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第19話 りんごのコンポート

18 りんごのコンポート  箸の動きを止めたままカーキが厳かに答えた。 「おつきあいしていました」  母はカーキの手にある殆ど空になった茶碗を引き取って、 「お代わり食べるでしょう?」  キッチンで芋ご飯をよそっている。お代わりを受け取ったカーキは、 「でも、もう別れましたから。ご心配なく」  神妙に言うとまたご飯を口にかき込んでいる。 「そうなの? だってせっかく知り合って……逸生とつきあってくれたのに?」  この質問の流れは一体何なのか?  ただでさえ二日酔いが残っている逸生は頭がぐらぐらするばかりである。とても現実とは思えない会話に、まだ酔って妄想を見ているのかと思う。もはや弟の土下座をも上回る異空間である。 「やっぱり、お父さんが失礼なことを言ったから嫌になったの?」 「いえ、関係ないです。あくまでも僕自身の気持ちの問題で……」  妙にしみじみと話している母とカーキの間に割り込むかのように、 「別れてなんかない」  逸生はにわかにテーブルに箸を置いた。 「ずっとつきあってる。僕は、僕も……同性愛者で、それで、だから……」  手先が小刻みに震えるのをテーブル下の膝の上において隠す。全身は氷のように冷たくなっている。 「お母さんには黙ってて悪かったけど……でも、そんなの言えないし……」  母の顔を見ることが出来ない。ばらばらに置いた箸を見つめて絞り出すような声で言っている。 「だってデザイナーの先生も佐藤先生も……いーちゃんの知り合いはみんな同性愛者じゃない。なら、いーちゃんもそうなのかなって思って」  という母の言葉に、思わず顔を上げた。 「隆生に聞いた?」 「聞いてないけど。え、りゅーちゃんにはもう言ったの?」 「……言った」 「ふうん」とまた母は野沢菜をつまんでいる。  カーキは黙々と料理を平らげている。 「ごめんなさいね」  謝ったのは母だった。  逸生はいよいよ母の顔を凝視してしまう。  母の隣に座っているカーキもまた同じように横顔を見つめている。 「もっと早く気づいてあげればよかった。ずっと一人で黙ってて……つらかったでしょうに」  逸生は石像のように固まって母を見つめるばかりである。 「りゅーちゃんと違って、いーちゃんはいつも大人しくていい子だったから。私ったら見てるつもりでちっとも見ていなかったのね」  佐藤和生がにわかに母の肩に手を伸ばした。そっと優しく撫でている。  逸生はまるで自分が撫でられているかのように肩をすくめた。 「お母さんたら勝手に子育ては終わったとか思って……ガーデニングなんか始めちゃって。本当にごめんなさいね」  とうとう佐藤和生は母の肩を強く抱く。まるで彼こそが息子のようである。  何なんだ?  あれは自分の母親なのに。  そう思っている逸生は、ぱたぱたとテーブルに水滴が落ちるのを見て驚く。  きょろきょろあたりを見回してから、自分の目から涙がこぼれていることを知る。 「佐藤先生……いーちゃんを、逸生をよろしくお願いしますね」  カーキの身体を押し戻して、頭を下げる母である。  逸生が見る困惑したカーキの表情は涙で変に歪んでいる。 「隆生には百香さんがいるし、逸生にも佐藤先生みたいな人がいてくれるなら安心だわ」 「でも千帆子さんは、それでいいんですか?」 「何が?」 「ご主人は、ホモなんか不潔だって嫌ってるんでしょう。それなら僕は無理に逸生さんとつきあわなくても……」 「いやだ。先生は逸生のことが嫌いなの?」 「あ、いや、そういう意味じゃなく。逸生さんは戸倉家の長男だし、男の僕なんかとつきあうより、ちゃんと女の人と結婚して孫を作った方がいい」 「何だよそれ? 孫って本気か?」  思わず口を挟んでしまう。泣きながら涙声で突っかかっているのだ。もはや恥も外聞もない。  カーキは口を引き結んで逸生をまっすぐ直視している。 「私は孫の面倒なんか見ないわよ。後継ぎが必要な名家でもないし。ほら、老後はガーデニングに命をかけるんだから」  と母は立ち上がるのだった。 「デザートにりんごのコンポートを作ったの。甘さ控えめにしたから冷たいアイスクリームを添えると、ちょうどいい甘さになるのよ」  キッチンで鍋に入ったりんごのコンポートを温め直している母を見る。逸生の顔は涙や鼻水でべとべとである。 「顔、洗って来る」  席を立ってダイニングキッチンを出る。  ごつんと激しく頭をぶつけたのは、例によって上枠が低い洗面所の入り口だった。二日酔いの頭をどれだけ虐める気か。言葉もなく頭を抱え込んでいると、 「だ、大丈夫?」  やって来たカーキが驚いている。病人のように支えられて洗面所に着くと、思い切り水で顔を洗う。そしてタオルで顔を拭いながら、 「このドア、子供の頃はもっと高かったのに……いつの間にかこんなに低くなっちゃって」  ずきずきじんじん複雑に痛む頭を撫でながらドア枠を見る。 「気がついたら、おふくろの背も僕よりずっと低くなっていた」  呟く逸生からタオルを受け取って何故かカーキも顔を拭いている。そして言うのだった。 「……千帆子さんによろしくって頼まれたら、断れないよな」  カーキは逸生の身体に身体をぶつけるようにしている。 「お別れ旅行は仲直り旅行にしようか?」 「ふん」とカーキの身体を押し返す。 「何だよ」とカーキに肩を押し戻される。  洗面台の前で二人でおしくらまんじゅうをしている。  部屋の中には甘いりんごの香りが漂っていた。  カロカロカロと犬の散歩が近づいて来る。晩秋の朝はまだ薄暗い。キッチンから漂って来るコーヒーの香りに逸生は身を起こした。 「ごめん、起こしちゃった? コーヒー飲んで出かけるから」  カーキが丁寧にコーヒーをドリップしている。  昨日は母が運転する車で本城駅まで送ってもらった。例によって母に渡された手提げ袋には缶詰やレトルト食品、いくつもの密封容器が詰め込まれていた。その容器の一つにはりんごのコンポートも入っている。  本城駅から急行電車に乗って佐藤和生は下車すべき真柴駅を通り過ぎて、逸生の部屋までやって来た。二日酔いの奴と枕を交して早朝から職場のある真柴駅まで戻る次第である。 「転勤と言っても都内だろう。真柴よりもっとここに近くなればいいな」  カーキのサラサラの髪を指で梳きながら言ったのは夕べのことである。  ベッドを出てカップに注がれたコーヒーに口をつける。カーキは密封容器の蓋を開けて、りんごのコンポートにフォークを刺しては口に運んでいる。 「朝飯それだけでいいのか?」 「時間がないし。すぐ出るよ」  見ればカーキは既に髪も衣服も整えているが、逸生は玄関に向かう身体を抱き寄せてしまう。  互いに肌には昨夜の熾火がまだ残っているが、燃え上がらせている場合ではない。  カーキは両手を逸生の腰に回してひたと身を寄せると尋ねた。 「あの写真て……元彼が撮ったの?」  示すのはベッドの上に飾ってある犬の散歩の写真である。かつてこの部屋に泊った谷津理知が、音を聞くなり飛び出してスマホで撮った写真である。  カロカロ犬と飼い主はとうにアパートの前を通り過ぎてミニベルはかそけき音になっている。 「そうだけど。……でも飾ってる理由は違うんだ」  逸生はカーキを抱いたまま振り向いて写真を見る。 「あの犬も飼い主ももういない。亡くなったんだと思う。今は新しい犬が散歩してる」 「うん。おばさんが若い犬を連れてるね」 「前はあの写真みたいな……おじいさんは白髪で背中が曲がってて、犬も脚が不自由でよたよた歩いてた。でもずっと一緒にゆっくりゆっくり歩いてたんだ」 「……うん」 「僕もあんな風にずっと誰かと一緒に年をとって……死ぬまで共に歩いて行きたい。そう思って飾ってるんだ」  カーキは両腕を逸生の背中に回して強く抱き着く。 「じゃあ、僕が犬になるよ」  逸生の方が少しばかり背が高いからカーキの髪がくすぐったく頬に触れる。それをそっと撫でて、 「逆だよ。僕が犬だ。カーキが紐を引いている」 「ウソばっかり。紐を引いてるのはいーちゃんだよ」  カーキは少し背伸びをして逸生の唇に啄むようなキスをすると身を翻した。 「じゃあ、行って来ます」  玄関に向かう佐藤和生を見送って、 「行ってらっしゃい」  戸倉逸生はまたしても少し涙ぐんでいるのだった。

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