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第8話 ヒスイカズラの呪い
7 ヒスイカズラの呪い
真田百香の行動は素早かった。
〈谷津理知さんと連絡がとれました。
お兄さんの名前も覚えていらっしゃいました。
戸倉逸生さんには特別な恩義があるから、私のドレスのデザインは誰よりも早く受け付けてくださるとのことでした〉
何だその〝特別な恩義〟とは?
まさか理知は二人の関係を義妹に明かしたのではあるまいな?
と疑心暗鬼に陥るのだった。
ともあれ、デザインの打ち合わせに理知の勤めている会社に出向く百香に同行することになった。隆生からは〈よろしく〉と丸投げのLINEが届いただけである。
〈二人の結婚式の衣装だぞ。隆生が行かなくていいのか?〉
〈ドレスのことはわからない。百香につきあってやってくれ。よろしく〉
と〈よろしく〉ばかりを送り付ける弟だった。
原宿にあるデザイン会社に出かけたのは八月も末の金曜日、仕事終わりの午後六時過ぎだった。はっきり言って月末は忙しいのだが、これを限りに元彼や弟夫妻との面倒事が終わると思えば無理をしてでも約束の時間に駆け付けた。
駅前の妙に派手で賑々しいビルの中に、聞き覚えのある婦人服メーカーの本社があった。確かに谷津理知が就職した会社である。そこのウェディング部門の専属デザイナーになったらしい。
ハイセンスなインテリアの応接室で逸生と百香、理知とその上司らしい中年女性とが向かい合った。率先して名刺交換を始めたのは真田百香だった。まるで社用で訪れたかのように四人で名刺交換してから腰を下ろすのであった。
「結婚することになったのは、弟さんだよね?」
並んで座った逸生と百香を見比べる谷津理知である。ウェーブのある髪はツーブロックに切り揃えられ、黒髪に少しばかり金のメッシュが入っている。
「ええ。私が結婚するのは弟の方です。今日は彼が忙しいので、義兄 の逸生さんに来てもらいました」
はきはきと返答する義妹である。
逸生はうつむいて理知を直視することは殆どなかった。
名刺や百香そして上司の中年女性とを順番に眺めるばかりである。
百香が淀みなく話しては促されるたびに「はい」「ええ」「そうなんです」と合いの手を入れるばかりだった。まるで漫才師の相方である。
初の打ち合わせが終わり応接間を出ると、エレベーターホールに案内しながら、
「よかったらこの後、食事でもどうかな?」
と谷津理知は逸生の背に手を当てた。
「いいですね」と、すかさず応じたのは義妹だった。
「私は名古屋に帰りますけど、お義兄さんは理知さんとお食事をなさってください。
隆生さんのこともいろいろ話してくだされば、デザインのヒントになるかも知れないし」
「なるかよ! 隆生のことなんか」漫才の相方としてそう思っただけである。
逸生は頷きも頭を振ることもしなかった。けれど理知はすっかり首肯されたかのように、より強く逸生の肩を抱くのだった。
理知の細く器用な指が肩甲骨に当たる感触が頭を真っ白にした。何かが逸生の全身を総毛立たせた。それが何か認識するより早く頬は赤く染まっているのだった。
肯定も否定も出来ない状況で百香を原宿駅に見送り、理知が停めたタクシーに乗り込んでいるのだった。
タクシーは夜の中、新宿の高層ホテルに向かって走って行く。
先に佐藤和生に会っておくべきだった。
思っても後の祭りである。
利尻島・礼文島の旅行から帰って来た佐藤和生は、休暇中は他人任せだった職場の花や野菜の手当てに追われているようだった。
〈カーキに会いたい〉
という逸生にしては珍しく率直なメッセージに対して、ハートマークやら笑顔やら様々なスタンプが連打されて来た。
その後は、やれ何の苗が根腐れしたの、何の野菜に害虫がついたのと、多忙の言い訳ばかりである。
やっと写真が届いたと思えば、本当に腐った野菜の姿だったりする
そんな物、誰が見たいか!
といった心境で谷津理知との再会に臨んだわけである。
連れて行かれた新宿の高層ホテル最上階にはフレンチレストランがあった。夜景が一望できる。理知はワインリストを眺めていたが、
「僕はアルコールは駄目だから。炭酸水でいいよ」
言った途端に「えっ?」と眉をひそめられる。
理知は慌てて、
「あ、そうか。そうだったよな」
と頷いたがもう遅い。
逸生のことなど完全に忘れていたのだ。単にかつて身体を交した相手としか覚えていなかったのだろう。あわよくばベッドに誘えると下心満載でこの店を予約に違いない。
そう思うや腹立たしさのあまり料理の味わいも失せるのだった。話もろくに耳に入らない。
「あの頃は貧乏学生だったから。こういう場所に連れて来たかったのに、悪かったと思ってる」
などと言われた時ばかり、悪かったと思うべきは別のことだろうと皮肉に考える。
「若かったから考えなしで、ひどいことをしたと思うよ」とか
「今はまるで一人だよ。仕事も忙しいからね」とか
「今日はこの後、空いてるんだろう?」とか
理知の口からは次々と言葉が出て来た。
相変わらず逸生は漫才師の相方で「うん」「いや」「別に」と合いの手を挟むばかりだった。
そしてテーブルの上にホテルのカードキーを置かれた時だけ言葉を飲み込んだ。
「ほらね。ワンチャン狙いだったろう」という言葉を。
代わりにじろりと理知の目を睨めつけた。今回の再会で初めてまともに顔を見たかも知れない。
「一度もこういう場所にも連れて来れなかった。これはお詫びのつもりだよ」
憤怒と共に睨みつけた理知の瞳は光り輝いている。まるで明りを落したレストランの窓の外に広がる夜景の一部であるかのようだった。
と、にわかに逸生の鼻先にオードトワレの香りが過った。
ああ、そうか……。
先ほど全身が総毛立ったのはこの香りを感じたからである。
スパイシーな理知のトワレは、肌を合せた時だけ気づくごく淡い香りだった。
理知の枕やシーツに鼻を埋めれば香りが染みついているとわかるのだが、着衣の時には気づかないはずだった。
なのに今、テーブルを隔てているのに香り立つのはどうしたことか。目の前の理知はほんの少し身じろぎしただけなのに。
またしても頭が真っ白になり全身が総毛立つ。
香りと共に蘇るのは、閨房でのはしたなくも悦ばしいあれやこれやである。
初めて知った優しく丁寧に挿入される快感や、両の肩甲骨にひたと両掌を当てられ愛撫され、襟足から背筋を通って脚の分岐点まで口づけを下ろされる愉悦やら。
触れ合った肌と肌の間には常にトワレの香りがあった。さながらヒスイカズラの蔓のように身体にまとわりついていた。
「帰る」
思いを断ち切るかのように逸生は立ち上がった。
無様に身体がテーブルにぶつかり真っ白なテーブルクロスに並んだ銀のカトラリーが、かちゃかちゃ鳴った。心の迷い表すかのような音である。
構わず席を離れて出口を目指した。
理知のことなど見向きもしなかった。
いいのだもう。あんな男のことは気にしなくても。
二股かけて人を利用したくせに、機会があれば懲りずに盛 ろうとする男など。
もはやどうでもいいのだ。
〈カーキに会いたい〉
その言葉に嘘はなかった。
カロカロカロと向こうから響いて来るのは犬の首輪に付いた小さなカウベルである。
ひどく簡略なワンピースを着た中年女性が、白い和犬の散歩をしている。
時間的には早朝なのに蒸し暑さはまるで正午並みである。ガサガサとコンビニのレジ袋の音をさせて、逸生は犬の散歩とすれ違う。軽快な犬の歩みと比ぶべくもない重い足取りである。
のろのろとアパートの外階段を上がって、廊下を部屋に向かう頃にはカロカロという音は遠ざかって聞こえなくなっていた。
扉の前に佇む人がいる。思わず回れ右をしたくなる。
「こんな朝早くからどこに行ってたの?」
「いや、そっちこそ。何でこんな朝早く……?」
ずるずると足を引きずるようにして部屋の前に辿り着くと鍵を空けた。
「いーちゃんたら、全然既読にならないんだもの」
逸生の腕を揺するのは、先程の犬の散歩の中年女性と大差ない背丈の母だった。
「金曜日に百香さんとデザイナーさんに会いに行ったんでしょう?」
「行った」
「土曜日は? 昨日は?」
「寝てた」
「スマホぐらい見なさいよ」
「……どこにやったかな?」
「ちょっと、いーちゃん!」
矢継ぎ早に質問する母親に対して逸生はまた漫才師の相方である。
部屋に上がってダイニングキッチンのテーブルにコンビニで買って来たおにぎりやお茶のペットボトルを出せば、
「いやだ。それが朝食なの? 待ちなさい。ほら、お母さんが何か作ってあげるから」
という仕儀になる。
母親が狭い台所で朝食を作っている間、逸生はベッドの周囲にスマートフォンを探した。
這いつくばってベッドの下まであらためたが、結局スマホは枕の隙間から落ちたらしくマットレスとヘッドボードの間に挟まっていた。
LINEには何件ものメッセージが入っていた。母から、隆生から、真田百香から、そして佐藤和生から。
谷津理知にはこの連絡先は教えていない。
金曜日の夜、逸生は夕食の途中で勝手に「帰る」とフレンチレストランを飛び出したのだ。後も見ずにエレベーターを呼んで飛び乗った。このホテルの地階から地下鉄通路に出られることは知っていたから、箱に飛び乗ると地階へ向かうボタンを押した。
両扉が閉まる寸前に手が差し込まれた。細く繊細な指のあの手が。
エレベーターの扉が開き切る前に理知が身体を斜にして押し入って来た。いきなり身体を抱きすくめられ口づけをされる。
逸生は遮二無二その身体を引き剥がして、渾身の力で外に突き飛ばした。弾き飛ばされた理知は見事なまでに尻餅をついた。
唇を拳で拭いながら、扉の閉まるボタンを連打した。そして、
「もう会わない! ドレスの話は義妹 とすればいい! ご馳走様!」
喚き散らした。
途中の階で乗って来た老夫婦が、ぎょっとしたように逸生の顔を見て箱の奥に行った。乱暴に拳で唇を擦る逸生は、憤怒の形相も凄まじかったに違いない。手で拭くだけでは気が済まず、ポケットからハンカチを出して何度も拭った。
地下鉄に乗り一度乗り換え一人暮らしのアパートに帰って来た。その後のことはよく覚えていない。いや思い出したくない。
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