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第17話 吟醸酒の味
16 吟醸酒の味
「僕はゲイ……同性愛者だ。学生時代の谷津理知とは恋人だった。別れて今は別の恋人がいる」
酒の力を借りて、一気にまくし立てた。
弟は空の盃を手にしたまま、身動きもせずに逸生の顔を見つめている。しばし画面が停止した動画であるかのようだった。
そして唐突にげらげら笑い出した。
「もう酔ってるのかよ? つまんねー冗談やめろよ!」
また酒瓶を取ってから、きょろきょろ辺りを見回して盆の上の空いているグラスを取って、そこにたっぷり酒を注いだ。
「とにかく、あのデザイナーは百香と会い過ぎる。やっぱり下心があるに違いない」
隆生の話は元に戻っていた。逸生の告白はなかったかのようである。仕方なく答える。
「下心って……より良いウェディングドレスのためだろう。言っとくけど、デザイナーのこだわりはハンパないからな。俺があのヒスイカズラのタキシードを着る時だって、めちゃくちゃ時間かけたし大変な騒ぎだったぞ。その辺はプロを舐めるなよ」
「兄貴は今もあのデザイナーが好きなわけ?」
唐突に尋ねられて、今度は逸生が静止画像になってしまった。やはりさっきの告白は耳に入っていたのか。
「別に。完璧にふられたし、今は別の恋人がいる。ただデザイナーとして、彼はプロだと言ってるんだ」
食べ終えた焼き魚に付いているはじかみを手で摘んでかじる。呑んでばかりの隆生は料理には殆ど手を付けていないから「それ、いいか?」と弟のはじかみも食べる。妙な物ばかりが好きな兄である。
「え、じゃあ兄貴の今の恋人って……女?」
「男に決まってるだろう。俺はゲイなんだよ」
「うそだろ」
決めつけるように言って隆生はグラスの酒をぐいぐい吞んでいる。逸生は箸を置いて膝を正すと、そんな弟をまっすぐ見た。
「うそじゃない。今も昔もずっとゲイだ。おやじやおふくろには言わなくていいけど」
「うっそだー。俺は信じないね」
酒を飲み干すと、へらへら笑う隆生なのだった。当事者の告白を信じるも信じないもないだろう。
なるほど。佐藤和生が言っていたのは、こういうことなのか。ぼんやり弟の顔を眺めながらあの時の言葉を思い出していた。
「僕はさ……とても薄い氷の上を歩いてたんだな。たったひと言ゲイだと打ち明ければ、ぱりんと割れるような氷だよ」
弟はその薄い氷を割るまいとして、笑って誤魔化しているのだった。たった一人の兄が男とまぐわうような薄気味悪い存在と思いたくないのだろう。すっかり言い張る気力を失う逸生である。
逸生はまだ盃に残っていた酒を口に放り込むと薬であるかのように顔をしかめて飲み込んだ。今度ばかりはむせかえってしまったが。
「うぎゃーーーっ‼」
凄まじい絶叫に飛び起きた。
そしてどこからか転げ落ちたが、這いつくばった逸生は自分がどこにいるのかわからない。
母の声がするのは、ここは実家なのだろうか。掌に触れるのはカーペットの床である。そこにずしんと地響きがしたと思うや、
「やだ‼ 誰か来て! うそ、ちょっと。あーっ⁉」
また耳を弄さんばかりの悲鳴が上がった。
逸生は四つん這いになって辺りを窺っている。激しい頭痛で身動きする度に大きなハンマーで頭部を横殴りされているかのようである。どうも実家の居間でL字型のソファに寝ていたようである。そこから床に落ちたのだ。
見上げたダイニングキッチンの方で、今や口を真一文字に結んだ母が仁王立ちになっている。逸生と目が合うなり訴えた。
「いーちゃん……ゴキ……足の下……」
ふらふらと立ち上がって母に近づいてもみれば、流しの前で四股を踏んだような形をしている。これは以前、真田百香がアマゾネスのごとくゴキブリを退治した時の姿である。
母が足を抜き取ったスリッパを床からそっと持ち上げれば、裏側に貼り付いていた平らになったゴキブリがはらりと床に落ちた。未だ触角がふるふる動く驚嘆の生命力である。逸生はそれをキッチンペーパーで包んでさらにぎゅうぎゅうと押し潰した。
そしてサンダルを履いて勝手口を出た。日差しが目を射るように飛び込んで、いよいよ頭痛が酷くなる。平衡感覚も狂っているのか、ふらつくので戸口にすがって戸外の蓋つきのポリバケツに丸めた紙包みを捨てた。
と、にわかに吐き気に襲われてゴミ箱の中に嘔吐する。だが胃には何も入っていなかったらしく、わずかに液体が吐き戻されるだけである。それでも胸のむかむかは治まらない。
「大丈夫、いーちゃん?」
母親が背中をさすっている。
うっすら記憶に残っているのは、弟に支えられ個室居酒屋を出てからタクシーに乗ったところまでである。それからどうやって実家に戻ったのかは覚えていない。
よく見れば昨日から着たきりの服はひどく汚れている。どうも既に嘔吐をして吐瀉物にまみれた物を母が拭いてくれたらしい。けれど酸っぱい異臭は隠しようもない。その匂いもまたむかむかを増幅させる。
「もうお昼よ。ほら、シャワーを浴びて着替えてらっしゃい」
先程まで悲鳴を上げていた母に支えられて、勝手口から室内に戻る。
今になって梅乃屋旅館の駐車場に現れたカーキの姿を思い出す。二日酔いの青ざめた顔だったが、あれは何本もの缶ビールや缶チューハイを呑んだからである。逸生ときたら、たった盃二杯の酒でこのざまである。
「ねえ、いーちゃん。佐藤先生に来てもらえないかしら?」
シャワーを浴びてダイニングキッチンに行くも、逸生はまたL字型ソファに寝そべってしまう。
その横のテーブルにことりと音をたててグラスが置かれる。母がジューサーで作ったりんごジュースだった。ソファに寝転んだまま少しずつストローで啜る。
「プランターに植え替えたシュウメイギクの元気がないの。LINEで問い合わせても既読スルーだし」
母の言葉を完全無視してりんごジュースを飲み続ける。荒れた胃の腑に甘い果汁がすんなりと収まって行く。
「ほら、いーちゃんてば。見てよ!」
肩を揺すられ、仕方なく母が差し出すスマートフォンを覗き込む。
画面には〝秋明菊の根分けの方法〟などとある。どこかから引っ張って来た資料のようだが、それこそがカーキの返信だった。
「スルーしてないじゃん。ちゃんと返信くれてる。へえ、シュウメイギクってこう書くんだ」
「こんなのは私だって検索できるでしょう。実際にやって見せてほしいの」
「じゃあ、そう言えばいいだろう」
「いーちゃんに言って欲しいの。お友達なんでしょう。私が頼んだって……お父さんがあんなこと言うんだもの。来てくれない」
今更ながら逸生は部屋を見回した。
「今日、お父さんは?」
「昨日からゴルフ旅行。箱根に一泊して今日帰って来るの」
「車で行ったの?」
「ううん。ワゴン車にみんなで乗せてもらって出かけた」
「なら、家の車はあるんだ。それで迎えに行って来る」
「お父さんを?」
「佐藤先生を」
言うなりソファから腰を上げて、逸生はまだ痛む頭を抱え込んだ。ふらついて母に支えられる。
「運転ならお母さんがしてあげるから……」
「いや、それはちょっと……」
いい年をして母の運転で出かけるのも恥ずかしい。というより、別れ話を切り出した佐藤和生に会う盾に母親を使うようで(いや事実その通りなのだが)気が進まない。
「じゃあ、ほら隆生に運転してもらいなさい。りゅーちゃん、りゅーちゃん」
既に弟を呼びに二階に向かっている母である。
何だか話が変な方向に進んでいると思いながらも、とりあえずカーキに会う理由が出来て内心喜んではいる。
かくして。
逸生は弟の運転で真柴駅の農業団地に向かったのである。
連絡はしなかった。何やかや言い訳されて逃げられたくない。もし不在なら職場から実家まで回る覚悟は出来ていた。
「いーちゃん。おふくろの賞状は見た?」
運転席の弟に尋ねられて思い出す。二人で実家に泊ったのは、オープンガーデン新人賞の母の賞状や記念品を見るためだった。なのに逸生はまるで見ていない。そう言うと、
「だよな。玄関に額が掛けてあったのに。ドア開けていきなりゲロ吐くんだもん。玄関にあった靴ドロドロだぜ。一応、俺がソファまで運んで、おふくろは掃除して、めっちゃ大変だったんだから」
「…………」
恩着せがましく言われて黙り込んでしまう。それでなくとも揺れる車でまた胸のむかつきが増しているのだ。
「おちょこ二杯で二日酔いになれるなんて、どんだけコスパのいい身体なんだよ」
「…………」
何も言えないまま農業団地に着いてしまう。運転席に隆生を残して、カーキの部屋に向かう。相変わらず頭痛は続き、ほんの少しの段差にまでつまづいている。酒のためなのか、カーキに会う動揺のためなのかわからない。
玄関チャイムを鳴らすと「はーい」と、あっさりカーキの声がする。
ドアを開けて逸生の姿を認めた途端に、佐藤和生の動きが止まった。昨夜から色々な人の静止画像を見てばかりである。
固まったカーキの背後からおいしそうな匂いが漂う。カップ麺しかも天ぷらそば。これから昼食だったのかと思いながら、実は逸生自身も身動きとれない状況だった。
何か言おうとした時に、背後に人の気配を感じて振り向いた。
「いや一応、大丈夫かと思って……」
弟だった。
カーキはすかさずドアを閉めようとしたが、扉の隙間に足を挟んで半身を入れる隆生である。
「あの……母の庭の先生ですよね? 弟の隆生といいます。一応、オープンガーデンの日にお会いしました」
と逸生を背後に押しやって、玄関に踏み込む。仕方なく一歩内に引くカーキは怪訝そうな表情である。
逸生も隆生の真意がわからずその腕を掴んでいた。弟も父と同じように佐藤和生を〝薄気味悪いホモ〟と思っていたなら、何か危害を加えるかもしれないと戦々恐々としている。
「あの時は連れの都合で、先生にろくにご挨拶も出来ないまま帰ってしまって。大変失礼致しました」
「いえ、お気になさらず……」
カーキの目は怪訝そうに弟と逸生の顔を見比べるばかりである。
「母が何とか言う花について、先生のご指導を賜りたいと申しまして……」
「シュウメイギク」
と言葉を添える逸生である。
こいつはこんな口の利き方が出来たのか。と驚いたものの、考えてもみれば営業職なのだ。初対面の人間に挨拶するなどお手の物だろう。
「そう、シュウメイギク。お手数をおかけしますが、一度母の庭を見てやっていただけませんか?」
「よかったら今から車で家に来てくれないか?」
隆生の背後から声を出す逸生である。
兄弟の背の高さは殆ど同じである。が、にわかに縋っていた背中が下がってしまう。
「ええっ⁉」
カーキと逸生とが同時に驚きの声を上げていた。
隆生は靴を履いたまま玄関先で正座したのだ。膝の前に置いた両手に額を着けるようにして頭を下げている。
これは所謂〝土下座〟というやつではないか!?
「その節は父が不躾にも失礼極まりないことを申しまして、お詫びの言葉もございません」
「いや、あの、いいから、その……」
カーキはおろおろするばかりである。逸生とてどうしたものかわからない。
「先生にはさぞご不快だったろうと存じますが、何卒お許しください。どうか母の庭だけは見捨てないでやってください!」
目の前で生の土下座を見ているのだ。テレビドラマでしか見たことのない場面である。ひれ伏した弟を挟んで、逸生とカーキは目と目を見交すばかりである。
おろおろしているうちに逸生はまた足がもつれて土下座の弟の上に倒れ込んでしまう。
「いーちゃん!」
と、すかさず手を出したのは佐藤和生だった。
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