12 / 35
11 2日目―4回目の注射
「……っ……」
視界が霞んでいる。
頭の中が、白く靄がかかったようにぼんやりする。
皮膚が、いやに滑らかだった。
その異物感が余計に神経をざわつかせる。
ほんの少し剃られただけなのに、
そこにあった“何か”まで根こそぎ奪われた気がした。
(……俺、何やってんだ……)
手のひらがかすかに震えている。
拳を握っても、微かな熱が指先に残ったまま消えない。
着るものが欲しいと、喉まで出かけた言葉は――
視界の端に映った“それ”に凍りついた。
凜が手に取ったのは、あの――注射器だった。
「ほら、次の準備もしようか」
「………………は?」
それは、あのペン型の器具だった。
カチリ、カチリと音を立てながら、用量を調整している。
「……っそれ……」
「うん、4回目の注射だよ」
(……っ……!!)
胸の奥が、ぎゅっと萎んだような感覚。
血の気が足元から抜けていく。
「い、いやだ……なんで……っ」
椅子の背もたれに体を預けるように後ずさる。
なのに、凛の手は当たり前のように俺の腕を捕まえた。
「昨日は3回、今日はまた3回」
「っ……!!!」
何のためらいもない口調。
淡々と、予定をこなすように語るその声が、いちばん怖い。
「ほら、大人しくして?」
(……っ……)
さっきまでの羞恥が強すぎて、思考が追いついていなかった。
その隙を突くように、「次の段階」は容赦なく始まる。
「や、やめろ……っ……!」
叫びにも似た声で、腕を引こうとする。
だが、体が思うように動かない。
力が――入らない。
(なんで……動かねぇ……?)
凜の力が強いというより、
俺自身がまるで空っぽになったような無力感。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。痛くしないから」
「そういう問題じゃない……!!」
「うん、じゃあ、少し押さえるね」
「おい待て、ふざけ――」
――チクリ。
「っ……」
小さな小さな、痛みとも取れない痛みとともに、
冷たい液体が肌の下へとじわじわ流れ込んでいく感覚が広がる。
(……また……)
これで、4回目。
全体の半分――いや、それ以上かもしれない。
「うん、これで大丈夫」
凛が優しく針を抜き、
指先でその周囲をそっと撫でた。
(……大丈夫、じゃねぇ……)
「少ししたら、また変化が出てくると思うよ」
「っ……そんなもん、出るわけない……っ……」
声が震える。
「……れーちゃんは、まだ誤魔化せるって思ってる?」
「……っ!!」
言葉が、刺さった。
容赦なく、核心を突かれた。
(なんで……分かるんだよ……)
凜は、いつからこんな奴だった?
俺が知らなかっただけで、ずっと――?
それとも、本当はずっと気づいてたのに、目を背けてただけか。
「……っ……」
まだ俺は、自分がαであることにすがってる。
意地でもΩになるもんかと、そう思ってる。
「無理しなくていいよ」
凜の声は、静かだった。
その指が、また俺の腕を撫でる。
「ちゃんと、Ωになれるからね」
(……っ……)
それは、優しさじゃなかった。
ただの確信だった。
もう俺に、選択肢なんか残ってない――と告げる声。
「っ……くそ……」
力なく、針跡を見つめる。
小さな赤点が、あまりにも惨めで、情けなかった。
「れーちゃん、どうする?」
「……は?」
「朝ごはん、食べる?」
(……は?)
頭の中で、その問いが宙に浮く。
監禁されてる。
無理やり薬を打たれて、体が壊されていく。
それなのに――この声は、まるで「日常」の延長だった。
「……ふざけんな……っ……」
「食べないの?」
「……っ……!!!」
口が乾く。
だけど喉の奥が引きつって、うまく言葉が出ない。
(……腹……減ってる……?)
意外にも、内臓が空洞のようだった。
昨夜から、何も口にしていないせいだろう。
でも、もっと違う“何か”が欠けている気がする。
(……なんだ……この違和感……)
普通の空腹じゃない。
腹が減ったというより――何かが「足りない」。
いつもなら感じるはずの苛立ちすら、今はない。
(……変だ……)
「れーちゃん?」
「っ……!!」
肩を軽く叩かれて、反射的に身を強張らせる。
「ぼーっとしてたね。……食べる?」
「っ……いらねぇよ……!!」
「そっか。でも、無理しないでね。水分だけはとろうね」
(……“無理”させてんのは、どっちだよ……)
身体は確かにぼんやりしていた。
怒りすら、どこか遠く感じる。
(……でも、誤魔化せる。これは……ただの空腹……)
そう思いたい。
それ以上の意味があるなんて、思いたくない。
「じゃあ、次の準備しようか」
「……は?」
息が止まる。
思考が、急に鈍くなる。
「次って、何だよ……」
凜は、にこりと笑った。
「うん、れーちゃんの体が変わってきたか、ちゃんと確認しないとね」
「え……?」
「大丈夫、優しくするよ」
凜の笑顔は、いつもの凜のそれと、なんら変わらなかった。
それが――いちばん怖かった。
--------------------
20250831:改稿
リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪
-------------------
ともだちにシェアしよう!

