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第10話 クリスマスローズは咲かない

9 クリスマスローズは咲かない  二人で母を見送って玄関に入ると、逸生は遅れて入って来た佐藤和生の身体をそっと抱いた。まだサンダルを履いたままで部屋に上がってもいない。戸惑いながら鍵を掛ける佐藤和生に、 「キスして」  と言った。 「え?」  佐藤和生が一瞬戸惑ったのは、常ならば逸生はそんなことは口にせず行動してしまうからである。  はにかみながら唇にちゅんと雀のようなキスをする佐藤和生である。だから逸生もちゅんちゅんと雀のキスを何度も返した。  これは禊なのだ。金曜日の夜、ホテルのエレベーターで谷津理知に穢された唇は佐藤和生によって浄められたのだ。思わず身体を強く抱き締めて、 「痛い痛い痛い」 「ごめん」  力を緩める。  腕の中の身体からはオードトワレの香りなどしない。むしろ汗や土の匂いがするのは、朝一番で庭仕事でもして来たのか。陽気のせいもあるだろう。後でじっくり身体を洗ってやろうと少しばかり淫乱な気分である。 「ねえ。金曜日からずっとスマホが通じなくて、ご飯も食べなかったんでしょう? 何かあったの?」  耳元で言われてさらさらの髪に頬を擦りつける。そうして囁くように、 「カーキは……女の子とも出来るの?」  何で禊の後に薄汚れた疑惑の言葉を吐いてしまうのか。淫乱気分が台無しである。  佐藤和生はあんぐり口を開いて逸生を見上げる。 「……なわけないじゃん」  呆然として呟くと、にわかに逸生の胸を突いて離れると玄関を上がって行った。あわててその後を追う。 「だって、実家で髪がメッシュの女の子と……抱き合ってたし」 「礼衣良(れいら)は赤ん坊の頃から一緒に育った従姉妹(いとこ)。妹みたいなもんだよ。僕は女の子と何かしたことはない。男とだけだ」  珍しく乱暴にベッドに腰をおろす佐藤和生である。そして逸生を睨みつけた。 「逆に訊くけど、逸生さんこそどうなの? 男性オンリー?」  逸生は佐藤和生の横に座って肩を抱いた。睨んでいる顔に額を寄せて、 「ごめん。僕は男だけ。いや……カーキオンリー」  ぎゅうと抱き締めキスをする。謝るかのように唇の隙間からそっと舌を差し入れる。口腔をまさぐり舌を絡めて、ふと堪え切れぬような吐息を聞くまで何度も濃厚に唇を貪る。  肩に当てられる佐藤和生の指は谷津理知のものとは明らかに違う。実は佐藤和生の指は農作業や庭仕事によるものか、案外に武骨で指の節々は骨ばっている。なのに身に触れる掌はこの上もなく優しく繊細である。  逸生は無骨な手を取って握り締めた。 「キーちゃんオンリー」  と潤んだ目を覗き込み、節くれだった指に口づけをする。くすっと笑う声がする。だから言葉を爪先から体内に植え付けるかのように、口に含んだ指を舌で何度も舐るのだった。 「いーちゃん……て呼んでいい?」  耳元に吐息のように聞こえたので頷いた。  二人で「キーちゃん」「いーちゃん」と言い合いながらベッドに倒れ込み、手足を絡めて息を荒げる。  家の外からカロカロカロと犬が夕方の散歩をする音が聞こえて来る。  ひと頃より日が暮れるのが早くなっている。風呂に入って部屋に戻れば室内はすっかり薄暗くなっている。  明りをつければ愛欲の残滓というには散文的過ぎる景色である。無惨にも寝乱れたベッドシーツやタオルケットの合間には丸めたティッシュペーパーが散っている。  ついうなだれてゴミを拾い、シーツは洗濯したての物と交換する。タオルケットと共に床に落ちていた小箱にはまだゴムが数個残っている。いや一体何を数えているやら。  朝食後に母親が帰って間もなくベッドに入ったのだが、何故もう日暮れ時なのかよくわからない。  何度も睦み合って合間に昼食らしきものもとった。佐藤和生が買って来た焼きたてパンである。  その時にさり気なく尋ねたものだった。 「オープンガーデンに行く家では、いつも上がってお茶飲んだりするの?」 「ううん。ふつうは庭だけだよ。縁側には座ったりするけど」 「でも、カーキは家のダイニングキッチンにいた。あれって……」 「あれは千帆子さんにジンジャーエールの作り方を教えるのにさ。それと、雨が降りそうだったから」 「ふうん」 「何? それって……もしかして千帆子さんが家出して来たのと何か関係あるの?」 「いや。ちょっと知りたかっただけ」  とクリームパンを頬張っているカーキの背後に付いて髪を撫でる。手を流して耳から首筋、前に回して胸を撫でるついでにクリームパンを取り上げる。 「待っ……まだ食べ……」  パンからこぼれたクリームを頬になすり付けるのはお約束である。それを舌でねろりと舐め取る。淫猥な舌はやがて相手の唇を割って口中を蹂躙する。 「やめ……んン、あふん……」  何ならクリームを乳首になすり付けてもいい。などと思いながら午後の部は再開したのだった。  ずっと会えなかった分は充分に取り戻したと思ったが、翌朝も互いの元気な物を確認してわずかな時間も励むのだった。出勤まではまだ間があるし、小箱の中の物はちょうど二人分あるし。  何度「カーキ」「いーちゃん」「キーちゃん」を繰り返したかわからない。「いい」「イク」という言葉とどっちが多かったやら。  ビジネス用語に〝ほうれんそう〟という言葉がある。報告・連絡・相談で〝ほうれんそう〟が仕事の基本であると。  真田百香のウェディングドレス注文に関しての〝ほうれんそう〟は過不足なかった。  谷津理知とたびたびリモートで打ち合わせをしているという。既に正式な契約も済ませて、来年から動き始めるという。  一月にはデザインを決めて生地や素材を選び、採寸、仮縫い、試着、本縫いの後に最終試着。そしてドレスの引き渡しが六月の結婚式前とのことだった。  百香の報告のたびに、逸生はため息が出るばかりである。たかがドレス一枚それも結婚式当日、ほんの数時間着用するだけの物のために、ここまで金も時間も労力もかけるのかと思うと驚くばかりである。  谷津理知に新宿のホテルでされたことは許し難いが、それとは別にここまで大変な仕事で名を挙げたことには感服せざるを得ない。  斯界では既に〝リチ〟で通るようになっている。なので百香も〝理知さん〟と呼ぶ。そして報告の折々に、 〈理知さんは逸生さんの連絡先をお知りになりたいそうです〉 〈理知さんに逸生さんのご連絡先をお伝えしてもよろしいでしょうか?〉  などと言って来る。  逸生は常にNOと答えている。  けれど百香に理知の仕事ぶりを聞くにつけ、義兄として感謝の意を表すべきではないかと意味不明な義務感に駆られたりする。   〈理知さんは先日お会いした時にお義兄さんにとても失礼な事をしたと気にしてらっしゃいます〉  百香がそう伝え来るに及んで不安になる。  もともと理知は同性愛者であることを隠していない。客にわざわざ打ち明けることはないだろうが、百香はあれだけ熱心なファンなのだ。既に風聞は耳に入っているかも知れない。  となれば、逸生との関係を疑っているのではないか?   などと疑心暗鬼は募るばかりである。  おまけに理知の名を聞く度に、ホテルでの不埒な行動を思い出しては不快になる。精神衛生上まことによろしくない。  はっきり言って理知に対する未練は全くない。やっと過去の男になったと認識するばかりである。  もはや義姉の結婚衣装を注文したデザイナーに過ぎないのだ。ならば自分より、百香の夫になる隆生こそが関わるべきだと思うのだった。 「隆生ったらウェディングドレスのことも結婚式のことも、みんな百香さん任せなのよ」  九月になってまた真柴本城支社に仕事に行った折に実家に一泊した。その間、母の話は弟の結婚式が半分、自分のオープンガーデンが半分だった。  門を入るとモッコウバラのアーチを潜って玄関を訪うが、クレマチスの柵を背にして表庭に向かうレンガの小道が出来ている。その道を縁取っている花は、 「シュウメイギクなの。ほら、佐藤先生に教えてもらったのよ」  夕食の席でそう言う母に逸生は「ふうん」とご飯を食べながら、父をちらりと見るのだった。 「本当はクリスマスローズにしたかったんだけど、花が咲くのは冬だから。オープンガーデンには間に合わないでしょう」  父はのっそりと背を丸めて南瓜の煮物を口に運んでいる。その野菜も逸生が〝佐藤先生〟からもらった物を送ったのだが。  あの不倫疑惑による家出から、両親の仲はどうなったのだろう。逸生が母からのLINEで知ったのは、アパートから高校時代の同級生の家に寄って一泊の後、無事に帰宅したとのことだけである。 〈お父さんには謝ったの?〉  と問えば返って来た答は、 〈何で私が謝らなきゃいけないの?〉  だった。  そりゃまあ、そうなのだが。  結局その晩も逸生は両親の夫婦喧嘩の顛末を知ることなく眠りについたのだった。  自室の壁に立てかけてあったゴミ袋入りの写真パネルは、また押し入れに仕舞い込んだ。  何故それが外に出されたかといえば、大きなプラケースが入っていたからである。その中には、デコパージュ、キルト、羊毛フェルトといった趣味の道具が詰め込まれていた。  母は園芸にハマるまでは、そういった家の中で出来る趣味を試していた。少しばかり作品を作っていたのは見知っていたが結局は飽きたらしい。言ってみれば母の黒歴史が詰まったプラケースである。  その隙間に無理やり逸生の黒歴史である写真パネルを詰め込んで、ようやく安心して眠りについたのだった。

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