘘だ。 それはどう見ても“固定するための器具”だった。 「手枷はそのまま。足枷もついてるけど、これなら上半身は起きられるでしょ?」 事務的な口調で、凛が言う。 「さ、食べよっか」 トレーから器を取り出し、スプーンを手に取る。 「……ふざけんな。自分で食える」 「でも、手が動かないよね?」 手枷のせいで、手首の自由がほとんど利かない。 届かないわけではないが、まともに食べられる状態じゃない。 「……」 「はい、口開けて?」 「……っ」 反抗の言葉を探しても、口から出ない。 凛は、そのまま待ち続けた。 声を荒げることもなく、ただじっと。 「……クソが……」 結局、俺は渋々口を開けた。 温かいスープが、ゆっくりと口の中に流れ込んでくる。 火傷をしない絶妙な温度。 舌の上でほどける塩気と、だしの香り。 「……これ、お前が作ったのか?」 「あたりまえじゃない」 当たり前のように言う凛の顔には、誇らしげな色さえ浮かんでいた。 「ちゃんと栄養バランス考えたんだよ」 「……監禁してるくせに、バランスは気にするのかよ」 「大事なことだからね」 凛は、微笑んだまま言った。 「ちゃんと健康じゃないと、体がうまく変化しないでしょ?」 「……」 「Ωになっても、ちゃんと元気でいてもらわないと困るから」 ああ。 やっぱりこいつは、ヤバい。 分かっていたことだけど、改めて実感する。 「俺はΩにならねぇっつってんだろ」 「うん。でも、なるよ」 「……っ、お前……」 「安心して、全部うまくいくから」 「ふざけんなよ、凛!!」 俺がいくら叫んでも、凛は穏やかに微笑むだけだった。 -------------------- 20250831:改稿 リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪ -------------------

ともだちにシェアしよう!