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第13話 秋明菊の引退
12 シュウメイギクの引退
東京駅で別れた翌日は何の連絡もなかった。
その次の日にLINEをしたのは逸生の方だった。
〈学会はどう?〉
〈昨日が植物生理学会で、今日が植物病理学会〉
〈がんばれ〉
としか言いようがない。とにかく忙しいらしい。
その翌日にはカーキからメッセージが届いた。
〈こないだ資料を送った温泉はどこも満員だった。霊泉寺温泉の予約がとれたから。新幹線とレンタカーも予約したよ〉
霊泉寺温泉とやらの資料も送られて来た。少し見ただけでかなりに鄙びた温泉と知れるのだった。
〈ありがとう! 楽しみだな〉
〈お別れ旅行にするつもりだよ〉
「はい?」
思わず声を出してしまった。スマホの画面を見つめたまま首をかしげる。
〈何のお別れ旅行?〉
間抜けな質問と思いつつ、それしか言葉が出て来ない。
〈つきあうのは終わりにしよう。この温泉旅行を最後にしよう〉
「はあ?」
意味がわからない。問い返すにも質問が思い浮かばない。ただ呆然と同じメッセージを見つめるばかりだった。
〈東京駅で会った時に言うつもりだったけど。ごめん。別れよう〉
カーキからはそれ以降、何の音沙汰もなくなった。合わせるように逸生も何も送信しなくなった。
問い詰めるべきだ。何らかの連絡をしなければ。あるいは会いに行って話し合うべきだ。そう思いながら、何もできない日々を送っていた。
〈何故つきあうのをやめるの?〉
〈温泉旅行が最後ってどうして?〉
〈両親が失礼なことをしたから?〉
〈悪かったよ。父母の無礼は謝るから考え直して〉
〈好きだ。別れるなんていやだ〉
等々……乱れる思いを文字に起こして、けれどいずれも送信できず削除していた。
翌週には例によって真柴本城支店に行き、実家に寄った。早めに会社を出たのだが、秋の日は落ちるのも早かった。実家の門を開けた時には辺りは真っ暗になっていた。玄関チャイムを鳴らしてから、庭の方から物音がするのに気がついた。
「ただいま。お母さん?」
レンガの小道を伝って庭に出てみると、テラスから差す室内の光にうずくまった母親の姿が浮かび上がっていた。
慌てて駆け寄ってみれば、
「ああ、来たの逸生。ほら、ここをクリスマスローズに植え替えようと思って。クリスマスには咲かせたいもの」
シュウメイギクはプランターで育てるとのことで、なるほど玄関からの小道にはただ地面に穴が空いているだけだった。シュウメイギクを掘り起こしてはプランターに植え替えて、やっと庭まで辿り着いたらしい。
辺りに漂う土の香は何やら物悲しく感じられる。
「もう暗いから明日にすれば?」
「あとこれだけだから」
と母は手を休めようとしない。
テラスには既に何個ものプランターにシュウメイギクが植え付けられている。その横にはコンテナごと買い込んだらしい大量のクリスマスローズの苗も置いてある。
これを地面の穴に植え付けるのは明日以降だろうが、なかなか大変な作業に思える。
逸生は何故か上着を脱いでテラスのテーブルに置いていた。
「手伝うよ」
腕まくりをする逸生に「ええっ?」と母はひどく驚いていた。
というのも、これまで家族の誰も母の庭仕事を手伝ったことはないのだ。逸生自身も何故今になってこんなことをするのか訳がわからなかった。
母が掘り返した苗を受け取ると、既に鉢底石が入っているプランターに入れて土を足す。
「丁寧に植えてね。そうそう。腐葉土を根元まで入れたら、たっぷり水をやって……」
言われるままに作業をしているうちに「佐藤先生が」と口走ったのは何を言うつもりだったのか、これもまた我ながら不明だった。
だがその名を聞いた母親はにわかに振り向いて、
「そうなのよ! 急に辞めちゃって、どうすればいいの?」
「辞めたちゃった?」
また間抜けなオウム返しをするしかない。母親は作業中のシュウメイギクやクリスマスローズについて質問したかったのに……と、しきりにぼやいている。
逸生は結果的にあれ以来、佐藤和生とは何ひとつ連絡も接触もない。だが園芸倶楽部の顧問まで辞めたとは。
何だってあの件についてもっと真摯に謝罪しなかったのか。
後悔は募り、心の内に貼り付いた屈託は大きくなるばかりである。
どうしても過去の無様な失恋を思い起こさずにはいられなかった。
就職した谷津理知に会えなくなって逸生が部屋を訪ねたところ、見知らぬ若い男が出迎えたのだ。
理知は逸生と若い男と二股をかけていた。そして知らないうちにもう一方と同棲を始めていたのだ。
佐藤和生も同じことをしているに違いない。過る思いはすかさず打ち消される。
いや、カーキは理知とはまるで違う。真面目な公務員なのだ。浮気など決してすまい。
仮に他に好きな人が出来たなら、まず逸生と別れるだろう。それから新たに交際を始めるに違いない……って、最早その可能性しか頭に浮かばなくなっている。
改めて母に尋ねる。
「辞めたって……園芸倶楽部の顧問を?」
「あらやだ。逸生は聞いていないの?」
黙ってテラスの水道から如雨露に水を注いでいると、母は勝手に話を続けた。
「急に他の先生と交代するって。ほら、先週の集会だって仕事の出張とか言って来なかったし」
「先週は学会で京都に行ったらしいよ」
「ふうん。そうだったの。だって、いきなり違う先生が来るんだもの。みんな驚いちゃって。オバサン先生なのは、やっぱり……ほら、お父さんがあんなこと言ったから気にされて?」
「おやじは結局どんなこと言ったわけ?」
改めて尋ねたのは、逸生自身は父の発言を聞いていないからである。母はもう掘り返すべきシュウメイギクは残っていないのに、移植ゴテで無暗に土を掘り返している。
「だから……先生に向かって、人妻を名前で呼ぶのは失礼だとか、妻の身体を触ったりして、どういう関係なんだとか、もうひどいことばっかり……そしたら久野さんのお孫さんが先生は同性愛者だって……」
逸生は黙ってプランターに植えたばかりのシュウメイギクに如雨露で水をかけている。
「同性愛者って言えば、いーちゃんは知ってた?」
立ち上がって横に来る母である。
「百香さんが言ってたけど、デザイナーの谷津理知さんもそうなんですって」
「へえ……」
「デザイン関係には多いみたいね。同性愛の人って才能があるのね」
「それは偏見だろう」
「ええ? 私は偏見なんかないわよ」
「同性愛者がみんなデザインの才能があるわけじゃない。黒人はみんなバスケがうまい。女子はみんなスイーツが好き。そんなのと同じ。偏見だと思う」
「ああ……言われてみればそうかもね。私もスイーツってそんなに好きじゃないし」
思わず母の目を見返してしまう。
「スイーツ好きじゃなかったの?」
「洋菓子はあんまり。バタ臭いじゃない?」
「じゃあ……バームクーヘンは?」
「あれは好きよ。あそこのは洋菓子にしては、さっぱりしてるから」
「はあ……」
生れて初めて知った事実である。
思い返してもみれば甘い物が好きなのはむしろ父親である。そして子供達、はっきり言って下戸の逸生の方が甘味好きである。母はそれに合わせて自分もスイーツを食べていたのか。
何やら魂を抜かれた気分で逸生はまた水道に行って汚れた手を洗った。
そこに玄関からチャイムの音が聞こえた。母親は逸生を押しのけて手を洗うと、
「お父さんが帰って来た。ご飯にしましょう」
と室内に駆け込んで行くのだった。
夕食の席で母はまた園芸倶楽部の顧問が佐藤先生からオバサン先生に変わったと繰り返すのだった。逸生に話している体だが完全に父に対する嫌味だった。
「それと、いーちゃん。百香さんがよければ写真のパネルを譲り受けたいって。ほら、あのウェディングドレスの写真とか……」
「いいよ。全部やるよ」
「じゃあ、いーちゃんが名古屋に送ってあげて。お母さんが勝手に触るのも何だから」
という話が出たのを幸いに、荷造りすると言って逸生は早々に食卓を離れた。
「荷造りするなら、ほら、いらない段ボールをテラスに出してあるから」
母の声だけが追って来る。
夜毎父母が二人食卓でどんな話をしているのか想像するだに憂鬱になる。両親は既に別々に寝ている。父は書斎で母だけが寝室で寝ているのだ。顔を合せるのは食事の時ぐらいだが、さぞや殺伐としているのだろう。
一度押し入れに突っ込んだゴミ袋を出して、そのまま大きな段ボール箱に入れようとしたが、ふと思いついて一枚のパネルを探し出した。
老人と老犬の後姿である。首輪に付けたミニカウベルを鳴らしてはアパートの近所を朝な夕なに散歩する一人と一匹。カウベルの音がカロカロカロと聞こえるから〝カロカロ犬〟と名付けた。
謎のカロカロ音を突き止めるべく二人で寝た翌朝、理知はサンダル履きで走ったのだ。そして早朝の犬の散歩を写真に収めた。逸生はずっと不気味な音に慄いていただけだったのに。
写真はただの早朝の散歩風景である。知り合いでもない言葉を交わしたことすらないご近所さんなのだ。
だが、この一人と一匹が既に鬼籍に入っていると思えば、徒や疎かに扱えずにしみじみ見つめてしまう。
今同じカロカロ音をさせて近所を歩いているのは跡継ぎだろう中年女性と若い犬である。
犬の首輪についているミニカウベルは、あるいは先代犬の形見かも知れしない。なれば、このパネルも手元に残してやりたい気がする。
残りのパネルはビニールのゴミ袋に入れたまま段ボール箱に梱包して階下に運び下ろした。
ダイニングキッチンを覗くと、母は流しで後片付けをしているし、父はソファの定位置に胡坐をかいて新品らしいゴルフシューズに靴紐を通している。室内に響くのはテレビニュースの音だけだった。
母に声をかける。
「梱包したから。明日、宅配便で出してくれる?」
「ほら、そこの箱に宅配便の伝票があるから、名古屋の百香さんの住所を書いて貼っといて」
と母がテレビ台の横のサイドボードを見やると、父がゴルフシューズを抱えた反対の手で小箱を取り出して渡してくれた。宅配便の伝票やらボールペンが入っているそれは、例のバームクーヘンの空き箱である。
テレビの音だけが響く居間で粛々と宅配伝票を書く長男坊だった。
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