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第14話 紅葉はとうに過ぎ
13 紅葉はとうに過ぎ
寝室の壁にカロカロ犬の写真パネルを飾ったのは、実家から帰って数日後の夜だった。この日も日帰りだったが別の営業所に手伝いに寄ったから帰宅は遅かった。
なのに、にわかに部屋を掃除してパネルを飾っているのだった。
かつて掛けていた場所が日焼けした壁に白く四角く残っていたのだ。同じ場所に掛け、しばし眺めているうちに、いつまでこのアパートに住んでいるのかと自問自答する。
ここには谷津理知との思い出が色濃く残っているのだ。失恋した時にさっさと引っ越すべきだった。けれど失恋惚けしているうちに賃貸契約の更新までしてしまった。なので更新料を惜しんで居続けたわけである。
それに通勤至便な場所でもある。
だが、いい加減に引っ越したらどうか?
いっそローンを組んでマンションを買ってしまおうか。そろそろ三十路も迫っているのだ。いつまでも賃貸生活でもないだろう。
などと考えているところに電話が鳴った。つい母からかと思ったが、ディスプレイに表示されているのは見知らぬ名前だった。
〝久野礼衣良〟とは何者か?
しばし黙って見ているうちに、あっと思いついて電話に出た。
「もしもし?」という逸生の声に被せるように、
「夜分すみません。そちらにカーキいますか?」
と尋ねるのはカーキの従姉妹、礼衣良 である。
「いませんけど?」
「連絡がとれなくて。団地にも実家にも帰ってないみたいだし。どこにいるか知りませんか?」
「さあ。何かあったんですか?」
「ぶっちゃけ戸倉さんてカーキの彼氏じゃないですか?」
「…………」
いちいち発言が衝撃的な女性である。とてもあの穏やかな佐藤和生の従姉妹とは思えない。
「ああ、ごめんなさい。答えなくていいです。ただ一緒にいてくれたら安心だと思って電話したんです。ホントにそこにはいないんですね?」
「本当にいません。何があったんですか?」
「癌だったんです」
「癌?」
「このところずっと元気がなくて心配してたんです。病院に行ったら癌らしくて。もう一度ちゃんと精密検査するって予約入れてたのに、病院に行ってないみたいなんです。仕事も休んでるみたいで。だから私も一緒に行くって言ったのに……一体どこに行ったのか……」
「いや……ちょっ、それ……ええっ?」
逸生はただ意味不明な声を発しているだけである。癌の疑いがあった⁉
急に別れると言い出したのはそのせいなのか?
「とにかく、他もあたってみます。突然失礼しました」
礼衣良は慌ただしく電話を切った。
逸生は切れた電話をいつまでも眺めては、狭い室内をうろうろと歩き回った。そうしてベッドに腰をおろすと、とりあえずカーキの電話番号にかけてみた。すぐに応答があった。
「……はい」
紛うかたなき佐藤和生の声だった。
思わず立ちあがる。そして怒鳴りつけるような口調で、
「なっ!? 何してんだよ! 礼衣良さんから電話あったぞ!! どこにいるんだ!?」
電話の向こうからぐずぐずと鼻を啜るような音が聞こえて来る。べそをかいているらしい。
「いーちゃんとは、もう……別れるんだ。電話なんか出ない……」
酔っているようである。
泣きながら吞んでいるのか?
「いや、そ、それより……今どこに、何してるんだ? 一人なのか?」
「一人に決まってんだろう! こんな旅館……いーちゃんとはもっといいホテルに泊まって、そんで別れるんだ! 絶対に別れる! 逸生のバカ! もう別れるったら別れるの。決めたんだ僕は!」
完全に酔っている。
どういうわけか逸生は「別れる」と繰り返されればされる程カーキの真意は逆だと思えて来る。
「別れるわけないだろう!! 今から迎えに行く!! どこにいるんだよ!?」
「……へへっ」と笑っているような、むにゃむにゃと言葉にならない声ばかりが聞こえる。
「寝るなっ! カーキ!! そこはどこなんだ!?」
「霊泉寺温泉……」
「はあ?」
二人で温泉旅行に行くのは今日だったのか?
瞬間的にそう思った逸生も、かなり取り乱しているのだった。
「霊泉寺温泉の……梅乃屋旅館? わかった。礼衣良さんも心配してるから電話を……」
と言った時点で電話の向こうからは、寝息が聞こえているのだった。
「キーちゃん!」と怒鳴った途端に、寝息はかーかーと軽い鼾に変わる。
そして電話は切れたのだった。
カーキの鼾など聞いたことがない。呑み過ぎなのか、それとも病気(癌?)のせいなのか。
一人青ざめて電話を切ると、礼衣良にかけ直してカーキの居所が知れたと伝えるのだった。
「明日にでも迎えに行くから。心配しないでください」
「そう。よかった。ご迷惑おかけします」
短く言って礼衣良は電話を切った。もう少し何か詮索されるかと思っていたのでほっとする。
ずっと部屋の中に立ち尽くしていた逸生は、ようやくベッドに腰を落ち着ける。そして今すぐにレンタカーを借りて霊泉寺温泉に行けるかルート検索したが、とりあえず翌朝の新幹線チケットとレンタカーを予約するに留めた。
一睡もしないで迎えに行って事故でも起こしたら目も当てられない。
旅館にいるなら宿の人の目もある。カーキも無茶はすまいと無理にも自分に言い聞かせる。
パジャマに着替えて布団に入るが、とても眠れたものではなかった。結局、新幹線の中で爆睡する羽目になる。
会社には病欠とLINEをして朝まだき家を出る。地下鉄に向かう道を急いでいると、背後からカロカロカロとかそけき音が聞こえて来る。
例の犬と中年女性の朝の散歩なのだった。老人から中年女性に変わってから、散歩の時間が微妙に変わっていた。おそらく朝食や夕食の支度をする主婦と、隠居老人との生活時間の違いなのだろう。
カロカロ音に送られて、地下鉄の駅に降りて行くのだった。
霊泉寺温泉に行くにはJR上田駅からは車である。逸生は駅に着くなり予約していたレンタカー店に駆け込んだ。
慣れない車で駅前を離れ、温泉に近づけば近づくほど辺りは枯れ田ばかりになって来る。それを囲む山々も紅葉が終わっているから寒々しいばかりである。真柴本城も田舎だと思っていたが、ここに比べればさすがに都下だと思わずにはいられない。
本当にこんな所に温泉があるのか疑問に思う頃、ようやく温泉入り口の看板が見えて来た。赤い小さな橋を渡って温泉街と呼ぶにはささやかな集落に入る。
〝梅乃屋旅館〟とカーナビが示す場所にあるのは単なる大き目な民家だった。しかもかなり古ぼけた。門の横には〝梅乃屋旅館・駐車場〟と看板がある。
駐車場と称する空き地に車を停めると、玄関から下駄履きの佐藤和生がふらふら出て来た。駅からメッセージを送ったから出迎えてくれたのだろう。
逸る心でドアを開け車を飛び出すなり、やって来たカーキをいきなり抱き締めた。
さらさらの髪に頬をすり寄せた途端に顔を背けてしまう。腕の中の身体は強烈なアルコール臭を放っている。感動の再会だというのに鼻を摘みたいばかりである。
「ごめ……」
カーキも逸生の胸を押し返すとふらふら空き地の隅に行って、えづいている。思わず背中を擦りながら、
「二日酔いか?」
とわざわざ尋ねたのは、ひょっとして病気(癌?)の症状かとも思ったからである。
「大丈夫かね。和生さん」
にわかに声をかけられてぎょっとする。いつの間にか白い前掛けをかけた白髪の老婆が背後に立っている。
「部屋で休んどいで。どうせ今日はお客さんはおらんで、ゆっくりしてくといい」
そう言って逸生の反対側から腕を取る老婆に向かって、カーキは笑顔を見せる。逸生にはまるで見せなかった人なつこい微笑みである。
「すみません。勝枝 さん。これ……友達の戸倉逸生です」
「ああ、いらっしゃいませ。ささ、どうぞ」
老婆は先に立って玄関を入って行く。何故だか妙な苛立たしさに襲われるが、佐藤和生は説明する。
「ここの女将 さん。逸生さんは僕を迎えに来たって言っといた」
玄関を上がってふらつくカーキを支えながら案内されたのは二階の八畳間だった。
木造家屋の廊下でスリッパを脱いで襖を開ければもう八畳間である。床の間があり貴重品用の小型金庫が置かれ、襖にはねじ式の鍵もついてるから一応は旅館に見えるが、それ以外は普通の民家の部屋である。
これでは話し声は隣室や廊下に筒抜けだろう。あまり深刻な話は出来そうにない。もっとも敷きっぱなしの布団に転げ込むカーキは青白い顔色で、ろくに話も出来ない様子だが。
布団の周囲に転がった空き缶からもアルコール臭が発している。ビールや焼酎など、一体どれだけ吞んだのか。逸生はまず窓を開けると、顔を背けるようにして空き缶を拾って、吹き込む風にカサカサ鳴っているレジ袋にそれを放り込んだ。
にわかに腹がぐうと鳴ったのは、朝から何も食べずに飛んで来たからである。
布団に寝ていたカーキは、けだるそうに寝返りを打った。
「逸生さん、朝ご飯まだなら……ここにはお店がないから車で少し行って……」
言いかけたところに、みしみしと廊下を鳴らして誰かが来るようである。
「ごめんなさいよ。お茶を持ってきたから、開けますよ」
先ほどの老婆が襖を開けた。
お盆や電気ポットを持って来たのだ。テーブルに散乱している柿ピーやあたりめの袋を片付けると、お茶道具とおにぎりや卵焼きをのせた皿を置く。
「和生さんが朝を食べなかったで、余ったご飯で野沢菜のおにぎりを作ったよ。あと、りんごも剥いたで。少しでも食べるといいよ」
「すみません。勝枝さん」
「お風呂場を掃除するで入ってから帰るといい。二日酔いにも効く温泉だでね。よかったらお友達も入っておいな」
言いながら二人分のお茶を煎れて、またみしみし音をたてて階下に降りて行った。
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