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4 1日目ーそして羞恥は続く

沈黙が、痛いほど重かった。 耳鳴りがしているわけでもないのに、空間そのものが自分を圧迫してくるようだ。 凛は何も言わない。 ただ、こちらをじっと見ていた。 呼吸だけが、やけにうるさく響いていた。 (……無理……こんな……無理に決まってんだろ……) 頭では分かっている。 誰だって、そう言うだろう。 用を足すだけ──それだけのことだと。 でも。 体が、まるで石になったみたいに動かない。 “見られている” それだけで、身体というものはこんなにも融通の利かなくなるものなのか。 背中に、ぬるい汗が流れていく。 シャツがじっとりと肌に貼りついて気持ち悪い。 それを振り払うことすらできない。 (……視線が、刺さる……) 逃げたい。 でも、足枷が、重く足首を引き止めている。 「……出ない?」 不意に、凛の声が落ちてきた。 その声音はやわらかいのに、鼓膜に触れた瞬間、鋭く反響する。 「っ……!」 反射的に肩が跳ねた。 顔を上げるのが怖い。 目が合えば、何かが決定的に崩れてしまう気がした。 「大丈夫。ゆっくりでいいよ」 優しい。 その優しさが、苦しい。 追い詰められている自分を見透かされているみたいで、逆に逃げ道を失っていく。 「れーちゃん?」 名前を呼ばれるたびに、心がざわつく。 まるで、飼い主に呼ばれた犬みたいに反応してしまう自分が情けない。 「……もう、いい……」 ようやく吐き出せたのは、かすれた声だった。 自分でも驚くほど、弱々しい。 俺は服を整える。 ベルトを締める気力すら湧かない。 自分の行動が、全て“諦め”に染まっているのがわかる。 凛は一瞬だけ沈黙したあと、ふわりと笑った。 「……そっか」 それだけを言って、俺の腕を引いた。 「じゃあ、戻ろっか」 有無を言わせない口調でもない。 だけど俺には、逆らう力も、言葉も、もう残っていなかった。 「……ちくしょう……」 かすれた声で毒づくが、響かない。 足枷に引きずられるような歩幅で、部屋へと戻される。 凛の手が、優しく俺の手を包むように引いていた。 まるで恋人みたいなふるまいに、ゾッとする。 「お疲れさま」 凛が微笑む。 俺をベッドへと優しく押し戻しながら。 「頑張ったね」 優しすぎる声が、皮肉みたいに耳を撫でた。 「頑張ったんじゃねぇ……」 言葉にしてみたけれど、自分でもその弱さにうんざりする。 声に力がなく、ただ空気に消えていく。 「ううん、ちゃんと偉かったよ」 凛の手が、俺の髪を撫でる。 その手つきがあまりにも自然で── 「っ……触んな……!」 怒鳴ったつもりだった。 けど、その言葉は震えて、ただの拒絶にもなりきれなかった。 「ふふ、ごめんね」 微笑み。 謝罪の言葉。 だけど、そこに“反省”は一滴もなかった。 怒りたいのに。 逃げたいのに。 ──もう、何もできない。 (……なんだよ、これ……) 悔しい。 惨めだ。 無様だ。 でも、反発すればするほど自分の惨めさを実感するだけだった。 (いやだ……こんなの……) シーツの感触が、妙に冷たい。 どこかに火照りを残したまま、体が沈んでいく。 筋肉の力が抜けていき、ベッドに溶けていくような錯覚。 「疲れたよね。れーちゃん、休んでいいよ」 優しい声が、毛布越しに降りてくる。 頭の位置に凛の手があって、寝ぐせをそっと直している気配がする。 「少し寝たら、楽になるよ」 (楽になんて……なるわけねぇ……) そう思った瞬間、じんわりと下腹に違和感が広がった。 (……あ……そうだ……) 結局、行ってない。 トイレに。 尿意はある。確かにある。 けど、あの地獄を繰り返すくらいなら、まだ我慢できる。 (……絶対、あんなもん使うか……) けど意識すればするほど、気になる。 喉が乾くように、意識の端でちらつき続ける。 (……めんどくさ……) 考えるのも億劫になって、俺は目を閉じた。 ※ 「れーちゃん、こっち!」 声がした。 まっすぐで、澄んだ子どもの声。 俺は、小さな自分になっていた。 靴の中に草が入るのも気にせず、夢中で走っていた。 草むらの先。 いつもの庭。 見慣れた木と風と、凛の小さな背中。 「早くー!」 「分かってるってば!」 笑いながら、息を切らして駆け寄る。 心が軽い。体も軽い。 「れーちゃんの夢って、なに?」 ふと、凛が立ち止まって訊ねた。 「夢……?」 俺はちょっとだけ考えて、答える。 「……強いαになって、すげー俳優とか、かな」 家族の影響。 幼い頃の単純な願望。 「ふーん」 凛が、少し笑った。 「でも、どこに行っても、れーちゃんはれーちゃんだよね」 「……?」 「僕も、ずっと一緒にいるから」 風が吹いた。 葉が揺れて、陽の光がきらめいた。 ──そのとき、何かがざわついた。 (……今の……) 子どもの俺は、何も気づかない。 でも、今なら分かる。 「れーちゃん、ずっと一緒だよ」 声が、風に混じって耳の奥にしみこむ。 その瞬間、世界が、少しずつ滲み始めた。 (……あれ……) 視界がぼやける。 音が遠のく。 夢が、終わっていく。 -------------------- 20250831:改稿 リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪ -------------------

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