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9、1日目ー凜の願いとその日の終わり
「……くそ……」
喉の奥から漏れるような声だった。
深く息を吐き、震える指先で顔を覆う。
(……考えるな……余計なことは……)
思考を止めなければ、まともでいられない。
自分にそう言い聞かせた、まさにその瞬間――
――ガチャ。
浴室の扉が開く音。反射的に、全身の筋肉がこわばる。
(……っ……!!)
「お待たせ、れーちゃん」
やけに柔らかな声が、空気の中へ落ちる。
タオルで濡れた髪を拭いながら、凛が戻ってきた。
シンプルな部屋着に包まれたその姿は、あまりに自然で、いつも通りで、
――けれど、その“いつも”が今は恐ろしい。
(……また、その顔……いつもの、凜……)
俺がどれだけ拒絶し、縋り、怒りを滲ませようとも。
この男は、ひとつも変わらない。
変えられないまま、俺という人間を支配し続けている。
「……っ……」
思わず声を飲み込む。
柔らかな毛布にくるまれていても、寒気はひどく、皮膚の下を爪でひっかかれるような痛みがある。
「どうしたの?」
まるで状況を楽しむように、凛はベッドの縁に腰掛ける。
近づくだけで、息が詰まった。
隣にいるだけで、吐き気がするのに。
その存在が、この空間での“日常”として機能している現実が、何よりも恐ろしい。
(……聞かないと……)
逃げることも抗うこともできない。
ならばせめて、正体を。目的を。
こいつの本心を確かめておかないと――。
「…………お前……どういうつもりなんだよ……」
言葉が唇から零れるまでに、かなりの時間がかかった。
絞り出すように問うた俺に、凛はまたあの表情で首をかしげる。
「どういうつもりって?」
「こんなことして、俺をどうしたいんだよ……」
目の奥が、じりじりと熱い。
怒りも、恐怖も、混ざっていた。
なのに――凛は、少しも動じなかった。
「えぇ……?僕言ったよね?」
そのまま、指先がふわりと頬に触れる。
「れーちゃんを、Ωにして、僕の番にするんだよ」
(――!!!!!!)
わかっていた。わかっていた答えだ。
けれど、耳の奥で、鼓膜が弾けたような感覚がした。
理解していたつもりだった。
でも、それを“音”として、セリフとして、口にされたその瞬間――
すべての理屈が飛んだ。
「……っ……!!!」
全身を包む寒さと、ぞわりと這い上がってくる粘つく熱。
皮膚が裏返りそうな感覚のまま、震えが止まらなかった。
(……こいつ、本気で……!!)
「っ……!!」
息が詰まった。酸素が喉をすり抜けていかない。
なのに目だけがはっきりと開いていた。
見たくないものを焼きつけてくる、この光景を。
「……ふざけんな……っ!!!」
怒鳴る声が、自分のものではないみたいだった。
「俺が……お前の番になるわけ……っ……ねぇだろ……!!」
「そう?」
凛の顔色は、これっぽっちも変わらなかった。
ただ、穏やかに――まるで誰かを慰めるように、微笑んでいた。
「だって、れーちゃんの身体……もう、変わり始めてるよ?」
「……っ……!!」
その一言に、胸がぎゅっと縮こまった。
意識を向けた瞬間、腹の奥で静かに広がっていた“熱”がはっきりと輪郭を持ち始める。
(……嘘だろ……)
自分の身体じゃないみたいだ。
でも、たしかに熱い。じわり、じわりと内部から燃えていく。
「れーちゃん、すごく熱いよ」
額に手が触れる。その温度がやけにリアルで、心臓が跳ねた。
「……っ!! 触んな!!」
本能的に手を振り払った。
「ふふ、怖がらなくていいよ」
その声が、優しいことが、腹立たしい。
「っ……誰が……っ……!!」
「ねえ、れーちゃん」
また凛が手首をそっと掴む。
その細くて白い指に、血の気が通っていないように見えた。
「1日目、終わっちゃったね」
「……!!」
「あと2日で、全部変わるよ。ああ、でも……熱が出ると、辛いよね」
静かな口調が、喉の奥に棘のように刺さった。
凛は立ち上がると、サイドテーブルの引き出しを開け、何かを取り出す。
そのまま一口、水を口に含み、俺の前にしゃがみこんだ。
――そして。
唇が、重なった。
(――!!?)
目が見開く。
ぬるい水が流れ込み、同時に、小さな固形物が押し込まれる。
(……っ!?)
逃れようとしたときには、もう遅かった。
喉が反射的に動いていた。
「っ……お前……!!!」
胸を突き飛ばすと、凛は一歩だけ身を引いた。
「ちゃんと飲めたね」
「っ……何、飲ませ……っ……」
「睡眠薬だよ」
(――!!!!!)
思考が、鈍くなる。
「お前……っ……!!」
「大丈夫、安全なやつだから。病院で処方されるものだよ」
「誰が信じるか!!!」
「ふふ、でももう飲んじゃったね」
「っ……!!!」
口の中に残る、わずかな甘み。
滑らかに舌の奥へと流れたそれは、もはや否応もなかった。
「そんなに怒らなくていいのに」
凛が俺の髪を撫でる。
その手つきが、あまりにも優しすぎて――逆に恐ろしい。
「あのね?僕はれーちゃんをお嫁さんにしたいんだよ、だからおかしなものは飲ませないよ。だって、れーちゃんの身体がおかしくなったら……」
撫でていた手が、するりと肩へ滑る。
そしてそのまま、俺の身体をやさしく抱きしめた。
「僕との赤ちゃん、産めなくなっちゃうからね」
(……おかしい……完全に……)
呼吸が浅くなる。血の気が引く。
もう、抗う余力はなかった。
「さあ、れーちゃん……休もう?疲れてるでしょ?ちゃんと眠った方がいいよ」
「……っ……」
まぶたが落ちる。
眠気が濁流のように押し寄せる。
身体が、脳が、限界だった。
(……ちくしょう……)
「……服……」
どうにか声を絞り出す。
「寄越せ……」
凛は、まるで幼児を寝かしつけるようにシーツをかけてくる。
「いらないよね?」
「……っ……」
「せっかく温かいんだから、そのままでいいよ」
布の感触すら、もう意識が遠のいていて掴めない。
(……ふざ……けんな……)
何かを言おうとしても、もう声にならなかった。
「おやすみ、れーちゃん」
囁くような声だけが、耳の奥に残った。
――逃げられない。
けど、まだ希望を捨てきれなかった。
どこかで「誤魔化せる」と、思いたかった。
(……2日目になれば……体調も……戻る……かも……)
その、どうしようもなく儚い希望を胸に抱いたまま――
俺は静かに、意識を手放した。
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20250831:改稿
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