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第20話 犬のお見舞い
19 犬のお見舞い
〈ヤマトの手術は無事に済みました〉
連絡が来たのは勤労感謝の日だった。
佐藤和生や久野礼衣良は飼い犬ヤマトの腫瘍除去手術を決断したのだ。
手術の負担を回避して運を天に任せるか、あえて手術をして延命を図るか家族会議を重ねた結果の決断だったという。
〈術後良好でご飯ももりもり食べています。まだ飛び跳ねるのは出来ないけれど〉
お別れ旅行は無期延期になっていた。その代わり年が明けたら温泉旅行をする。夏にはニッコウキスゲを見に高原に行く約束もある。ずいぶんと先の約束も当たり前のように出来る関係になっていた。
「ニッコウキスゲって、どんな花?」
「百合っぽい花だよ」
「百合?」
「百合も知らない? ニッコウキスゲは黄色くてね……いーちゃんに似てるかも」
「…………」
自分が花だと思ったことはない。想像もつかずに黙り込んでしまう。
「僕はチシマリンドウかな」
もちろん逸生はその花も知らない。後で調べよう。
このところ二人は互いの部屋に行ったり来たりして親しむのに忙しい。
有体に言えばやりまくっている。カーキによって次々と自分の身体のホットスポットを見つけられ、逸生もまたカーキのどこがそうなのか探すのが楽しくてならない。
これまでに聞いたことのないエロい喘ぎ声やら嬌声を聞かされて盛り上がる一方である。
ヤマトの見舞いに実家の佐藤家にも行った。
カーキがヒスイカズラ色の車を納屋の前に停めていると、軽トラックの荷台にコンテナを積んでいた老人がやって来た。作業服の襟元にはタオルを巻いて、野球帽を被ったいかにも農夫といった風貌の老爺である。
「道の駅に納めて来るから」
車窓を覗き込んで言うのに、運転席のカーキはあわててシートベルトを外している。
「お父さん。紹介するから……」
という言葉を聞いて、逸生も助手席から飛び出すように車を降りた。
「あ、初めまして。戸倉逸生といいます」
いきなり老人に頭を下げてから、
「前にキー坊がバーベキューに連れて来た人だろう?」
と指摘されて、
「あっ、そっ、そうです。もうお会いしましたよね」
などと誤魔化す。
薄ぼんやりと風貌は覚えているが、何ならカーキの祖父かと思っていた。
「今、僕がつきあってる恋人。戸倉逸生。まほろば運送の東京本社に勤めてるんだよ」
逸生に寄り添って紹介するカーキである。
「そうか。……まあ、よろしくお願いします」
丁寧に野球帽を取ってお辞儀をすると、またコンテナを積みに納屋の奥に戻って行った。
カーキは殊更に逸生と腕を組んで家に向かう。つまりこれは恋人デモンストレーションなのだ。恋人らしく寄り添って歩くなど初めてなので、うっかりすれば相手の足を踏みそうになる。
単なる犬の見舞いのつもりで高級ドッグフードを持参しただけの逸生は、にわかに覚悟を決めて口元を引き締める。
「キー坊のお父さんて、うちの父親より……」
知ったばかりの新たな愛称を使ってみると、ちろりと目の端で顔を見られる。その口元は逸生とは逆に嬉し気に緩んでいる。
「一回りぐらい年が違うんじゃないかな? だって僕と一番上の姉って十才年が違うんだよ」
「あ……そうか、そうだよな。親も年上で当然だよな」
頷きながら、あの時は数人の老女と会ったがどれがカーキの母親だったかと必死で思い出しているのだった。
和犬ヤマトは今や戸外の犬小屋ではなく座敷で療養中だった。それも家の奥座敷である。逸生がカーキに案内されて玄関に入った時点で、廊下の奥からひゃんひゃんと嬉し気な鳴き声が響いて来るのだった。
ヤマトが寝ているのは座敷の床の間だった。犬用ベッドが置かれ、段差から落ちないように前には柵が設えられている。エラザベスカラーを着けたヤマトは後ろ脚に包帯を巻いてまだ飛び跳ねることは出来ないようだが、尻尾をぶんぶん振って前脚で柵を引っ搔いては嬉し気な声を上げている。
「ヤマト。これ、僕の恋人。戸倉逸生さんだよ」
と犬にも紹介される。
柵越しに犬の頭を撫でているカーキの横で逸生も神妙な顔で、
「よろしくお願いします」
と手を伸ばした。
すると、にわかに犬は低い唸り声を出した。
「ダメだよ、ヤマト。逸生さんを威嚇しないの」
カーキにごしごし頭を撫でられてヤマトは「ふん!」とぱかりに逸生から目を反らすのだった。
そこに襖を入って来たのが佐藤和生の母親だった。改めて紹介されたのは、白髪に笑い皺の多いふくよかな老女だった。以前会ったことは覚えているが、てっきり祖母かご近所さんかと思い込んでいた。
母親に勧められて床の間を背にして座る。
確かに上席には違いないが、今や犬の寝室前なのだった。年老いた母親にお茶を供されて、正座した逸生は思わず知らず背筋を伸ばす。
「戸倉逸生です。……和生さんとおつきあいさせていただいてます」
と、しっかり現在形で挨拶をした。
だがそのお辞儀は、隆生の土下座に比べてもかなり適当だった。座布団に座ったまま挨拶をするのは失礼だったかと思いついたのはずっと後になってからである。
「友達じゃなくて恋人だから」
言い添えたのはまだ柵の前でヤマトを撫でていたカーキである。腰を上げてわざとらしく逸生の横にくっついて座るのだった。
背後の床の間ではヤマトが離れて行ったカーキに向かってきゅーんと甘え声を出している。何だかその声に背中を押される気分で逸生は、一気呵成に言ってのけた。
「つまり僕も同性愛者です。和生さんとは幾久しく、おつきあいをさせていただきます」
「それは、ご丁寧にどうも……。和生をよろしくお願いします」
ほんのりと微笑んで頭を下げる母親は、佐藤和生によく似ている。そして菓子鉢の中にある干し柿を勧めて、
「この干し柿は私の実家で作って寄越したんですよ。甘いから食べてみてください」
干し柿の作り方など語り始める。
同性愛の恋人としての挨拶はこれで終わりだった。
カーキはまた柵に戻ると身を乗り出して、ヤマトの身体を撫でている。人間に対するよりずっと慈愛に満ちた目つきであるのが逸生には妙に忌々しい。
「〝幾久しく〟って何?」
実家からの帰り道、ヒスイカズラ色の車を運転するカーキはちらりと横目で逸生を見たものだった。
「隆生に聞いた。婚礼ではそう言うらしい」
「……婚礼って」
「僕は、それぐらいの気持ちでキー坊とつきあってるわけで……仮におやじが許さなかったら実家とは縁を切ってもいい」
「ダメだよ。そんなの。辰徳 さんが可哀想だよ」
「辰徳さんて……おまえ」
助手席の逸生は顔を真横に向けてカーキを見てしまう。
「両方を名前で呼べば問題ないでしょう? 千帆子さんに旦那さんの名前を教えてもらったんだ」
「そういう問題か?」
呆れているとカーキはもっと呆れることを言う。
「ねえ、寄ってかない?」
気がつけば車はホテルスワンに向かっている。団地に戻るのではなかったのかと言えば、
「我慢できない。いーちゃんとやりたい」
何を平然と言っているのだ。
横顔から視線を下ろせば、なるほどやる気満々である。つい鼻息が荒くなる逸生なのだった。
バラの意匠のベッドで手足を絡ませながら二人は「キー坊」だの「いいッ……幾久しく」「真面目にやれ」だの笑ったり喘いだり忙しいのだった。
そのわりに、ほんの一度の交わりで深い充足感を得て延長をすることもなく、農業団地に戻るのだった。
以来、佐藤和生を呼ぶのに「キー坊」「カーキ」「キーちゃん」といろいろな呼び名を使うようになった。
正直、逸生は佐藤和生にいくつもの呼び名があるのが羨ましい。それだけ家族に愛されて育った証拠に思えるのだ。
そんなこんなで蜜月は過ぎて行くのだった。
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