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第6話 ヒスイカズラの影
5 ヒスイカズラの影
「ごめんなさいね。大騒ぎして。ほら私、昔から虫が苦手で……おほほほほ」
などと普段とは異なる笑い声を出しては言い訳をする母である。
ほとぼりが冷めると、真田百香は意を決したように言った。
「あの、お義兄さん。ゴールデンウィークに伺って、お部屋を着替えに貸していただきまして……勝手に入って申し訳ありません」
「え? いや、別にもう使ってない部屋だし。いくらでもどうぞ」
と愛想笑いを見せた逸生は、続く未来の義妹の言葉に表情が固まった。
「それで……本当に失礼なんですけど、パネルが沢山あったのを、つい見てしまって……」
パネルというのは、かつて元彼が写した写真である。卒業制作ファッションショーなどの写真を破棄しようとゴミ袋に突っ込んだのに結局捨てることが出来ずに、実家の自室に放り込んだのだった。
「お義兄さんはウェディングドレスデザイナーの谷津理知 さんとお知り合いなんですか?」
「ウェディングドレスデザイナー?」
オウム返しをしてしまう。
元彼の谷津理知は服飾専門学校に通っていた。卒業後、婦人服メーカーに勤めたことは知っている。けれどウェディングドレスデザイナーかどうかは知らない。
「お義兄さんが緑色のタキシードで、花嫁が青い細長いドレスを着て……キラキラ光るめっちゃステキなドレスの……ファッションショーの写真があったでしょう。あれって谷津理知さんの初めてのウェディングドレスって有名なんですよ」
「……そうなんだ?」
興味なさそうに言って、氷の解けたジンジャーエールをストローで啜る。佐藤和生の作より野性味の少ない甘味の強いものだった。
「いや、勝手に見て悪かったよ。一応、俺も見たけどめっちゃカッケーじゃん。百香が結婚式であのデザイナーのドレスを着たいって言うんだよ」
「僕に言われても……昔の知り合いで、今どこで何してるかも知らないし……」
「谷津理知さんがお勤めの会社は知っているんです。ネットや電話でドレスのデザインを受け付けるシステムなんです」
「オリジナルデザインのウェディングドレスなんてフツーはバカ高いけど、あの会社のは一応リーズナブルで、今わりと成長してる会社なんだ」
「でも谷津理知さんを指名すると、人気があるから時間がかかるんです。来年の結婚式にはとても間に合わない……」
「だからさ。一応、兄貴が口をきいてくれたら知り合い枠で優先してもらえるかと……」
またも婦唱夫随で兄を口説く弟夫妻である。
「だから昔の知り合いだと言ったろう!! 向こうだって覚えてない!」
逸生は被せるように強い言葉で遮った。先程の母の悲鳴より大きな声だったかも知れない。
一瞬、場が凍ったような気がする。真夏なのに。
この場で話に加わらないのは父親だけである。一人だけアイスティーのグラスを手にしてストローでずるずる啜っている。逸生も真似をしてジンジャーエールをストローで啜った。
「頼むよ、いーちゃん」
ここぞとばかりに両手を合わせる弟である。
「百香は谷津理知デザインのウェディングドレスをどうしても着たいんだよ。
結婚式は女にとって一生に一度の晴れ舞台じゃないか」
「一生に一度とは限らない」と言い返さないだけの理性はある。
少なくとも恋愛は一生に一度ではないと教えてくれたのは谷津理知だった。あるいは、恋人は一度に一人とは限らないとも。
有体に言えば逸生は、谷津理知に二股かけられた上に捨てられたのだ。それを認められるようになるまで長い時間がかかったが。
義妹が見つけたウェディングドレスの写真は、谷津理知の卒業制作の課題作品だった。
ヒスイカズラという青い花をモチーフにしたデザインで、逸生もヒスイカズラに模した青い蝶ネクタイを結び、葉のような緑色のタキシードで花嫁をエスコートしてランウェイを歩いた。
人生で最初で最後の体験だった。
ショーが終わってから谷津理知と肩を組んで撮った写真もある。あの頃はそれらの写真をスマホの待ち受けにしたものだった。
逸生は空になったグラスを手に腰を上げた。すると隣の真田百香も腰を上げた。テーブルの角を挟んで二人で睨み合っているかのようである。
「おっしゃるように谷津理知さんがお義兄さんの名前を忘れている可能性もあるかも知れません。
でもお許しいただけるなら、谷津理知さん指名でネット注文する時に備考欄にお義兄さんのお名前を書かせていただきたいんです。
谷津理知さんの卒業制作のモデルを務めた戸倉逸生の弟夫妻ですと。ダメ元で」
何遍〝谷津理知〟の名前を出すんだこの女は⁉
おまけに何が〝ダメ元〟だ!
「悪いけど無理だから。もう全然知らない人だし。大体ネット注文のシステムが出来上がってるなら、知り合いの優遇とかないでしょう」
何やら腹立たしいばかりで、空のグラスをキッチンの流しに置くと(それが家庭内の習慣だった。食器やグラスは流しに置くこと)、さっさとリビングルームを出た。危うく扉の上に頭をぶつけそうになったが一瞬頭を下げて難を逃れた。玄関に直行するのを母が追って来た。
「待って、いーちゃん。夕ご飯を食べて行きなさい。茄子の肉味噌を作ってあるのよ。好きだったでしょう。他にも佐藤先生にいろいろお野菜をいただいたから……」
〝佐藤先生〟と聞いた途端に怒りが爆発した。全身の血が逆流するかのようだった。
「帰るよっ‼」
たぶんその声が、この家に来てから最も大きな声だったろう。怒りに震えているから、靴を履くのもうまく出来ない。母が差し出す靴べらを持つ手もぶるぶる震えている。
リビングの冷房の風は玄関までは届かず、むっとする暑さなのに逸生は全身が氷のように冷えているのだった。
母親が靴箱の上と壁かけ時計とを見比べているのは、
「まだバスの時間があるから……」
カードケースに入ったバスの時間表を見ているのだった。
たとえ都下でもあっても地方都市の不便さは都心に比ぶべくもない。
フォックスヒルズなどと都会的な名の住宅地でも所詮は陸の孤島である。繁華街のある駅に向かうバスは一時間に数本しかない。自身の車がなければ交通手段はバスを待つかタクシーを呼ぶかの二択である。
高校時代、出会い系で知り合った男と会うためにバス亭でバスを待つ時間の空しさといったらなかった。まかり間違ってもタクシーなど呼べるはずもない。
性欲解消のための外出、もっと露骨に言えばヌキに行くのである。
バスに揺られて電車に乗って新宿二丁目まで。
かといって迂闊にホテルスワンなど近場で済ませたら、誰に見られて噂になるか知れたものではない。こんなことをしなければならない同性愛者の我が身をどれだけ呪ったことだろう。
なのに異性愛者ときたらその辺で大っぴらにやって結婚ともなれば周囲に寿がれる。
揚句に細い糸のような伝手を辿ってオリジナルウェディングドレスを作ろうなど何様だ!
そんなどす黒い憤怒のマグマをかき混ぜている逸生を、母は庭に案内するのだった。佐藤先生指導の下に仕上げた〝ターシャ・テューダー風ハーブガーデン〟である。
ローズマリー、ラベンダー、ミントなど母はハーブの種類を教えるが、知らなければただの雑草の群れにしか見えない。
「まだ芝生が残ってるけど、いずれこれも剥がす予定なの。敷石を敷いて玄関からお客様を庭に誘導できるようにするの」
芝生がなくなったら父親はゴルフの練習が出来なくなる。そう考えていると母親は続けるのだった。
「お父さんにはもうゴルフは打ちっ放しに行ってもらうから。お父さんたら前にハーブを全部抜いちゃったのよ。ほら、雑草だなんて言って」
という不満は既にLINEでも聞いている。おそらく父はよかれと思って雑草を抜いたのだろうが、それはハーブなのだった。母は佐藤先生に泣きついて抜かれたハーブを植え直して復活させた。
「佐藤先生がね、ハーブも一種の雑草だから頑強だっておっしゃったけど、本当よね。見て」
既にどれがどの名前だったか忘れたが、繁った葉を手で触り何やら妙な香りがついた指をくんくん嗅いでみる。
「けっこう繁ってるじゃん。この匂い……嗅いだことあるな」
「それはバジル。ほら、ピザについて来る葉っぱ」
逸生は猛々しく繁っている緑を見るにつけ、知らなければ自分だって父同様に雑草のつもりで駆除していた気がするのだった。
「佐藤先生は……そんなにしょっちゅう来てるの?」
あのよく思い出せない典型的日本人の顔を考えると、少し心が鎮まる。
「ううん。このハーブを植え直した後ぐらいに、様子を見に来てくださったの。ほら、オープンガーデンをするお宅を順番に回ってらっしゃるから、ついでにね。農業試験場で研究のお仕事もあるのに大変よね」
「ふうん」
「お父さんたら私達の結婚式の時、勝手に式場を決めちゃったんだから」
唐突に変わった話題にすぐ「うん」と頷けたのは、その話も散々聞かされたからである。
両親はいわゆる見合い結婚だった。けれど母としてはそれなりに恋愛感情もあり、結婚式にも夢を抱いていたらしい。
なのに父親は結婚が決まった以上、さっさと式を挙げて世間にお披露目しなければという気持ちばかりが先走り、母の希望は完全無視されたという。
教会のチャペルで式を挙げて洒落たレストランで披露宴をしたいと語った夢は右の耳から左の耳へと聞き流された。
最も早く予約が取れた(つまり人気のない)古びた結婚式場で地味な式を挙げる羽目になったという。新婚旅行もその式場でセットになっているお安い海外旅行で観光したのはマーライオンぐらいだったという。
「本当に一生に一度のことなのよ。その思い出があるから、主婦なんて地味で退屈な仕事も出来るのに。あんな結婚式……心底がっかりした。すぐに離婚したいと思ったんだから」
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