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第4話 野菜祭
3 野菜祭
佐藤和生からスマホに花の写真が届くようになった。殆どが実家に咲いている花である。
〈クレマチスの花。千帆子 さんの丹精です〉〈木香薔薇 もそろそろ咲きそうです〉
というのは玄関先の風景。
あの掌大の花がクレマチスで、アーチに巻きついた黄色く小さな花がモッコウバラというらしい。
〈秋のオープンガーデンの計画図です〉
テラスの向こうにある表庭である。昔はただの芝生で父親がゴルフ練習をしては芝を掘り返していたものである。
〈基本はハーブガーデンですが、華やかな園芸品種も入れました。千帆子さんはターシャ・テューダーの庭が目標だそうです〉
細々と解説されても逸生には見当もつかない。ただ写真をスワイプするばかりである。
「何で千帆子さんなわけ?」
尋ねたのは、次に佐藤和生が訪れた週末だった。母が持たせた手提げ袋を携えて逸生のアパートに泊まりに来たのである。
いつもなら佐藤和生は大量の野菜を持ち込む。新聞紙にくるんだそれは実家の農家で育てたが出荷できない規格外商品や、職場で育てた珍しい品種の野菜などである。だが今日は野菜はなく母からの差し入れと、いつも買って来る焼きたてパンだけだった。
二人でレトルトカレーを食べている。土曜日の夕刻だった。
「真柴本城園芸倶楽部では、昔からみんな名前で呼び合うんだって」
「じゃあ、佐藤先生は和生さん?」
「ううん。僕は佐藤先生。あの倶楽部は女性が多いからさ。女性って結婚や離婚で名字が変わるじゃない。いちいち名字を覚え直すのも面倒だし、プライバシーの問題もあるし……そんな理由らしいよ」
「へえ。そうなんだ」
「千帆子さんは喜んでたよ。名前を呼ばれるなんて久しぶりだって」
戸倉千帆子が母の名前である。確かに家族がその名で呼ぶことはない。
「お母さん」がデフォルトで「ねえ」「おい」「ちょっと」で呼ぶことも多い。
全くもって主語がなくても話せる日本語の功罪は大きい。
佐藤和生は丁寧に皿のご飯とカレーを混ぜている。ご飯の一粒一粒にカレーをまぶさんばかりである。実は逸生もそれぐらい丁寧に食べたいのだが、弟にカレーだけ削ぎ取られてしまうから早食いになったのである。
外からはカロカロカロと軽やかな音が響いて来る。近所の飼い犬が夕方の散歩をさせてもらっているのだ。首輪に付けた小さなカウベルが歩くたびに鳴ってアパートの前を通り過ぎて行く。
その音が遠くに聞こえなくなってから、佐藤和生はひたと逸生の目を見て言った。
「逸生さん、よかったら今度、僕の実家に来ない? 野菜祭をするんだ」
〝野菜祭〟って何だ?
逸生の頭に浮かんだのは両手に大根を持って踊り狂う佐藤一族の姿である。
「そうじゃなく……」
まるで逸生の妄想を見てとったかのように言う佐藤和生である。
「七月に姉達が帰って来るんだ。八月のお盆休みは旦那さんの実家に帰省するから、こっちは早めにさ。でもって、いつもの余った野菜でバーベキューや鍋をするんだ」
「ふうん」
「あ、別に正式に紹介とか……そういうんじゃないよ」
「へえ」一気に心が軽くなる逸生である。
「家族以外に近所の人や幼なじみも来るしさ。僕だけ逸生さんの実家にお邪魔して悪かったしさ」
「別に悪くはないよ。仕事だろう」
「ねえ。来てくれると嬉しいな」
「うん……まあ、予定が合えば」
予定は合ったわけである。
まだ入社数年の経理部員である逸生は月末月初に営業所を回らされる以外は、そう忙しくもない。週末も休日出勤などはなく趣味もないから家事に勤しむばかりである。
というわけで掃除洗濯も済ませた土曜日の昼下がり。本城駅に出向いて佐藤和生のヒスイカズラ色の車で実家に案内されたわけである。
佐藤家が兼業農家であることは聞いていたが、車が農業団地を通り過ぎ田園地帯の中にある実家に近づくや言葉を失ってしまった。
逸生の実家も田舎にあるが新興住宅地である。フォックスヒルズと小洒落た名前がついているのは、狐の棲む雑木林を開発したからと聞いているが嘘か誠かはわからない。そんな平成の建売住宅とは比べ物にならない昭和の、いやひょっとしたら明治か大正あたりに建てられた佐藤和生の家だった。
そもそも都会のように入り口にわかりやすい門柱があるわけではなく、気づけば生垣に囲まれた広い敷地内に入っているのだった。
その敷地の広さにも驚く。納屋らしき建物の前には現役かどうかも知れない軽トラックや農機具が並び、その前には来客のものらしい車が数台停まっていた。
納屋の奥に古い日本家屋があるのが家族の住まいのようだった。まるでハルさんが休日にお茶を飲みに来るような古民家である。
家の前には巨大な犬小屋がある。一体何匹飼っているのかと思いきや、鎖につながれているのは一匹の茶色い和犬である。ひゃんひゃんと奇声を発しているのは喜んでいるらしく、尻尾を振ってはぴょんぴょん飛び跳ねて佐藤和生に飛び付こうとしている。
「ただいま。ヤマト」
佐藤和生はそんな犬の身体をがっしり抱き締めて頬ずりまでしている。
自分にはそんな力強いハグをしてくれたことはないのにと忌々しく思っていると、
「カーキ! 久しぶり」
後ろからやって来た若い女性ともハグして、二人でぴょんぴょん飛び跳ねている。
何なんだ?
犬以上に嫉妬する逸生である。
犬小屋に繋がれているのが和犬なら、その女性はまるで洋犬コリーのようだった。髪を黒や茶色や白色に染め分けているのだ。佐藤和生は、従姉妹 の何某と紹介してくれたが帰る頃には名前など忘れていた。
そして玄関というより広い土間のような場所を上がって座敷に案内されると、更に次々と人が表れ、抱き合ったり肩を叩き合ったりしている。
佐藤和生が三人姉妹の末に生まれた唯一の男子ということも聞いていたが、三人の姉とその夫そして子供たちを矢継ぎ早に紹介されても名前など覚えきれない。
だが父母や祖母だけは絶対に覚えねばと思ったそばから、似た年恰好のご近所さんが訪れて幼なじみまで現れるに及んで、逸生は完全に覚えることを諦めた。
「こちら戸倉逸生さん。僕が園芸指導に伺ってるお宅の息子さんだよ」
という紹介のされ方だったので、恋人として家族の名前を完全記憶しなければ失礼に当たるという強迫観念は抱かずに済んだ。
とはいえ、いつになく人前で肩を抱き締めて言われるのは、先程の従姉妹に対してマウントをとった気もするが、同性愛者だとばれないか心配にもなるのだった。
縁側を開け放った座敷には既に何人もの客が呑んだり食べたりしている。野菜寿司などという珍しい料理もあれば、田舎らしい煮〆や漬物の大鉢も並んでいる。
それぞれの客が持参したらしい缶ビールや日本酒、焼酎などアルコールも揃っていた。
だが逸生はほとんど呑めない体質なのだった。
「戸倉さん。とりあえずビールでも」
確か長姉の中年女性に渡された缶ビールを逸生が断るより早く奪ったのは佐藤和生だった。
「逸生さんはノンアルコールの人だから、これは僕がもらうよ。逸生さんには特別なのがあるんだ。待ってて」
と廊下の奥に消えるのだった。台所に行ったらしい。そして炭酸水のような物が入ったグラスを手渡された。
「はい、自家製ジンジャーエール」
ジンジャーエールの中にはスライスレモンとミントの葉も浮いている。
「このレシピ、千帆子さんにも教えたんだ。お宅のと味を比べて見るといいよ」
「ふうん」と口をつけてみれば、甘ったるい市販飲料に比べるとはるかに生姜味の勝った力強い味だった。
佐藤和生は満足げに缶ビールを開けると一気にぐいぐい吞んでいる。これまで食事を共にする際にも酒は呑んでいたが、こんなに早いペースは初めて見た。
庭先ではバーベキューコンロで肉が焼かれている。何やら香ばしい香りが漂って来ると思えば、その横に蓋をしたコンロがあるのはスモークチップを焚いて燻製を作っているのだった。
今度はサンダルを突っ掛けて庭に出た佐藤和生は、コンロのそばにいるコリー犬のような従姉妹の腰に手を回している。
「やめてよ、キーちゃん」と嫌がっているのにワンピースを脱がせているのだ。
何なんだあの二人は⁉
どういう関係なんだ⁉
思わず腰を上げたが、女性が脱がされたのはワンピースではなく袖付きエプロンだった。下にはちゃんとTシャツやショートパンツを着用している。佐藤和生は奪ったエプロン(いわゆる割烹着である。花柄だが)を自分が着ている。
ほっとして腰を据えるとまたジンジャーエールを味わう。
花柄の割烹着を着た佐藤和生はトングを手にして何やら紙皿に入れて持って来た。茶色い三角や筒状の物が紙皿に山盛りになっている。
「食べてみて。チーズの燻製」
と逸生の皿に三角の物体を入れる。
「カーキ、ささみはないの?」
「肉はまだ生焼けだよ。これ、竹輪も食べてみない?」
長姉らしい女性の皿には筒状の物を入れている。
どうも佐藤和生は三姉妹にこき使われるというか、走り回って皆にサービスするのが楽しくてたまらないらしい。
逸生と二人でいる時より生き生きしている……ような気がする。皿の三角や筒を配り終わるとまたバーベキューの様子を見に行っている。
逸生はチーズの燻製だという三角の物体を食べてみた。飴色の外側の香ばしさと柔らかく熱い中身とが相まってなかなか美味である。
この日、逸生が知ったのは家庭内で佐藤和生は「カズキ」が訛って「カーキ」もしくは「キーちゃん」と呼ばれていることだった。
そして酔っ払った佐藤和生は誰彼なくべたべたするとも知った。
初めのうちこそ常にないスキンシップに同性愛者とばれるのではないかと案じたが、気づけば家族にもご近所さんにも同じように接しているのだった。やたらに人懐こくなる酒癖らしい。
そして、その日ヒスイカズラ色の車を運転して帰ったのは逸生だった。座布団を枕に眠っている佐藤和生を担いで車に乗せたのだ。
「何なの、カーキは? どんだけ飲んだのよ」
「いいよ、もう。キーちゃんは家で寝かすから。戸倉さんも泊って行きなさいな」
と姉達に勧められるのを固辞したのだ。初対面の家族と共に寝る気力は残っていなかった。
そもそも〝野菜祭〟といいながら逸生は野菜寿司を一つ二つ摘んだきりで後は肉や燻製ばかりで満腹になっていた。
酔っ払った佐藤和生が得意気に自家製ジンジャーエールのアレンジメニュー、柚子入りやコーラ割りなどを持って来るから、しまいには生姜の辛みで舌がひりひりしているのだった。
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