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第15話 おにぎりとりんごとやきもち

14 おにぎりとりんごとやきもち  カーキは起き上がってお茶を啜った。 「勝枝さんの煎れてくれるお茶はおいしいんだ。お米もおいしいから食べるといいよ」  何となくずるずると音を立ててお茶を啜ってから、 「誰だよ? 勝枝さんて」  不機嫌に問い質してしまう。 「だから、ここの女将さんだって。山野草の観察でよく泊まる宿なんだ。お別れ旅行にはもっと大きなホテルを予約したから大丈夫だよ」 「だから! 何が大丈夫なんだよ!? 何なんだよ!?」  苛立って大声を出してしまう。 「そういうところだ! 誤解されて当り前だ。女と見ると名前で呼んでべたべた甘えて」  言った逸生も驚いたが、言われたカーキもぽかんとしている。  この際、問題にすべきはそれなのか?  先程からの奇妙な苛立たしさは嫉妬なのだった。あろうことか逸生は白髪の老婆〝勝枝さん〟に、やきもちを焼いているのだ。  今になってようやく父親の気持ちがわかった気がする。連れ合いを、よその若い男が〝千帆子さん〟と呼び、当の千帆子さんもとろけるような笑みを浮かべているのだ。そりゃあ腹立たしくもなろう。  逸生は的外れな怒りのやり場に困って、握り飯を鷲掴みにすると口一杯に頬張った。  カーキはにわかに正座して、 「心配かけてごめんなさい。礼衣良にも連絡したから大丈夫だよ」  と頭を下げるのだった。 「とりあえず、お別れ旅行って何なんだよ? そこから説明してくれ」 「……だから。つきあうのは、もうやめるって……」 「何で?」  口中の物を飲み下してから、逸生も改めて正座した。 「うちの親のことなら悪かったと思う。でも、だからって……僕は、そんなことでカーキと別れたくない。好きだから」  妙にすらっと真意を述べていた。カーキは正座した自分の膝に両手をのせて、それをじっと見つめている。 「いーちゃんの親じゃなく……僕の親なんだ」  今日会ってから初めて〝いーちゃん〟と呼んでくれた。それだけで頬が緩んでしまう逸生である。 「オープンガーデンの後で僕も考えたんだ。ちょうど礼衣良が実家に来る日があって……」 「礼衣良さんて、実家に住んでるんじゃないの?」  カーキは首を横に振ると、皿のりんごに手を伸ばした。  ほんの少し齧ってから話すには、久野礼衣良は本城駅前のワンルームマンションで一人暮らしをしているとのことだった。職場はその近くのウェブデザイン会社だという。  それまではずっと母親の里つまりカーキの実家で育った。父親が転勤族だったからである。母親は礼衣良が卒乳する頃に夫の海外赴任について行ったという。  カーキがりんごを食べる音がしょりしょりと心地よく響く。  オープンガーデンのあの日からカーキは進退を迷っていたという。後日たまたま実家に久野礼衣良が訪れた時に、 「園芸倶楽部の顧問やオープンガーデンの指導員も辞めようと思うんだ」  相談のつもりで打ち明けたのだ。その場には祖母と両親もいたと言う。三人の姉がいなかったのは不幸中の幸いだったそうな。 「何で辞めるんだって親が訊いて。僕があの日のことを話してたら礼衣良が全部言っちゃって……」 「全部?」 「僕はゲイだからよその奥さんに手を出したりしないって庇ったって……それ庇ってることになるのか?」 「どちらかと言えば暴露だろう。アウティング」  クスッと笑ってしまってから「ごめん」と謝った。  カーキも笑っていたが自嘲に近かった。 「母親が改まって訊くんだよ。キーちゃんは本当に同性愛者なの? ってさ」  カーキは母親に向かって素直に頷いて、隣で礼衣良もこくこくと頷いたという。 「僕はずっとそばに礼衣良がいたし、姉も三人いたから。男の子を好きになるのが変だって感覚が薄くてさ。さすがに外では言わなかったけど、家族はみんな知ってると思ってた」  礼衣良もカーキの性的指向には気づいていた。だから恋愛の話も隠さずにした。  家族にも男が好きと公言し、姉と同じ男優に夢中になってファンクラブに入ったりもした。 「でも……何となく知ってるのと、当人がはっきりカミングアウトするのとは、全然違うんだな」 「……そうなの?」 「らしいよ。多分みんなが思ってたのは、僕は男同士でつるんで遊ぶのが好きなだけで、いずれ女性と恋に落ちればすぐに結婚するだろうって」 「ああ……そういうノンケいるな。結婚しても結局は男同士で遊んでる奴。でもセックスまではしないんだ」  二人の男は期せず一様に薄くふふふと笑った。 「親たちは僕がゲイだと感じても、そうやって内心では否定してたみたい。でも、はっきり宣言したからもう縋るものもなくなって。ビミョーな空気になっちゃって……」  以来、家族には何度も本当に同性愛者なのか、勘違いではないのかと確認されて説得されたという。精神科の病院に罹れば治るのではないかとの提言もあったし、いきなり女性とのお見合いデートに引っ張り出される実力行使もあったと言う。 「すげーな」 「すげーだろ?」  珍しく皮肉な口調のカーキである。 「僕はさ……とても薄い氷の上を歩いてたんだな。たったひと言ゲイだと打ち明ければ、ぱりんと割れるような氷だよ」  薄い笑みを浮かべたままカーキはりんごの皿を見つめて言う。 「逸生さん、あの時二階の部屋にいたでしょう」  疑問ではない。断定である。  ひやりと背中に冷たいものが流れた。  相変わらずカーキが見つめているのは逸生ではなく自分の膝である。 「僕は少し待っていたのかも知れない。逸生さんが降りて来て、僕を守ってくれるに違いないって」  と唇を噛んだ。  逸生は言うべき言葉を知らない。 「いいんだ。知ってる。そんなの無理だって。でも……だから……僕はもう逸生さんとつきあっちゃいけないと思ったんだ」 「ごめん!!」  手遅れと思いながらも口にする。 「ごめん。あの時、何も出来なくて……庇ってやれなくて……ごめん」  佐藤和生はうっすら微笑んで首を横に振った。 「だって、家族に理解されてるつもりだった僕がこれだよ。ずっと隠している逸生さんはどうなの? もしあれがきっかけで逸生さんまでゲイだとばれたら……」  あの晩、父親がどれだけ差別的な発言をしたか思い出せば、逸生はカーキの言わんとすることはすぐに理解できるのだった。 「きっと僕よりもっともっとつらい目に遭うと思うんだ。千帆子さんだって耐えられないと思うよ。だから、もう別れた方がいいって」 「それは……いや、だって、それとこれとは……」  何を言うべきかわからずに、ただ無意味な言葉を重ねる逸生である。  そこに階下から老婆の声が響いた。 「お風呂の掃除が終わったよ。よかったら温泉に入っておくれな」  二人はまるでその場に老婆がいるかのように黙って座っていた。  アパートに帰って部屋着に着替える時、肌に硫黄の香りが残っているのに気がついた。  梅乃屋旅館の温泉は家族風呂のような小さなものだった。湯船から溢れ出る湯は、とろりとしていたが香りはなかった。そう思ったのに、家に帰れば肌に匂いがまとわりついている。  逸生は温泉に浸かっている間、カーキが入って来るのを待ちわびたが結局一人で上がることになった。その後でカーキは一人で湯を浴びて、逸生が運転するレンタカーで上田駅まで帰ったのだ。  東京駅では新幹線改札口を出てから別れた。 「ありがとう。じゃあね」 「気をつけて帰れよ、カーキ。礼衣良さんにも連絡するんだぞ」  それだけだった。カーキは一人で真柴駅に行くJR線に乗り換え、逸生は地下鉄駅に向かったのだった。  京都に行くカーキを抱擁したのが遠い過去のようである。  何せ新幹線の中でさえ別々の席に座ったのだ。平日のこととて人影も少ない車内だったが、二人席の窓際に座ったカーキは隣に逸生が座ろうとした途端に、 「ごめん。僕は仕事があるから……」  わざわざ三人席の窓際に移動したのだ。  あろうことか二人は同じ列の窓際と窓際に離れて座って来たのだ。  確かにカーキはスマホで何やら職場と連絡を取り合っているようだったが、単に逸生と接触しないための言い訳としか思えなかった。  実のところ最も重要なことを最後に確かめるつもりだったのに。  病気……癌?   それについては、とうとう一言も口に出来ないまま帰って来てしまったのだ。 〈さっき東京駅でカーキと別れました。今、電話してもいいですか?〉  ベッドに寝転がって久野礼衣良に連絡した。スマホを持った自分の腕からはまだ温泉の香りがほのかに匂う。  暗くなった窓の外からは、またカロカロカロと犬の散歩の音が響く。朝の散歩の音を聞きながら出かけて、帰って来て夕の散歩の音も聞く。とても同じ一日のこととは思えない。梅乃屋旅館に何日も宿泊した気分だった。  礼衣良からは即座に電話があった。 「戸倉さん? ありがとう。今さっきカーキからも電話があったよ。ちゃんと団地に帰って、明日からは仕事にも行くって」 「そう……よかった。それで、あの……聞きたいんだけど、癌? 病気のことだけど」 「ああ、おばあちゃん……うちらのおばあちゃんがね、病院に連れて行ったって」 「おばあちゃん? 病気なのは、おばあちゃんだったの?」  思わず笑みを浮かべそうになって堪える。カーキが病気でなかったのは嬉しいが、二人にとっては祖母なのだ。 「おばあちゃんじゃないよ」 「え……でも、じゃ、癌て、誰が癌になったの?」 「いや、癌じゃなかったって。精密検査の結果ただの腫瘍。手術で取れば治るって」 「そうじゃなく。だから、誰が?」 「ヤマト」 「はい?」 「犬」 「はあ?」  変な声を上げてから、逸生はようやく理解した。 〝ヤマト〟とはカーキの実家で犬小屋に繋がれてぴょんぴょん飛び跳ねていた和犬である。 「ちょっと待てよ! 犬が……犬が病気で精密検査になって……それで落ち込んで温泉に逃げたのか、あいつは!?」  あまりのことに敬語も忘れて大声を出している逸生である。

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