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第9話 チシマリンドウの咲く場所
8 チシマリンドウの咲く場所
土曜日はただベッドの中で輾転反側していた。スマートフォンがメッセージの着信を知らせる音が煩わしく、電源を切って放り出した。その後ベッドの隙間に発見するまでスマホの行方を気にすることはなかった。
近所の犬が散歩する音、カロカロカロと鳴る小さなカウベルの音は何度も聞いた気がする。正確には土曜の朝夕だけなのだが。
そして日曜日にはさすがに空腹が募ってコンビニに朝食を買いに出かけたのだった。そこでカロカロ犬と飼い主の散歩とすれ違ったのだ。
料理をする母親を眺めながらキッチンテーブルでスマホの着信を確かめる。
〈百香さんがお礼を言ってきたわよ。逸生のお陰でデザイナーさんに会えたそうね〉
から始まる母のメッセージは、
〈隆生は行かなかったのね。夫婦でいっしょに行くべきなのに。今からそれじゃ結婚したらどうなるのかしら〉
と続いて最終的には、
〈お父さんたらひどいんだから〉
に落ち着くのだった。
詳細を文字にするのは面倒で、愚痴を吐きに逸生の部屋までやって来たらしい。
テーブルに広げられた料理は、玉葱とワカメの味噌汁、スパニッシュオムレツに千切りキャベツなどである。逸生の台所に妙に野菜が多いのは、佐藤和生のお陰である。
主食はコンビニおにぎりだった。フィルムを剥がしながら、
「待ってよ。お母さん。今ここに着くのに家は何時に出たわけ?」
逸生はようやく気がつく。
「始発バスが出る前だったから、車を運転して駅前の駐車場に入れて電車に乗って来た」
得意気に言う母に逸生は一瞬黙り込んでしまう。
「それじゃ、日曜日なのにお父さんゴルフに行けないじゃん」
「行かなきゃいい」
鼻息荒く言って、カップにコーヒーを淹れる母である。
「JRで都内に着いて、ここの地下鉄に乗り換える前に駅でおそばを食べたの。立ち食いそばなんて初めて。春菊の天ぷらを揚げたてのを入れてくれて、美味しかった!」
単なる駅そばに喜ぶ母は、基本箱入り主婦なのだ。逸生や隆生が中高生の頃には多少パートなどもしていたが、常に〝家にいるお母さん〟なのだった。
たらこ昆布のおにぎりにかぶり付いてから、ため息まじりに尋ねる。
「何? お父さんまた何かしたの?」
どうせ父親はまた見当違いな親切で失態を積み重ねたのだろうと思ったのだが。自分と逸生の前に淹れたてのコーヒーカップを置くと、母は黙って椅子に腰を下ろした。
「ひどいんだから、お父さんたら……」
と口を尖らせながらも言い淀んでいる。コーヒーを啜ったり、自分で作った料理に箸を伸ばして味見をしたりした揚句、
「佐藤先生がね……」
言われた途端に逸生は口中のご飯を丸飲みしてしまった。
「佐藤って……に、庭の先生?」
「そうよ。逸生は雨の日に車で駅まで送ってもらったでしょう。いい先生なのよ。また庭を見に来てくれて。芝生を剥がすのも手伝ってくれたの」
「うそ。マジであの芝生を剥がすの?」
「剝がしたわよ。玄関から小道を作るんだから。敷石を敷いて」
何だかんだと忙しがって逸生の部屋には来ないのに、庭の先生として実家の芝生は剥がしに行っていたのか。少しばかり嫉妬する逸生である。だが、続く母の言葉に心中はいよいよ穏やかならぬものになった。
「お父さんたら、お母さんと佐藤先生が何か変な関係みたいに……」
「変な関係?」
「女が一人でいる家に、若い男が一人で来るなんて礼儀知らずだとか何とか……ひどいことを言うんだから」
「あ、はあ……まあ、そうなのかな?」
言われてみれば、女性一人の家に男性が入り込むのは失礼なのかも知れない。
佐藤和生と母親が二人きりでダイニングキッチンで談笑していても、その点については気にもしなかった自分を反省する。どうも自分は男女関係については一般常識に欠けているらしい。
母は膝の上で両手をこねくり回して、パンでも捏ね上げそうな勢いである。
「先生が私に、変なことを……いやらしいことをしてるって……」
「はい?」
逸生は思わず椅子から腰を浮かせてしまった。
「だって、先生はいーちゃんと同じぐらいの年なのに。そんなのあり得ないじゃない」
「ええ⁉」
驚きの声を上げながら「ちょっと待てよ?」と自分で自分に言っていた。佐藤和生 がバイセクシャルではない保証がどこにある?
名前の読みが〝サトウカズオ〟だと思い込んでいた当初から、完全ノンケの同性愛者だと思っていたが、果たしてそうなのか?
瞬間、頭に浮かんだのは、あの農家の庭先で佐藤和生が若い従姉妹と抱き合っていた姿である。コリー犬のような髪色の女性だった。しかも佐藤和生はあの女性の花柄ワンピースを衆目の前で強引に剥ぎ取っていたのだ。いや袖付きエプロンだったか。
もしや佐藤和生は男女どちらも愛せる両性愛者だったのではないか?
思いもよらぬ不安に捕われる逸生に向かって、母親は訴えるように言うのだ。
「ほら、私は虫が嫌いじゃない」
今度はいきなりあのアマゾネスいや義妹が仁王立ちになってゴキブリを踏み潰した姿が頭に浮かぶ。
「スコップで芝生を剥がしている時にね、ほら、大きなカマキリが飛んで来て……こーんな大きなカマキリが」
と母は両手を広げて大きさを示したが、それはもうカマキリというより鎌の大きさである。
「それで私の胸に留まったの。もう、もう……怖くて私がパニクッてたら、佐藤先生が取ってくれようとして……」
言いながら母はその時の恐怖を思い出したのか青ざめている。
「でも、ああいうのって、ほら脚がトゲトゲじゃない。UVパーカーに引っかかって全然取れなくて、そしたら先生がパーカーを脱がせてくれて……で、服からカマキリを取ってくれたの」
母が半狂乱でUVパーカーを脱ぎ捨てる姿が目に見えるようだった。と同時に佐藤和生がそれを手伝い、布地に絡まったカマキリの脚を外してそっと空に放してやる様も。
「お父さんたら、それを居間の窓から見てたらしくて。その場で言えばいいものを、いきなり土曜日の夜に……佐藤先生が私の胸に触ったとか、服を脱がせたとか、いやらしい言い方をするんだから」
「佐藤先生って男女構わずべたべたするところがあるよね」
思わず口にしてから失言に慌てたが、母は「そうなのよ」と大きく頷いただけだった。
「考えてみれば、園芸倶楽部の人達も言ってたの。ほら、佐藤先生は親切過ぎて女の人に誤解されがちだって」
「そ、そうなんだ?」
と不自然に頷いているところに玄関チャイムが鳴った。慌てて席を立って玄関ドアを開けた逸生は石像のようにその場に固まってしまった。
「おはよう。パン買って来たんだ。一緒に食べない?」
満面の笑みで佐藤和生がレジ袋を掲げて見せている。袋からは焼きたてパンの香りが漂っている。
「あっ⁉ うっ! えっ⁉」
きょろきょろと室内と室外とを見比べるしかない逸生である。
「佐藤先生⁉」
と背後からやって来た母親が背中に張り付くに及んで、石像だった逸生はぐずぐずと砂と化しその場に座り込んでしまった。
「嫌だ! どうしたの、いーちゃん?」
「やっぱり具合悪かったんだ? ずっと連絡取れないし……」
母や佐藤和生に両脇から抱えられて呟いたのは、
「腹が……減った」
途端に佐藤和生が吹き出して、
「井之頭五郎か!」
と背中を叩いた。
「いや……」
逸生は思わず口元がほころんでしまう。
空腹なのは本当だった。あのホテルのフレンチ以来、何も食べていなかったのだから。
「え? 佐藤先生はいーちゃんと知り合いだったの?」
母親は当然の疑問を呈する。
「だって六月に車で駅まで送ったじゃないですか。その時に意気投合して……ねえ?」
すかさず佐藤和生が言う。
顔を覗き込まれて逸生はがくがく何度も頷いた。今時〝意気投合〟などという言葉を使う奴がいたかと内心思いながら。
「いろいろ話が合って……」
逸生が付け足すのに母は納得したらしい。
とにかく空腹な逸生は改めてコンビニおにぎりや母の手料理を貪り食うのだった。
佐藤和生はテーブルの向こうでスマホを広げて、利尻島や礼文島で撮って来た花の写真を母に披露している。
「まあ、これがチシマリンドウ? ステキ! ちゃんと自生しているのを、佐藤先生が見つけて撮った? 羨ましい」
目を輝かせて感嘆する母に、佐藤和生も満更ではない表情である。たぶん逸生は同じ写真を見せられても、ここまで感動は出来ないだろう。良い観客がいてこそのショータイム(?)なのだった。
そうして昼前に母は帰って行った。
いや、真柴本城市の実家には戻らずに、都内に住む高校時代の同級生の家に泊まりに行くとのことだった。玄関先で逸生はしきりに母を説得した。
「いや、お母さん。一度家に帰ってお父さんと話した方が……」
「言いたいことはもうLINEで伝えてあるから。お母さんも少しは好きにさせてもらうの」
佐藤和生には母が夫婦喧嘩をして家出して来たとだけ伝えていた。その原因が佐藤和生にあるとは言えなかった。だから佐藤先生としては、
「でも、千帆子さん。まだ暑いから庭の水やりもこまめにしないと花が可哀想ですよ」
というとりなし方をする。母親は頷きながら、話を思いもよらない方向に進める。
「でも、佐藤先生が逸生と仲良くしてくれてよかった」
玄関先に並んで立った二人は共に黙ってしまう。
「ほら、この子は昔から友達が少なくて。弟はよく同級生とか彼女とか家に連れて来たのに。佐藤先生、逸生をよろしくお願いしますね」
にわかに丁寧に頭を下げられて、佐藤和生も「はい!」と背筋を伸ばしてお辞儀をするのだった。
逸生は何故だか急に新宿のホテルの夜景が蘇り、再び心が激しく揺れ動くのだった。
地下鉄の駅まで送ると言うのを断わって、母は一人で帰って行った。
逸生は何となく玄関を出て二階の外廊下から母親が階段を降りて道の向こうに小さくなるまで見送っていた。遅れて出て来た佐藤和生が背後に立って視線を同じくしていた。
「母親って……何だかヤバイよね」
と背中に張り付いて言われて、黙ってこくんと頷いてしまう。
確かに母親とは誠にヤバイ存在ではある。特に同性愛者にとっては。
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