5 / 26

第5話 お盆休み

4 お盆休み  佐藤和生は〝農業団地前〟というバス停がある市営団地で一人暮らしをしていた。団地の奥には職場である都農業試験場、真柴本城分場の畑やビニールハウスが広がっている。  別に農業試験場の職員専用団地ではないが、近所なのでその名前がついたらしい。  団地は昭和の建築らしく玄関を入ったダイニングキッチンの先には畳の部屋がある。襖で仕切られた六畳間と四畳半の和室が並んでいるのだった。  六畳間の押し入れから布団を出して敷くと、玄関先に転がしておいた酒臭い佐藤和生を引きずって布団に寝かせる。 「パジャマに着替えるぞ」  と服を脱がすにも酔った人間の身体は扱いにくい。強引に服を引っぺがすのがせいぜいである。裸にタオルケットを掛けても風邪などひかない季節ではあるが、 「カーキ! パジャマを着ろよ」  投げ出すように言った途端に「んっ」と目覚めて、もそもそとパジャマに着替え始めるのに驚く。  タオルケットを抱き締めて眠りそうになるのを奪って「キーちゃん」と身体に掛けてやると、寝息をたてながらにやにや笑うのだった。  逸生はしばしカーキでありキーちゃんでもある男の寝顔を見つめていた。  さらさら直毛の一重瞼。典型的な日本人顔である。こんな地味な男の実家であんな賑やかな宴会が開かれているとは思わなかった。  賑やかな宴会といえば元彼の仲間達はもっと大騒ぎだった。  前の彼氏は服飾デザイン学校の学生だった。周囲の友人たちも尖ったセンスの持ち主で、言ってしまえば典型的日本人の対極にある。金髪、赤毛、モヒカン、スキンヘッドは当たり前。幸いにも元彼は波打つ黒髪を金髪メッシュに染めただけだから地味な方なのだった。  逸生は181㎝の長身を見込まれて、あれやこれやと課題のモデルに駆り出された。卒業制作のファッションショーでウェディングドレスを着た女性モデルと共にタキシード姿でランウェイを歩いたこともある。  今にしてみれば何かと無理をした恋愛だったのかも知れない。結果、無惨な結末だったわけだが。  あの華やかな元彼の仲間達といた時より、長閑な佐藤和生の一族と共に飲み食いしている方が寛げた気がする。ぬる湯の温泉につかってまったりしているような気分だった。  隣にもう一組布団を敷き延べて寝転ぶと、健やかな寝息をたてる佐藤和生の頭を撫でながら「キーちゃん」などと呟いてみる逸生だった。妙に愛しくなってキスをしようと顔を近づけた途端に、とんでもない酒臭さに襲われて飛びのいたのは秘密である。  それにつけてもあのコリー犬のような従姉妹(いとこ)は何だったのだろう?  途中で帰ってほっとしたが、妙に親し気に「カーキ」と呼んでは抱き合っていた。思い出すだに心中穏やかではいられない。  翌日の佐藤和生はただ「あうう」「おああ」と呻っては頭を抱えて布団に寝転がるばかりだった。見事なまでの二日酔いなのだった。  下戸の逸生にとっては、その身体から発するアルコール臭が堪らず(人体を通過したアルコール臭ときたらドブの匂いの方がまだ芳しいぐらいである)窓を開け放たずにはいられなかった。 「逸生さんが家に来てくれてよかった」 「ちゃんとお腹いっぱい食べた?」 「飲み物がジンジャーエールしかなくてごめんね」 などと宴会の心配や反省を述べつつ布団に転がっている佐藤和生に、 「大丈夫だよ。キーちゃん」  と言った途端に、相手の頬は赤く染まり極上の笑みを浮かべるのだった。 「キーちゃん」もしくは「カーキ」。 魔法の呪文を手に入れたような気分だった。  逸生自身は大人になってからは弟の隆生(りゅうせい)に「兄貴」と呼ばれている。子供の頃のように「い―ちゃん」と呼ぶのは何かしら後ろめたいことがある時や、頼みごとがある時だった。 「いーちゃん。お盆は家に帰るんだろう?」  名古屋に住む弟から電話が来たのは八月になってからである。それまでもLINEでしきりにお盆の予定を聞いて来ていた。 「俺、彼女を連れてくからさ。一応、会ってくんない? いや正式な顔合わせっていうか、向こうの家族も呼んでの食事会は、来年にしかるべき場所を予約してるけど」 「正式な食事会って……それって、結婚も正式に決まってるわけ?」 「あれ、おふくろに聞いてない? 結婚式はまだ先だけど。一応、式場が取れたのが来年の六月だからさ。早めに入籍とか済ませて一緒に暮らすんだ」  当然のように弟が話すのは、来年から印刷会社の真柴本城支社に転勤になったのを機に結婚してこちらで暮らすとのことだった。 「えっ。じゃあ実家で暮らすのか?」 「まさか。家から支店までの通勤はきついよ。一応、社宅に入れるんだ。そんで彼女について来てくれるかって、まあ一応プロポーズみたいなこと言ったら、いいって言うんで……」 「はあ」  ため息交じりに答えていた。よくわからないが何がなし憂鬱な気分ではあった。 「次は、いーちゃんがお嫁さんをもらわなきゃね」  などという親や親戚の言葉が妙にリアルに耳元に聞こえるのだった。  佐藤和生はといえば、このお盆休みには北海道の利尻島や礼文島に花を見に行くと言っている。今回は誘われなかったが、 「さすがに春が沖縄で夏が北海道じゃ、旅費もハンパないよ。でも今年はいろいろ咲いてるらしいから見に行きたいし……」  とぼやいていたのは、逸生の懐具合を案じてくれたような気もするし、沖縄の山歩きで逸生が足手まといになると痛感したのかも知れない。  いずれにせよ一人で出発したのだった。 「逸生さんとは秋に温泉にでも行きたいな」  と言い残して。 〝彼氏さん〟が北に旅立った八月のお盆休み。逸生は弟の〝彼女さん〟に会うために帰省した。  フォックスヒルズバス停で冷房の効いたバスを降りると、サウナに入ったかのような熱気が押し寄せる。蝉しぐれがより猛暑を強調する。  例によって洋菓子店のバームクーヘン(今回は一人分に切り分けられた個包装タイプ)を手に下げて家の前に立てば、門の向こうのアーチには目にも鮮やかな黄色いバラが群れ咲いているのだった。確かモッコウバラという名前だった。その横には未だに掌大の花、クレマチスが咲いている。 「これ、クレマチスって……六月にも咲いてたよね?」 「よく覚えてるわね、いーちゃん」 と出迎えた母が嬉しそうに言うのだった。 「四季咲きのクレマチスだから秋まで花を楽しめるの。ほら、玄関先に咲かせれば、華やかでオープンガーデンにいらしたお客様にも喜ばれるでしょう」  庭とはそこまで計算して作るものなのかと今更感心している逸生である。 「ほら、早く入って。もう隆生や百香(ももか)さんも来てるの」 「百香さん……」  玄関先には真新しいパンプスと寄り添うように弟の大きな靴が(逸生も足は大きいから人のことは言えないが)並んでいるのだった。  居間に入るなり、弟と並んでソファに座っていた若い女性が立ち上がった。遅れて腰を上げた隆生は逸生と同じく長身だったが、若い女性もそれにふさわしい背の高さだった。そして目の大きな女性でもあった。 「これ……真田百香(さなだももか)っていうんだ。一応、俺とタメ」  照れているのか無暗ににやにやしながら言う隆生である。 「初めまして、お義兄(にい)さん。真田百香と申します。どうぞよろしくお願いします」  礼儀正しく深々と頭を下げるのだった。 「初めまして。長男の戸倉逸生です。いつも弟がお世話になっています」  逸生も頭を下げながら、少し前に〝彼氏さん〟に向かって似たような台詞を吐いた場面を思い出していた。 「まあ、座るといい」  と促したのは父である。いつもの定位置、リビング奥の一人用ソファに座っている。その横にあるL字型ソファの長辺に弟と〝彼女さん〟が座っているのは、常ならば弟と逸生の定位置なのだ。  どこに座ったものか迷ったが、仕方なく短辺に座った。すると弟と二人して真田百香を挟むような位置になるのだった。 「いーちゃんがバームクーヘンを持って来てくれたのよ」  母が洋菓子と共に持って来たのは、グラスに入った冷たい飲み物だった。 「これ、自家製のジンジャーエールなの。ほら、庭の先生にレシピを教えてもらったの。飲んでみて」  佐藤先生は〝庭の先生〟になったらしい。そして、 「あなたは嫌いよね。アイスティーを持って来るから」  と父の前には何も置かずにキッチンに戻ったが、にわかに母は凄まじい悲鳴を上げた。 「ゴキブリ!」という声を聞くより早く席を立ったのは逸生だった。  母は虫が大嫌いなのだ。戸倉家では母の悲鳴が上がれば誰かしらスリッパや新聞を手に駆け付けるのが習慣になっていた。  だが逸生が履いていたスリッパを手に流しに駆け付けた瞬間、どん! と物凄い音がした。  目の前で四股を踏んだかのような恰好をしているのは真田百香だった。逸生と殆ど同時に駆け付けたのが流し台の前に仁王立ちになっている。 「え……どこに?」  きょろきょろする逸生に向かって、スリッパを履いた自分の左足を指差す〝彼女さん〟である。 「全体重で踏みました」  身動きひとつしないで訴える。  言葉を失ってその足元を見ている逸生をよそに、母が配膳台のキッチンペーパーやらウェットティッシュやらを大量に取り出して、 「た、大変! 百香さん、早くこれでスリッパを拭いて。だ、大丈夫?」 と百香に手渡すのだった。  それらの紙を受け取って百香は左足のスリッパを脱いで底を拭くのだった。昇天したゴキブリを包んだ紙は弟が受け取ってゴミ箱に捨てるところだった。これはこれで見事な夫唱婦随いや〝婦唱夫随〟である。 「いやだ! そこのゴミ箱に捨てないで」  新たなスリッパを持って来て百香に履かせていた母親は、隆生を怒鳴りつけた。弟は勝手口の外のゴミ箱まで捨てに行った。  改めて全員がソファに座り(母はキッチンの丸椅子を父のソファの横に置いて座った)ジンジャーエールやアイスティーを飲む。  戸倉家全員の視線はつい真田百香の足元に向くのだった。もちろんゴキブリを踏んだスリッパと交換して、今は新しいスリッパを履いているのだが。  この時点で皆の、いや少なくとも逸生の真田百香に対する印象は決まっていた。 〝ゴキブリコンバットのアマゾネス!〟  すらりとしたモデル体型の美女に対して如何なものかとは思うが、それ以外は思いつかないのだった。

ともだちにシェアしよう!