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第7話 ハーブと野菜
6 ハーブと野菜
逸生はいつまでもバジルの葉を撫でては、指に着いた匂いを嗅いでいた。少しは心鎮まる気がする。母は屈んで逸生が触れた葉を枝ごと盛大に折り取った。
「これで明日、ジェノベーゼを作ってあげる」
「大丈夫なの? そんなに折って」
「すぐにまた繁るから。ほら、適当に間引きした方がいいの。だからね、隆生にも言ったの。結婚式は花嫁の希望を一番に考えなさいって」
何もつながっていない話を「だからね」でつながないで欲しい。
逸生にわかるのは、隆生が嫁の希望を叶えるのに必死なのは、幼い頃から聞かされた母の愚痴を覚えているからだろう。婚前のたった一度の判断ミスを生涯愚痴られたのではたまったものではない。
「無理にとは言わないけど、出来れば百香さんの願いを叶えてあげたいじゃない。もしかして逸生は、そのデザイナーさんと喧嘩別れでもしたの?」
「別に、そういうんじゃ……ただずっと会ってないし」
「なら、久しぶりに会いたいって連絡すればいいじゃない」
「そういう簡単な関係じゃない……」言いたい言葉を飲み込んで、ハーブの枯れた葉を間引いたり根元の雑草を抜いたりしている母の背中を眺めている。
この家で最も背が低いのは母である。逸生や隆生の背の高さは父親譲りなのだ。家の扉と同じく母親も昔は見上げる高さだったのに、今や母のつむじは自分の目の下にある。
母の目にはこの庭も自分とは違う風に見えるのだろう。逸生とは俯角が違うのだから平面の捉え方も違ってくるはずである。
今こうして屈んでいる母はまるで幼い頃の自分に等しい身長である。
「ほら、お母さんもプチ同窓会でね。昔喧嘩別れした人と再会したら、お互い誤解していたのがわかって……すっかり仲直りしたのよ」
誤解も何も、逸生がなかなか会えない谷津理知の部屋に行ったら既に知らない男と同棲していたのだ。
あの時の衝撃は胸の中に焼き印を当てられたように今も黒々とした焦げ跡となって残っている。
逸生のどす黒い思いも知らずに母はまた〝プチ同窓会〟について解説するのだった(もう何度も聞いている)。
母は長野県の女子高校を出てから東京の大学に進学して就職後も東京に暮らしていた。そして父と結婚して真柴本城市のマイホームに定住したわけである。
東京近郊に住んでいる同級生も多いと知ってはいたけれど、プチ同窓会を催す運びになったのは、それぞれ子供の手が離れる時期だからである。
「女は結婚したら家族の都合が優先だもの。だからほら、家族の負担にならない昼間に集まってランチを楽しむことにしたの」
「それで園芸にハマったんだろう」
「そうなのよ。自家製のハーブティーを持って来てくれた人がいて。それが喧嘩別れした友達なのよ。だから私も試しにハーブ、最初はラベンダーを植えてみて……」
ようやくハーブ達の前から腰を上げて母は、逸生の目を見上げるのだった。
「昔の喧嘩なんて案外そういうものよ。一度連絡してみればいいじゃない」
「…………」
逸生は唇が切れる程に噛みしめた。そして母について玄関に向かいながら、
「佐藤先生の野菜……食べたい」
と言うのが精一杯だった。
真夏の太陽が沈みきらないうちに夕食が始まった。隆生達が今夜中に名古屋の百香の実家に帰るからである。本当に逸生と話をするためだけに帰省したようだった。
佐藤和生の野菜で作られた料理をもそもそと食べる。茄子の肉味噌は逸生の好物で、トウモロコシの味噌汁は隆生の好物である。妙にヘルシーな物が好きな兄弟だった。
「えっ? トウモロコシをお味噌汁に入れるんですか」
未来の嫁が、輪切りにしたトウモロコシが沈んでいる味噌汁に驚いていた。
「そう。粒だけじゃダメなの。ほら、トウモロコシ本体から出汁が出るから」
二人を本城駅まで送って行く父は逸生と同じく下戸だからノンアルコールビールなどを飲んでいる。
隆生は嫁の希望を叶えて(いや逸生はまだOKを出していないが)安心したのか缶ビールを次々と空けている。こちらは母の血筋か上戸なのだった。
「じゃあ、お義兄さん。よろしくお願いします。またご連絡しますね」
帰りに玄関先で酔っ払ってふらふらしている隆生を支えて真田百香は、頭を下げながらも逸生の目をまっすぐ見るのだった。弟の同僚だというこの義妹は、どうも夫より仕事が出来る嫁のような気がした。
父が運転する車で二人が帰って行くと、逸生は母と共にダイニングキッチンの後片付けをするのだった。二人で流しに並んで汚れた皿や食器を洗う。
「百香さんのお兄さんはもう結婚して名古屋で、ほら、ご両親と二世帯同居なんですって。
隆生ったら百香さんと真柴本城に定住して、いずれは私達の介護をするなんて言うのよ」
「ふうん」
「もしいーちゃんがずっと一人なら、その介護もするんだって」
「……はい?」
布巾で食器を拭きながら母の顔を見下ろす。
「ちょっと失礼よね。いくら弟だからって」
受け取った食器を戸棚にしまいながら、あわてて言い足す母である。
昔から隆生は逸生がもてないと決めつけていた。確かに男性にも女性にも、もてる方ではなかったが。
バレンタインデーのチョコレートは妙にマニアックな女子に一つ二つもらったぐらいである。男子とは出会い系のセフレやウリセンと性欲解消をしていただけだった。
谷津理知との交際が初めての恋愛といっても過言ではない。そして無惨に失恋したのだった。
隆生は少なくとも逸生よりは多くバレンタインチョコをもらっていた。そして、それなりに男女交際をしていた。家に〝彼女さん〟を連れて来ては失恋していた。そんな姿を家族全員が知っているのだった。
誰にも明かせない恋をしてふられた逸生とは大違いである。何にせよ末っ子は最強だと思わずにはいられない。
「今は、ほらマッチングアプリ? そういうのでお見合いが出来るみたいよ。いーちゃんも一度やってみたらどお?」
と言い募る母親に布巾を渡すと、
「俺、風呂入って寝るから」
ダイニングキッチンを出た。今回も辛くも框に頭をぶつけないで済んだ。
「ベッドにタオルケットは出したけど。寒かったら押し入れに夏掛けの布団があるから出してね」
荷物を持って二階の自室に向かう逸生に、母が階段の下から言っていた。
部屋のドアを開けて明かりをつけると、真新しいシーツを敷いたベッドになるほどタオルケットが畳んで置かれている。十八才で実家を出てからもう十年がたつ。けれど母親は部屋をそのまま保っていてくれている。
だがベッドの足元には、透明なゴミ袋に何枚も重ねて入れた写真パネルが立てかけられているのだった。確かこのゴミ袋は押し入れに突っ込んだはずである。それを出して写真が見えるように立てかけたのは母親だろうか。
逸生は戸口に佇んだまま写真から目が離せなかった。
これらパネルをゴミ袋に入れて佐藤和生と交際する踏ん切りがついた。谷津理知と別れてから一年以上たってからである。
何しろ当時出会い系で逸生は自分の名前を〝リチ〟と称していたのだ。未練がましいことこの上ない。
谷津理知の裏切りを知った夜にはまだこのパネルは捨てられず、ただアパートの部屋の壁から外して押し入れに突っ込んだだけだった。
それから佐藤和生とつきあうようになったのは、ただ失恋の穴埋めに過ぎなかった。
そしてデートで温室に連れて行かれて、満開のヒスイカズラの花を見たのだ。宝石の翡翠のように青い花房を見て逸生は泣いた。
谷津理知が卒業制作の参考として訪れた温室ではまだ花は咲いていなかったのに。間に合わせのセフレと二人で何でこの花を見なければならないのかと号泣したのだ。
そうして、押し入れにあったパネルをようやくゴミ袋に突っ込んだ。佐藤和生を新しい交際相手と決めた瞬間でもあった。
それをゴミ捨て場に持って行くはずが、何故か実家の自室に運び込んでいた。
このためにレンタカーまで借りて何枚ものパネルを積んで……いやいや、失恋旅行に出るついでに実家に寄って押し入れにゴミを放り込んだのだ。
まったくもって未練がましく優柔不断な自分に愛想が尽きる。こんな物はとっくに処分しておくべきだった。
悄然とベッドに腰を落とす。と、スマホからメッセージの着信音がした。
〈とりあえず撮れた写真〉
礼文島にいる佐藤和生からだった。〈チシマリンドウ〉〈レブントウヒレン〉〈リシリブシ〉等々、色鮮やかな花の写真が次々と送られて来る。それらにいちいち既読をつけながら、逸生が何より不満なのは、
〈自撮りはしないのか?〉
ということだった。嬉々として花の姿に見入る佐藤和生の顔を見たかった。
〈しないけど。何で?〉
思わずむっと口を噤んでしまう。階下から母が、
「逸生、先にお風呂に入っちゃいなさい。お父さん帰って来たら長湯だから、しばらく入れないわよ」
と怒鳴っている。渋々腰を上げた。荷物から着替えを出して階段を降りる。手にはスマホを持ったままである。
〈カーキの顔が見たい〉
そう返信したのは風呂に入る直前だった。
外では戻って来た父の車が車庫に入る音が聞こえていた。
一人暮らしでは聞くことのない、他の人間のたてる生活音。久しぶりにその中に身を置いたお盆休みだった。
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