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第16話 カロカロ犬とぴょんぴょん犬
15 カロカロ犬とぴょんぴょん犬
窓の外からは散歩から帰ったらしいカロカロ犬の首輪に付いたミニカウベルの音がまた近づいて来る。耳を澄ませば飼い主の主婦がぱたぱたと歩く音も聞こえている。
「ヤマトはうちらが中学を卒業した春休みに貰われて来た犬なんだ」
電話の向こうからは、妙に冷静な礼衣良の声が聞こえて来る。
「犬としてはもう年寄りだよ。おばあちゃんが大きな動物病院に精密検査に連れて行ってくれて。良性腫瘍らしいけど、切除のために全身麻酔で手術するのは年寄り犬には負担になる。切らないで様子を見るかどうするか、飼い主で判断しろって」
「……いや、すみません。犬も家族だし。病気になればショックですよね」
「うん。ひょっとしてカーキはその辺の診断結果も予想してたのかもね」
「決定的な事は知りたくなかったわけか」
ベッドに座っていると、壁の写真パネルが目に入る。先代のカロカロ犬を散歩させる老人の後姿である。
「カーキって、いつも真面目だから突然消えたりしてみんな驚くけど。実は失恋で逃げること多いんだ。今回もヤマトの病気はきっかけで、戸倉さんにふられたのかと思ったんだけど」
「別に、ふってない」
「ならいいけど」
「むしろこっちがふられた」
「うそ。前に野菜祭で見た時はカーキべたぼれだったじゃん」
「どうなんだか」
投げやりに言ってしまってから、改めて確かめる。
「親御さんたちはカーキがゲイだと知ってショックを受けていたと聞いたけど? お見合いをさせたとか?」
「ああ……それも応えたのかな。ヤマトは病気になるし、戸倉さんにはふられるし」
「いやいや。だから、全然ふってないってば」
「じゃあ、戸倉さんはカーキの今彼ってことでいいんだね?」
改めて確かめられて、ごくりと固唾を飲む。そして神妙に答える。
「はい。おつきあいさせていただいてます」
「じゃあ、おつきあいは続けてください」
「…………」
電話では見えないのに深く頷く逸生だった。
「やっぱ親としては薄々察してても、ゲイって断言されるとショックみたいよ。でもさ、それって親の感情じゃん。親に気を使って彼氏と別れるとかあり得ない。どうせカーキはそんな風に言ってんでしょ?」
「……まあ」
「カーキは自分さえ我慢すればって思ってんのかも知れないけど。戸倉さんまで我慢させるのは変だよね」
礼衣良の言葉に思い出したのは、あの実家の庭で二階の自分を見たカーキの乾いた無感情な目つきだった。
「逆だ……」
「ええ?」
「僕の方がカーキに我慢させていた。僕は親にも誰にも打ち明けていないから。だからカーキは僕のために、あの時も……我慢してくれた」
「はあ?」
今度は礼衣良が疑問の声をあげる番である。だが逸生は自分の発見に気をとられていた。
「ありがとうございます。礼衣良さんのお陰でいろいろわかった気がします。またいつか直接お会いしてお礼を言いたいです」
「えっ、何? お礼って何の?」
「じゃあ、おやすみなさい。ありがとうございました」
とさっさと電話を切る逸生である。
とにかくカーキともっと深く話し合わねばと決意しているのだった。
実のところ礼衣良という味方を得て強気になっている部分もあった。何しろこれまで自分の恋愛を包み隠さず話したことなどまるでないのだ。さながら不倫カップルのように、常に隠れて行動していた。
ところがいきなり「おつきあいは続けてください」などと言われたのだ。
従姉妹から交際の許可を得た。
ただそれだけのことが、これほど嬉しいとは今の今まで気がつかなかった。そしてそれが改めて佐藤和生と話し合う力となるのだった。
〈もう一度会って話し合いたい。都合のいい日にちを教えてくれ〉
佐藤和生に決然とした言葉を送った。
だが返事はなかった。
代わりにLINEに押し寄せたのは弟からのメッセージだった。
確か当初はオープンガーデン新人賞の賞状や記念品が母の手元に届いたから一緒に実家に祝いに行こうという話だったはずである。それが、
〈実家に行く前に本城駅あたりで軽く一杯やろう〉
となり、続々届くメッセージを見れば、結婚に関する愚痴をこぼしたいらしい。婚約期間が長くなるにつれ、互いの意見も食い違って来ているようである。
土曜日の夜。隆生が予約したのは本城駅前の繁華街にある個室居酒屋だった。逸生は下戸だけに呑み屋には疎いが、店内にクラシック音楽が流れる上品な店だった。つまりそう安価ではないはずである。
「いいのかよ?」
部屋に案内されて、店員が襖を閉めて出て行くなり弟に尋ねた。
「うん。今日は俺も少しは贅沢してやるんだ」
とアルコールのメニューで随分と高そうなページを眺めているのだった。
ちょいと贅沢なコース料理を食べて、高めな酒を呑んで(逸生はノンアルビールだが)隆生が延々と並べたてたのは、LINEで寄越した内容の詳細だった。
婚約後の真田百香の豹変がひどい(とは弟の弁である)。
当初は社宅に住むはずだったのに、プライベートでまで同僚や上司に気を使いたくないと百香が言い出して、民間のアパートを探すことになった。
当初は同じ会社の真柴本城支社で働くはずだったのに、百香は仕事も変わりたいと言い出して転職活動をしている。
当初はオリジナルデザインはドレスだけだったはずなのに、タキシードも合わせて作りたいと言い出した。デザイン製作費も式場への持ち込み料も倍になる計算である。
というわけで結論は、
「結婚なんてするもんじゃねーぞ。兄貴!」
なのだった。
「そーでしたかー」
と流したい逸生である。
だが一応は弟の味方をしてやる。
「社宅のが普通のアパートより家賃は断然お得なんだけど……どうしても嫌なら、いっそ今からローンを組んでマンションでも買ったらどうだ? 何ならローンの計算してやるぞ」
「真柴本城市の賃金は都心よりかなり落ちるぞ。百香さんの年頃ならもうパートぐらいしかないし。正社員として今の会社にいた方が絶対お得と思うがな」
〝お得〟ばかりを繰り返す逸生は経理部員である。ちなみに隆生は印刷会社の営業部員である。だからこんな洒落た店を知っているのだろう。
だがオリジナルウェディングドレスに関しては、
「ウェディングドレスがオリジナルなら、タキシードもそれに合わせた方が見栄えがするだろう。そこはデザイナーの意見を入れた方がいい」
花嫁というよりは、デザイナーの味方をしたのだった。
谷津理知が学生時代の卒業制作でどれほど悩んだか知っているのだ。
ドレスのデザインはもちろん合わせるタキシードに関しても。花嫁はオリジナルデザインのウェディングドレスを着るのに、並び立つ花婿に安い貸衣装など着て欲しくないに違いない。
若くして名を上げたデザイナーだからこそ大いにこだわることだろう。
「百香さんが選んだデザイナーなんだから、隆生も言う事を聞いた方がいい。もし予算的にきついなら俺が少しは出してやるから……」
とまで言ってしまって内心しまったと思っている。
もともと酒は呑まないし無趣味な逸生である。少しばかりの蓄えはあるから、たった一人の弟の慶事に祝儀をはずむつもりはあったのだが、
「あ、ホント? さすが、いーちゃん! 兄貴だけある」
すかさず歓声を上げられて、いきなり後悔しているのだった。この勢いではタキシード代全額負担させられるかも知れない。
いじましい話だが、恋人が出来ればそれなりに金は使う。今月カーキを追って霊泉寺温泉に行った交通費は案外と懐に響いている。それにカーキは真柴本城市に住んでいるのだ。会いに行くにも交通費はかかる。愛と金はなかなか両立しない。
そんな逸生の思惑も知らず、隆生は急に豪儀に吟醸酒などを注文し始める。
そういえばここの払いは弟に任せていいのだろうな? と改めて案じる兄である。
「いーちゃん、知ってるか? あのデザイナー、ホモなんだぜ」
「へえ」
と毎度逸生は漫才の相方である。
「百香はしょっちゅうホモのデザイナーと連絡とりあってさ。東京にも一人で何度も打ち合わせに行ってんだぜ。帰って来れば理知さん理知さんって……結婚するのは俺だぞ?」
「だよな」
「変だと思わないか? あの男、ホモのふりして女をひっかける魂胆じゃないのか?」
思わず吹き出してしまう。父といい隆生といい(自分もだが)嫉妬深い一族なのかと思わずにいられない。
「そりゃ、ないだろう」
かぶら蒸しのゆり根を摘んで口に入れる。
「いや。だって親し過ぎるぞ。兄貴は昔あのデザイナーと友達だったんだろう? 何か聞いてないのか」
「いや。友達じゃない。恋人だった」
言ってしまってから、あれ? と思う。今、自分は何を言った?
「失礼します」
と、そこに店員が吟醸酒の二合瓶を持って来た。新潟の酒らしい。杯は二つある。
酒瓶を受け取り隆生は、手酌で盃に注いでちびりと呑む。
「ああ、やっぱり吟醸酒はうまいな」
しみじみ言ってから、ふと逸生を見る。
「誰が恋人だったんだ?」
爆弾発言だったのによく聞いていなかったらしい。
逸生は残った盃を「少しだけ」と差し出した。
「大丈夫なのか?」
と言いながら、酔っている隆生は揺れる手で盃にとろりとした酒を注いだ。逸生は少しそれを舐めてから、
「僕は昔、谷津理知の恋人だった」
と、残りの酒を口に含んだ。
甘い香りと同時に強烈なアルコール臭が口中から鼻孔まで広がった。味わうどころではない。むせる前に一気に飲み下す。食道を通った劇物が腹の底に辿り着いて火を放つ。
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