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第2話 クレマチスの柵
1 クレマチスの柵
実家とは常に黒歴史が眠る場所である。出さなかったラブレター、こっ恥ずかしいポエム、昔のアイドルのポスターなど捨てたいけれど捨てられない物ばかり。
戸倉逸生 は実家の門前でしばし立ち尽くした。
門扉から玄関に到る猫の額ほどの前庭が、すっかり様変わりしている。先月来た時にはなかった鉄のアーチが門の中に立てられてツルバラらしき植物が巻きついている。花はまだ蕾である。横には柵のようなものがあり、やはりつる性植物が巻きついているが、こちらは掌ほどの大きな花が咲いている。
逸生は都心のアパートで一人暮らしをしている。輸送会社の経理部門で働いているが、毎月都下の営業所に月末処理の手伝いに回っている。ここ真柴本城市 の営業所に来る時は、ついでに帰省しているのだ。一泊して翌日は実家から出社する。
長男としては両親の様子を見に行くのも務めと思っている。ネクタイにスーツ姿でいつものビジネスリュックを背負っているが、中には着替えも入っている。
それにつけても……。
数年前から母が園芸趣味に目覚めたのは知っていた。表庭の草花が季節ごとに植え替えられていたし、父のゴルフ道具しかなかった玄関ホール(というと広そうだがこれも猫の額)には数々の植木鉢が飾られるようになっていた。
地元の園芸倶楽部に入って勉強を始めたとも聞いたが、門から変えるほど本格的になっているとは思わなかった。
そもそもが父の定年退職も近いから夫婦で出来る趣味を探しているなどと言っていた。けれど父は休みともなればゴルフに出かけるし、今のところ庭仕事に精を出しているのは母一人である。
花咲く春も過ぎたのに、梅雨時の今になって庭を魔改造してどうするつもりか?
ぱらぱらと肩に雨粒が落ちるのに気がついて、あわてて門の中に入ると玄関チャイムを鳴らした。
「お帰りなさい。降られなかった?」
母が開けるドアの中に入ると背後で雨音は本格的になり、濡れた土の香りが一気に広がる。
「うん。バス停から走って来たから。ぎりぎり間に合ったよ」
下げて来た紙袋を渡すと、たちまち笑顔になる母である。
「あら。ありがとう、いーちゃん」
大好きな洋菓子店のバームクーヘンである。都心にしか店舗がないから、ここ真柴本城市ではちょっとした高級品である。
子供の頃このバームクーヘンが到来物にあれば、母は夕食後に満を持して丸い洋菓子を切り分けたものだった。逸生もめったに食べられない極上スイーツだと緊張して、ちびちび味わっていたのだが、弟の隆生 が自分の分はあっという間に食べ尽くして、
「いーちゃん、食べないの?」
と残りをひったくって一口で喰らってしまい、兄弟喧嘩になるのもしばしばだった。
一つ違いの弟は「いつき」と「兄ちゃん」が入り混じった揚句に、兄を「いーちゃん」と呼ぶようになっていた。両親もそれを可愛いと訂正することもなく、未だに逸生は家庭内で「いーちゃん」である。誠に末っ子ほど強いものはない。
「佐藤先生、バームクーヘンお好きかしら? よかったら召し上がって行って」
リビングダイニングに入って母が呼びかけている。玄関先に見覚えのないスニーカーがあったのは来客のようだった。
ダイニングテーブルでお茶を飲んでいた作業着の若い男性が、椅子を鳴らして立ち上がった。
「あ、どうも。お邪魔してます」
「ほら、これ長男の逸生です。もしかしたら佐藤先生と同じぐらいの年かしら?」
男の声と母の声とが重なった。
逸生はリビングダイニングの入り口でただ立ち尽くしていた。
〝佐藤〟は日本で一番多い名字である。逸生の恋人も〝佐藤〟という名字である。
だから母が〝佐藤先生〟と呼びかけても、さして気に留めなかった。何ならたった今行って来た真柴本城営業所にも〝佐藤さん〟は二人いたし。三人目が実家に居ても気にすることではない。
と思っていたが、目の前にいるのは今現在、逸生がつきあっている恋人だった。
実家にあるのは過去の黒歴史だけではなかった。今現在の黒い秘密がダイニングキッチンでお茶を飲んでいる。
戸倉逸生は同性愛者であることを誰にも打ち明けてはいない。知っているのは目の前の恋人だけである。
「初めまして。佐藤和生 です。真柴本城園芸倶楽部の顧問をしております。よろしくお願いします」
と言われれば打てば響くように、
「初めまして。長男の戸倉逸生です。いつも母がお世話になっています」
と答えるしかない。つまり初対面の設定で行くらしい。
「ほら、逸生。手を洗ってらっしゃい。バームクーヘンをいただきましょう」
母に肩を叩かれて、ふらふらと奥に向かう。
洗面所に入ろうとしてドア框の上に思い切り頭をぶつけてしまう。
「ってー!」と頭を抱え込みながら洗面台に寄りすがる。
佐藤和生に度肝を抜かれてすっかり忘れていた。この洗面所は廊下から上がり框がある分ドアが低いのだ。身長181㎝の逸生は他のドアより余計に頭を下げて入らないと頭頂部をぶつけることになる。
子供の頃は大きく見えたこの家も成長するにつれ出入り口が低くなり、部屋を移動する時に頭を傾ける習慣を身につけていた。
けれど大学進学で一人暮らしのアパートに引っ越せば今度はそちらで頭を下げる生活になり、実家はもっと大きかったという意識だけが残っていた。
ひりひりする頭頂部を撫でながらリビングキッチンに戻ると、室内には紅茶の香りが漂っていた。
「さっきはお友達にいただいたハーブティーを飲んでいたの。でもバームクーヘンにはやっぱり紅茶が合うでしょう」
母はポットから三人のティーカップにその名の通り紅いお茶を注いでいる。この紅茶趣味も園芸趣味と共に始めたものである。それまではこの家のテーブルに並ぶのは緑茶やコーヒーだった。
母はいつもの逸生の席にティーカップを置く。向かい側は弟の席なのだが、今日は佐藤和生が神妙な顔で座っている。
これといった特徴がないのが佐藤和生である。さらさらの直毛に一重瞼の細面、典型的な日本人の顔である。
逸生は実際に会うまではいつも顔を思い出せない。何度も情交を重ねているのに不思議なことである。
つまりは毎回新鮮なセックスが楽しめるとも言えるのだが、今が今思い出さなくともいい事実である。
母は二人の間の席に座っている。
「ほら、今年の秋にオープンガーデンをすることに決めたじゃない。今日は佐藤先生が、そのご指導に来てくださったの。ほら、春にいろいろなお庭を拝見して。感動したから私も参加することにしたの」
「ほら」とか言われても何だかわからない。面食らっている逸生に構わず母は話し続ける。
「うちの園芸倶楽部は毎年入賞者を出しているの。ほら、顧問の先生が丁寧にご指導くださるから。今日は佐藤先生に計画図をご覧いただいてアドバイスもいただいたの」
「オープンガーデンというのは、市が主催するイベントで年に二回、春と秋に開催されています。一般のご家庭の庭を市民に開放して見ていただく催しです」
〝佐藤先生〟は逸生と母親を見比べながら過不足なく説明するのだった。
「一般市民に開放する? うちの庭を? 知らない人が勝手に入って見て回るの?」
と逸生が疑問を重ねたのは、防犯面に不安を感じたからだが、
「大丈夫。秋の連休だから、逸生も呼ぶから。名古屋から隆生も帰って来るし。彼女さんも連れて来るって」
母の答えは少しばかりずれていた。
弟の隆生は印刷会社に就職するなり名古屋に配属されてやはり一人暮らしをしているのだが、既に〝彼女さん〟がいるらしい。
「市民に開放といっても、きちんと門の前で記帳してもらいますし、市の担当者も各家庭を巡回しますから。安全面では心配はないかと思いますよ」
またしても過不足ない説明を加えるのは、逸生の〝彼氏さん〟なのだった。同性愛を隠している身では、親に紹介など出来るはずもないが。
「そのイベントのために、わざわざ家に来てくださったんですか?」
と他人のように質問するばかりである。
「ええ。毎回参加する方のご指導に伺うことになってます。今回こちらは初参加なので……いえ僕も初めてなんですが一番最初に参りました」
「佐藤先生は今年から顧問になられたから初参加同士よね。ほら、前の顧問の先生がお年を召して引退されたでしょう。だから……」
つまり真柴本城園芸倶楽部というのは市の助成金で運営されているサークルで、顧問も市から依頼されたプロである。佐藤和生は前任の顧問に指名されて後継者になったという。
本来は都農業試験場の真柴本城分場に勤める公務員である。野菜や花卉の研究をしている。だからサークル顧問など単なるアルバイトだが、
「バイト代なんて殆ど出ないよ。大学で僕の指導教授だった先生に言われたから引き受けたんだよ」
というのが後から聞いた本音である。
ちなみに〝オープンガーデン〟は倶楽部員でなくとも市民なら誰でも参加できるイベントである。サークルには加わらず一人で自宅の庭を丹精している市民も多いから、倶楽部員のプライドとしてはそれに負けたくないらしい。
逸生にはまるで初耳の話ばかり聞いているうちに、雨は本格的になっていた。
「じゃあ、千帆子さん。僕はそろそろ……」
と佐藤和生が腰を上げた途端に、
「あっ、俺も今日は……」
逸生も立ち上がっていた。
「えっ? いーちゃん、泊って行くんじゃないの」
「いや、今日は本社に戻らなきゃならないんだ」
いきなり嘘をつく。このまま家に残って母親から〝佐藤先生〟に関する話を聞かされてはたまらない。その気持ちを読んだのか、
「何なら僕が駅まで送りますよ。雨も降っていますから」
すかさず言い出す佐藤和生なのだった。
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