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第12話 手羽先の辛味

11 手羽先の辛味  にわかにげらげら笑い出したのは谷津理知である。もう笑うしかないのだろう。そして、 「私はそろそろ失礼します。この後の約束もありますので」  さっさと庭を後にした。レンガの小道を歩いて玄関に回ったのだろう。二階から見ている逸生の視界から消えた。 「理知さん。車で駅までお送りしますから……」  と百香がその後を追う。今日ばかりは隆生も未来の妻を追って行く。さっさと修羅場を逃げ出したらしい。  どうやら父は逸生が「自分で訊けばいいだろう」と怒鳴ったのを素直に実行したらしい。よりにもよってこんな場所で。  佐藤和生はそれこそ地面に頭がつきそうなほどに深々とお辞儀をしている。 「ご不快な思いをさせて申し訳ありません。倶楽部の皆さんは名前で呼び合う慣習なので千帆子さん、いえ戸倉さんの奥様もそう呼んでました」  向かい合った父がその場に留まっているのは母親に腕を掴まれているからに過ぎない。誰よりも先にその場を逃げ出したいと思っているに違いない。 「これからは戸倉さんとお呼びしますので、どうかお許しください。ご主人がお留守なのにお宅にお邪魔したのも不躾でした。これからは充分に気をつけます。申し訳ありませんでした」  そろそろと窓から離れて、またベッドに寝転がる。  カーキとしては名前呼びや家に上がったことを謝るしかないだろう。礼衣良が言ったように不倫を疑われたのだが、やましいことは何もないのだ。ただ父が妄想を逞しくしたに過ぎない。 「いいんです! 佐藤先生! この人が勝手に変なことを思っただけで……こちらこそ変な疑いをかけて、ごめんなさい。ほら、私も迂闊だったんです」  甲高い声で謝っているのは母である。「ほら、謝って」と言わんばかりに父の腕をばしばし叩いている。  逸生は窓の外が静かになるまでただベッドでごろごろしていた。隆生のようにさっさと修羅場を逃げ出す手もあったが、どうにも両親の先行きが不安だった。  当初は日が暮れる前にアパートに戻るつもりだったが、結局夕食を食べて暗くなってから帰ったのだった。  その夜の食卓は母が一方的に話すのみだった。園芸倶楽部の誰それの庭はどうの、あの植物の花はこうのと話の合間にあてつけがましく「先生のご指導で」などと佐藤和生の存在をちらつかせるのだった。  献立といえば隆生達が名古屋から手土産に持って来た手羽先だったから、父は黙々と咥えて骨を取り出しては食べるばかりである。  逸生は例によって漫才の相方よろしく「いや」「ないでしょう」「そうそう」などとと口を挟むだけだった。  父が反論に入ったのは手羽先の辛味タレでべたべたになった手を流しで洗ってからだった。母が煎れたお茶を啜りながら、 「わかってよかったじゃないか。あの先生はホモだったんだぞ。そんな薄気味悪い奴を家の中に上げたりして……」 「何を言ってるの⁉ あなたは」  と立ち上がったのは母だった。逸生は知らん顔で空いた皿を流しに運んでいた。 「同性愛者の何が悪いの⁉ 佐藤先生は何も、何ひとつ悪い事をしてないのに!」 「いや、おまえは知らないだろうが、ホモなんて不潔なんだぞ。昔はあいつらのせいで変な病気が流行って……」 「違うでしょう‼ 病気の流行は血液製剤とか他の理由もあったはずよ」  母は食卓の食器をがちゃがちゃ音をたててまとめると、足音も荒く流し台に運んで来た。そして黙々と食器を洗っている逸生の肩もばんばん叩く。 「いーちゃんは佐藤先生と友達なんでしょう。同性愛者だからって、偏見の目で見ちゃ駄目よ」 「………」 「お父さんみたいな悪口を言う人から庇ってあげなさい。友達なんだからね」 「………」  何をどう言えばいいのかわからない。黙って洗い物をしている逸生の顔を、母は心配そうに覗き込むのだった。 「びっくりしたの? でも、冷たくなんかしちゃ駄目よ。ずっと言えなくて悩んでたかも知れないでしょう」 「……かも知れないね」  そう言ってタオルで手を拭くと、逸生は流し台を離れた。 「俺、そろそろ帰るわ。明日も仕事だし」  廊下に出る前にちらりと見た父は、ただ椅子に座ってお茶を啜っているだけだった。  両親が車で駅まで送って行くと言うのを断わってバスで帰った。車などという密室でまた父母に同性愛者に関する意見でも交わされたらたまったもんじゃない。  本城駅でバスを降りてから、カーキにLINEメッセージを送った。 〈今から行っていい?〉  あの事態の後で黙って帰るのは絶対にまずいと思ったのだが、オープンガーデンの後片付けで忙しいとのことだった。 〈今度いつ会える?〉  という質問にも受賞者を決める会議やら秋の学会やらで忙しいと答えが返って来た。  仕方がないので電車に乗ってアパートに帰った。その途上で考えたメッセージ、 〈うちの親がごめん。夫婦喧嘩についてもっと詳しく伝えるべきだった。嫌な思いをさせて本当にすまなかった。今度会ったらちゃんと謝るよ〉  それだけを送った。  改めて何をどう謝罪すべきか頭はすっかり思考停止している。けれど図らずもカミングアウトいや、アウティングされてカーキが不快だったのは間違いない。なるべく早く顔を合せて謝ろうと思うのだった。  十一月最初の土日は文化の日に続く三連休だった。 〈金曜日、東京駅で夕ご飯食べない?〉  カーキからのLINEが届いた日、母からもメッセージが入った。  Bravo!  Happy♡  などとスタンプがべたべた送られた後に、 〈入賞した‼ 新人賞だって‼ 賞状と記念品が届いたら見に来なさいね‼〉  母にはただ〈おめでとう〉と返した後、カーキとは待ち合わせの約束をした。  謝罪に関しては憂鬱だが、久しぶりの逢瀬に弾む心は隠せなかった。  当日は朝から足取り軽く出勤し、退社後はステップでも踏まんばかりに待ち合わせ場所に向かうのだった。  だが連休前の金曜日の夜、東京駅は大変な混雑ぶりだった。退勤のサラリーマンやOLそして旅行者、特に巨大なスーツケースを引いたインバウンドの群れで息が詰まりそうだった。  その中に輝く光が見えたかと思えば、カーキなのだった。  いやスーツにネクタイを締めている姿は正に佐藤和生先生である。  Tシャツ、トレーナーやデニムなどのラフな服装しか見たことのない逸生は、つい胸が高鳴ってしまう。ありふれた日本人顔だと思っていたが、それなりにめかし込めばなかなか男前ではないか。  ふと気がつけば丸の内北口の改札前広場は、懐古的な装飾が施された美しい場所だった。見上げれば二階回廊の上に豪華な円天井が広がっている。つい先ほどまでの殺伐とした風景が、歴史ある由緒正しい景色に変わっているのだった。 「最終の新幹線で京都に行くんだ。隣のビルの中華レストランを予約してあるから早く行こう」 「京都って……?」  思わずカーキの手を握ってしまう。 「三連休は京都で学会があるんだ」  と自分の手を逸生の掌から腕にずらして道案内するように装うカーキである。  案内された中華レストランは窓際の席からライトアップされた東京駅舎が見渡せた。だが隣の席が近く、そう迂闊な事は話せない雰囲気である。 「いい?」と断ってカーキはビールを注文する。逸生はノンアルコールビールで、乾杯をして一気に飲む。  グラスを置いたカーキの口元についた泡の髭を口づけして拭いたいと密かに思う。その先は何やら淫猥な想像に進んでしまうので自粛して、残りのノンアルビールを呑む。  しかし熱々の小籠包にちゅんと口づけして中の肉汁を啜るカーキに、いよいよ猥褻心がそそられる。何を考えているやら?  「あの……親父が本当にすまなかった。一人で勝手な妄想をしてたらしくて……まさか、あんな風に人前で……いや、本当に嫌な思いをさせて申し訳なかった。ごめん」  と神妙に言うと、白いテーブルクロスに額がつくほどに頭を下げた。 「ううん、全然。僕のが悪かったんだ。逆にお父さんにすまなかったと思ってる」  とカーキも頭を下げる。 「僕、姉や従姉妹(いとこ)に囲まれて育ったから、何気に女の子に触っちゃうんだ。昔から誤解されやすくて気をつけてたつもりなのに……本当にごめん。逸生さんにも嫌な思いをさせたね」  向かい合った二人が頭を垂れているところに、海鮮あんかけ炒飯や麻婆茄子が運ばれて来た。 「食べよう。いーちゃんの好きな茄子の肉味噌」  カーキは笑って麻婆茄子を小皿に取り分けるのだった。そして、にわかにスマホを取り出して料理を撮るかと思いきや、 「資料を送るね」  逸生もスマホを見てみれば、鄙びた温泉の写真が何枚も届いている。 「温泉旅行なんだけどさ。逸生さんは特に肌は弱くなかったよね?」 「はい?」 「僕は硫黄泉が好きなんだけど、肌が弱いと荒れることがあるから」 「はあ」 「あと塩化物泉や酸性泉も人によっては合わない場合も……」 「ほお」  いや、秋に温泉旅行に行こうという話は何度もしていた。けれどカーキが嬉々として語る内容は殆ど初耳だった。  逸生が知っている温泉とは、社員旅行などでコンパニオン付きの大宴会をして、おまけのように大浴場に入るだけのものだった。  一方、恋人旅行ともなれば小粋な温泉旅館の露天風呂で色っぽいことも出来るらしい。そんなハンパな知識で大いに期待していたのだが。  カーキが送ってくれた資料を見る限り方向性がまるで違うように思う。華やかさがまるで感じられない旅館というか民家のような建物なのだ。風呂場も節電しているのか薄暗く湯船にはゴミのような物が浮いている。  思わず写真を拡大してまじまじと見ていると、気がついたカーキが、 「ああ、それ湯の花だよ。見てよ。この蛇口なんか温泉成分が固まって彫刻みたいでしょう」  と弁解するが、やはり逸生には単なる汚れにしか見えない。そうは言わずに頷いて聞いたのは、珍しくカーキが饒舌だからである。  これまで植物のことしか話さないと思っていたのに、温泉の蘊蓄を嬉々として語っている。佐藤和生の新たな一面を知った喜びに、その顔を見つめずにはいられなかった。 「どこでもいいよ。カーキが行きたい所なら、どこでもついて行く」  たとえ地獄の果てまでも……とつけ加えたいぐらいだった。  上目遣いに目を見つめれば、カーキは唇を噛んで瞳は赤く潤んでいる。思いが伝わったようでこちらも少し頬が紅潮する。  そうして日程を合わせて十一月末、勤労感謝の日に出かけることにしたのだ。今からでは連休の予約は難しいかも知れないが、 「もっと遅くなると雪が心配だから、早目のがいいと思うんだ。頑張って予約とるよ」  という言葉に何がなし緊張を覚える逸生である。まさか今度は雪山登山か?   けれど地獄の果てまでついて行く覚悟なのだ。  予定表に〝温泉旅行〟としっかり記した。  二人で東京駅構内に入り、東海道新幹線の改札口で別れた。 「じゃあね」と行きそうなカーキを引き寄せてハグしてしまう。構うものか。どうせ周囲はインバウンドばかりなのだ。柱の陰でキスしている男女カップルだっている。 「じゃあね」  身を離してもう一度言うとカーキは新幹線改札口に入って行った。 「気をつけてな」  逸生がかけた声に、その背中が振り向くことはなかった。

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