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第3話 バラの意匠

2 バラの意匠  父は車通勤なので昼間は車庫が空いている。代わりに停まっているのはスバル・レヴォーグだった。メタリックブルーは佐藤和生が言うところのヒスイカズラの花色である。 「逸生、バームクーヘンの残りを持って行きなさい」  母は他にも缶詰やらレトルト食品やらも詰め込んだ手提げ袋を手渡すのだった。そして車に乗り込む逸生に、 「ゴールデンウィークに隆生が帰って来て、いーちゃんの部屋の物が欲しいとか言ってたけど……」 「俺の部屋の何が?」 「さあねえ……逸生も帰ればよかったのに。一度、隆生に連絡してやって」  逸生の持ち物で弟の気に入る物などないはずだが? 首を傾げながら頷いた。  運転席の佐藤和生は、 「じゃあ、失礼します。千帆子(ちほこ)さん、いい庭になると思うから、頑張って育ててください」  と車を発進させるのだった。  車内には雨音とワイパーがフロントガラスを拭う音だけが聞こえている。実家を出てからしばらく二人とも無言だった。  車がバス停を通り過ぎて田園地帯に入ってから気がついた。 「これ、逆方向だよ。本城駅に行くなら、あっち」  きょろきょろ来た道と行く道を見比べる逸生に、佐藤和生はにっこり笑った。 「都内の本社に戻るんでしょう? 送るよ」 「いや、嘘。今日は直帰にして来たから。後は家に帰るだけ」 「アパート? じゃあ、そっちに送る。僕も今日の仕事は終わりだし」  言われてみれば今走っている田園地帯の一本道は、首都高速道路に向かう道である。  逸生のアパートは東京二十三区内にあるが、佐藤和生が住むのは市内の団地なのだ。ここから車で十五分程なのに、逸生の家に行くなら一時間以上かかってしまう。 「いや……悪いよ」  遠慮している逸生に、佐藤和生はハンドルに乗せた手で外を示した。 「逸生さん、ああいう所に入ったことある?」  雨に濡れた車窓の向こうには田植えの終わった水田が広がっている。時々現れる四角い箱のような大型店舗は、スーツの店、ゴルフ用品店、ドラッグストアにボーリング場などである。  その合間に派手な建物が見えるのはラブホテルだった。この辺のカップルが愛を交すには田んぼの中のラブホテルを使う。  逆方向の本城駅前には夜景も美しい高層ビルのシティホテルもあるのだが、ラブホとはまず価格帯が違う。 「僕は、ラブホテルって入ったことないんだ」  遠慮がちに言う佐藤和生に思わず、 「えっ、じゃあいつも家でやってたの?」  と訊いてしまってから、なかなか微妙な質問だったと後悔する。今彼の過去の恋愛というかセックスなど知りたくもない。  そもそも逸生と佐藤和生はセックス目的の出会い系アプリで知り合ったのだ。一年程前に初めて出会ってから数か月に一度、気が向けば会ってまぐわうだけの関係だった。それを思い出して、 「いや、だって一緒にラブホ行ったじゃん」  と言えば「だって」と、はにかむ佐藤和生である。 「この辺のは何となく……都会のとは違うみたいで。だって田んぼの真ん中だよ? ほら、あの白い建物なんか壁に白鳥の絵があって……」 「あれは、ホテルスワン。この辺の女子に人気があるらしいよ。行ってみる?」  ちらと逸生の顔を見て頷くなり佐藤和生はハンドルを回して、車はホテルスワンに入る横道に向かうのだった。  実のところ逸生が高校時代に童貞を失ったのは、この辺りのラブホテルだった。出会い系で知り合った修正写真も甚だしい中年男に連れ込まれたのだ。  薄汚れたラブホの部屋は絨毯が埃だらけで、動くたびにキイキイ軋むベッドで逸生の初体験はネコだった。  今にして思えばかなりに乱暴な男で前戯もそこそこにぶち込まれ、処女よろしく血を流したものである。  もう二度とネコはごめんだと思って以降、前の彼氏にきちんと指導されるまでタチを通して来たのだった。  知った風に言ったものの、逸生はホテルスワンに入ったことはない。最初の経験について相手を女性に変えて同級生たちに面白おかしく話したところ、 「バカだな。女と行くならホテルスワンだよ。あそこなら女がうっとりしてやり放題だぜ」  などと言われたのだ。ぼちぼち初体験を済ませる者も出る頃だった。異性愛者と偽りたい一心で、修正写真の中年男を中年女と言い換えた。よくわからないがリードされて無事に済んだと仲間達に報告したものだった。  就職してからは出会い系とは遠ざかっていた。特定の彼氏が出来たからである。だが、ふられてからはまた出会い系でセックス相手を探すようになっていた。  とても正直に言えば、佐藤和生は好みの相手が見つからない時に会うだけの補欠要員だった。  そもそも逸生は出会い系では本名を名乗っていなかった。だから相手の名前も殆ど気にしていなかった。  日本語とは便利なもので主語がなくても会話が出来るのだ。「ねえ」「ちょっと」「おい」「君」で充分である。  この春先にちょっとしたことがあり、正式につきあう流れになって初めて、佐藤和生の読み方が〝サトウカズオ〟ではなく〝サトウカズキ〟だと知ったのだ。とはいえ出会いの頃の習慣は根強く、相変わらず名前を呼ぶこともなく「なあ」「君」「おい」が続いている。  裸で抱き合う相手をわざわざ名前で呼ぶ必要もない。などと思っているのは逸生だけのようで運転しながら佐藤和生は、 「逸生さん、ゴールデンウィークはやっぱり実家に帰った方がよかったんじゃないの?」 と、きちんと名前を呼んでいる。 「いいんだ、別に。こうして毎月帰ってるんだし……」  実はゴールデンウィークは、佐藤和生に誘われて沖縄、石垣島に花を見に行ったのだ。  初めての恋人旅行である。行く前にトレッキングシューズや登山服を用意するように言われたが、浮かれていた逸生は二人でいちゃいちゃ歩くのだと甘く見ていた。  だが常夏の山を散々に歩かされたのだ。花を探しに佐藤和生は道なき道に踏み込んで行き、見つければ写真は撮るは辺りを調べるはで動こうとしない。はっきり言ってただの研究旅行である。  もう二度とこいつと旅行はしない。いっそ別れてしまおうか。  などと不満たらたらで帰って来たのに、写真を整理したり植物について嬉々として語る姿を見れば、図らずも胸がきゅんとしてしまうのだ。  実際、頬を染め目をきらきら輝かせて語る佐藤和生は実に愛らしかった。そうして交際は続いているのだった。  ホテルスワンは噂に違わず女性が好みそうな風情だった。白く瀟洒な室内は壁紙にバラが舞い、ベッドカバーやカーテンなど布類も白で統一されバラの意匠が施されている。  佐藤和生は本気で田舎のラブホテルの中を見たかったらしく、部屋に入るなり「ふうん」「へえ」とあちこち見て回るのだった。しまいには先に風呂に入って、 「見てよ。バスタオルにもバラの刺繍がある」  と身体に巻いたバスタオルを嬉し気に広げて見せるのだった。  続いて風呂に入った逸生はバスタブにつかるなり、大きなため息をついてしまう。  交際を始めたばかりの彼氏が急に実家に現れた衝撃をどう処理すればいいのかわからない。  たとえば自分が弟のような異性愛者で、実家に突然現れたのが〝彼女さん〟だったなら、衝撃はまだ半分で済んだことだろう。いやが上にも自分は親にも言えない異端なのだと思い知らされる。 「どうしたの、逸生さん? のぼせてない?」  佐藤和生が浴室に顔を出したのは、相当長いこと風呂場で意気消沈していたのだろう。  タオルで身体を拭かれベッドに誘われる。気を取り直して口づけをする。身体を荒々しくまさぐりながら、強引に舌を割り入れ口中を舐る。 「やぁん」と腕を逃れる佐藤和生は、何やら昭和初期の乙女のように恥じらっている。 「そんなに急に……逸生さんたら……」  言われて思い出す。佐藤和生とのセックスはとてもゆっくり丁寧に進む。  スローセックスとでも言うのだろうか。優しい小鳥のような口づけから始まるのだ。ただ肌をゆるゆると撫でられたり吸われたりする。あれやこれや睦言を交しながら次第に身体の熱が高まって、これこそが〝愛撫〟なのだと今更知る。  出会い系で逸生が求めていたのはもっと激しいセックスだった。がつがつと互いの身体を貪って、あっという間に燃え上がり頂点に達するものだった(ラブホ料金を安くあげたい経理部員ならではの根性とも言えるが)。  性欲解消だけが目的の出会い系で佐藤和生が補欠要員だったのも当然だったろう。  なのに今やバラの意匠の毛布にくるまって互いにキスをしたり愛撫をしたりしながら、逸生ときたら高校時代の童貞喪失について語っているのだった。「へえ」「それで?」と楽しそうに促されれば、黒歴史だって披露してしまう。  その合間に触れられるのは乳首や逸物のようなわかりやすい部分だけではない。  逸生が自分の身体の思いもよらないところに性感帯があると知ったのは佐藤和生のお陰である。  今日も今日とて脛からゆるゆる愛撫され、足裏に頬ずりされるに及んで逸物は既に仁王立ちで濡れている。  初めて知った。足なんぞに性感帯があるのか?  丁寧に足指の一本ずつを舐られ吸われ、そのたびに喘いで悶える。 「あっ、やめっ……もう、出、あっあっあっ!」  我慢出来ずに我と我が手で自らをがしがしと扱き立ててしまう。  佐藤和生は伸びあがって、自分の物と逸生とを合わせて激しく上下に擦り立てる。 「待っ、んッ、出っ……んんンッ!」  たちまちその掌の中で弾けてしまう。  遅れて達した佐藤和生は息を荒げたまま胸に頬を寄せて、 「だから……なんだね」  などと言う。何を言われているかわからない。 「逸生さんて荒っぽいのに、入って来る時はめっちゃ優しくて丁寧なんだもん」 「入って来る……?」  佐藤和生は「いやん」と言わんばかりに逸生の胸を拳で叩く。大正時代の処女さながら。 「自分が初めての時、血を流したから、人には優しくするんだね。ゆっくり入って来てくれるから、逆にすごく感じる……」 「ああ」とようやく理解する。アナルセックスのことを言っているらしい。  確かに逸生は挿入時は慎重に相手を傷つけないように努めている。初体験のトラウマもあるが、元彼に改めて仕込まれたせいでもある。  ずっとタチを貫いていたのに、元彼とはその時々でネコになったりもした。他の行為は情熱的で激しい元彼なのに、挿入時だけはひどく優しく丁寧なのが震えるような興奮に繋がったものである。 「今日はまだ入れてないけど。もう一回、やる?」  と、いやらしく佐藤和生の尻の割れ目に手を入れる。 「別にそういうわけじゃ、でも、また……いいの?」  恥ずかし気な含み笑いで「きゃっ」と言わんばかりに毛布を被ってしまうのは明治時代の処女なのか?  いや、明治の処女は布団の中で男根を咥えたりしない。  翌朝は、コーヒーを取り寄せて母に持たせられたバームクーヘンの残りを分け合い朝食にした。  そして車で改めて本城駅まで送ってもらった。  逸生は車を降りる際、後部座席に置いた手提げ袋を示して、 「佐藤先生が食べていいよ」 「ダメだよ。母の愛じゃないか。預かっとくから後で取りに来なよ」  頷きながら駅に向かう逸生の背中に、 「先生じゃなく和生(かずき)がいい」  という佐藤和生の声が聞こえた。とりあえず手は振ったが実際に「和生」と呼ぶことはなかった。  通勤客が階段を上り流れるように駅のコンコースを改札に向かって歩いて行く。  逸生は立ち止まって佐藤和生のヒスイカズラ色の車が走り去るのを見送っていた。

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