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第21話 焦げたカレーの後始末

20 焦げたカレーの後始末  十二月の真柴本城支社への出張は初旬だった。経理処理としてはあまり意味がないが、どちらかといえば年末の挨拶に近かった。  実家の母はプチ同窓会で東京に出かけて帰りが遅くなるとのことだった。  父が一人でいる家にはあまり戻りたくなかったが、例の汚したゴルフシューズの代りをネットで取り寄せてある。仕方なく仕事帰りに靴を入れた手提げ袋を下げてバスで実家に帰った。  門から玄関に近づくにつれ家の中から何やら強烈な異臭が漂って来る。  逸生はチャイムを鳴らすのももどかしく、自分のキーホルダーから鍵を出してドアを開けていた。 「お父さん⁉ どうしたの、すごい匂いが……」  押っ取り刀で靴を脱ぎ捨てダイニングキッチンに飛び込むと、凄まじい異臭はカレーが焼け焦げた匂いのようだった。  ガス台の前に棒立ちになった父親は救いを求めるようにこちらを振り返った。 「お母さんは?」  と縋るように問うのは、母の帰還を待ちわびていたらしい。 「いや、俺だけだよ。お母さんは同窓会で遅くなるんだろう?」  言いながら近づいて見ると、ガス台付近は大変な惨状だった。  鍋のカレーを温めていたのが吹きこぼれたようだが、鍋肌には煤のように焦げたカレーがこびり付き、ガス台全体にカレーが広がっている。一体どれほどの火勢で鍋を火にかけていたのか。 「いや、お母さんがご飯は炊いてあるから、カレーを温め直して食べろって……」  手を束ねたまま言い訳する父である。  逸生はキッチンペーパーでガス台に溢れ出ているカレーを拭いてはみるが、一朝一夕にはきれいになるとは思えない。 「これ……焦げ臭くてもう食えないだろう。とりあえず缶詰か何かあったんじゃない?」  そこそこ拭き取ってから、戸棚に備蓄してある鮭缶を出しておかずにする。インスタントの味噌汁や、冷蔵庫に入っていた野沢菜や作り置きのきんぴらごぼうなども並べれば食事らしい体裁になる。 「ほお。逸生はちゃんと料理が出来るんだな」  と父はひどく感心しながら食卓につく。 「こんなの料理じゃない」と言いたいが、黙って下げて来た紙袋を父親に手渡すに留める。 「ゴルフシューズ。こないだ吐いて汚しちゃったから。新しいの買って来た」 「ああ……すまんな」  受け取ると父は立ってソファに行った。まるで宝物であるかのようにそっとソファに安置するとまたテーブルに戻るのだった。  いつも父が座るソファの前には新聞や雑誌が置かれているのだが、今日は積んである本の表紙を見て目が離せなくなる。『LGBTQ完全理解』『ビジネスマン必携ハラスメント事典』といった本である。  逸生が見つめているのに気づいて父親は、 「隆生は会社でコンプライアンス委員会に入ったんだとさ。今時は〝ホモ〟じゃなく〝ゲイ〟と呼ぶべきだの何だのと。本まで送って寄越した」  箸を動かしながら、独り言のようにぶつぶつ言っている。  二日酔いに苦しめられた長かった日曜日。弟も母も逸生が同性愛者と知ったのだ。 〝アウティング〟の失態を犯した隆生は、父親を教化することで挽回しようと努めているのか。少しばかり胸が熱くなる兄である。  けれどあの時、母はりんごのコンポートにバニラアイスを添えながら、 「お父さんにはまだ言わなくていいから」  と口止めしたものだった。テーブルを回って逸生の横に来て椅子に腰を下ろしたのだ。 「いーちゃんが同性愛者で佐藤先生の恋人なんて知ったら、お父さん何を言うか知れやしない。時期を見てお母さんが伝えるから、いーちゃんは黙っていなさい」  そう肩を撫でられて、幼い頃のようにこくんと頷いたのだった。  なのに焦げ臭いダイニングキッチンで母の作り置きのきんぴらごぼうを食べるうちに逸生はつい言ってしまった。 「あのさ。俺、庭の先生……佐藤和生とつきあってるんだ」 「知ってる。友達なんだろう。お母さんに聞いた」 「友達というか……」  逸生は席を立って冷蔵庫から海苔佃煮の瓶を出した。〝ごはんですよ〟という実にわかりやすい名称の瓶詰は父の好物である。  ことりと音をたててテーブルに置いた。  長テーブルの短辺、所謂(いわゆる)お誕生日席が父の定位置である。その左横が逸生の席なのだが、そこまで戻らずに父の右横、流し台を背にした母の定席に立ったまま瓶詰を見ていた。 「恋人なんだ」  〝ごはんですよ〟に手を伸ばして蓋を開けた父は、怪訝そうな目で逸生を見ている。 「僕は同性愛者で、佐藤和生と恋人としてつきあっている。多分今後もずっと」  左手に瓶、右手に蓋を持って父は石像になっている。 「黙ってて悪かったけど、僕は小さい頃から女より男の方が好きだった。それで、たまたま佐藤先生と知り合って、つきあうようになった。恋人として、だよ」 「あの男は何なんだ⁉」  父は音を立てて瓶や蓋をテーブルに置いた。からからと音を立てて蓋が転がって行く。 「お母さんに馴れ馴れしくしたかと思えば、逸生に……おまえはホモなんて変態じゃないだろう。あいつに何か変なことをされたんだな⁉」  逸生は転がった瓶の蓋をつかまえて、 「違うよ。お互いに好き合って、つきあうようになっただけだよ。どっちがどうとかいう問題じゃない」  妙に冷静に言うのだった。頭の中は冬の凍った湖のようにしーんと静かに冴え渡っている。 「お母さんにはもう伝えてある。お父さんにも黙っているのは嫌だから……」 「そんなわけないだろう‼ 逸生はちょっと奥手なだけだ。女を知らないからそんな変なことになるだけで……何ならお父さんの会社の若い子を紹介して……」 「そういうことじゃない‼」  父と同じく大声は出したが、到って冷静な逸生である。 「昔から女には興味がなかったんだ。ずっと隠れて男とつきあっていた。お父さんが認められないのは仕方がないと思う」  話しながら開けっ放しの瓶を父の手元に差し出して蓋を横に置く。  父はただじっと瓶のラベルにあるカラフルな文字を見つめている。  〝ご・は・ん・で・す・よ〟  何だこのひらがなの羅列は?  つられて見つめた逸生は思わず首をかしげてしまう。 「僕だって自分自身で認めるには時間がかかったよ。ただ、佐藤先生が何か変なことをしたとか、そういうんじゃない。僕は佐藤先生が好きで、だから恋人になった。それだけだ」  父は黙ってテーブルの席を立つとソファに行った。  いつもの一人用ソファに座るとゴルフシューズの箱から靴を取り出して、どすんと本の上に置いた。靴紐を付けるようだが、真新しい靴が踏みつけているのは『LGBTQ完全理解』の本だった。  逸生はテーブルの前に立ったまま、黙々と靴紐を取り付ける父の姿を見ていた。 「いやだ。ちょっと、何なの、この匂いは⁉ お父さん?」  玄関ドアを開ける音と共に母の声が飛び込んで来た。父は構わずゴルフシューズに靴紐を通している。  帰還した母と入れ違いのように、逸生はアパートに帰ることにした。汚れたガス台を掃除する手伝いをしたい気もしたが、 「お父さんが汚したんだから。お母さんだけに掃除をさせないで、手伝いなよ」 と言い残して家を出た。  父子の様子に不審そうな母親ではあったが、逸生は特に何も言わなかった。  バス停で一人バスを待つ間、佐藤和生にメッセージを送った。 〈今から行っていい?〉  既読が付くなり電話が鳴った。 「何かあった?」  北風の吹く暗いバス停で聞く声に胸がほんのり温まる。 「いや、ちょっと話を聞いて欲しくて……」  勢いで父親にカミングアウトしてしまったと打ち明けながら、カーキは会ってくれないと知っている。わざわざ電話をかけて来るのは断る時なのだ。会える時はすかさず時間や場所を指定して来る。 「辰徳さん怒ってた? いーちゃんは大丈夫?」  それでも心配そうに尋ねる声に逸生はただ「うん」「ああ」と相槌を打つばかりだった。 「ごめん。会いたいんだけど、今夜は残業なんだ。ていうか年内にまとめなきゃいけないデータがたまってて。年末までずっと忙しいと思う」  カーキの申し訳なさそうな声を聴きながら暗い道の奥を見やると、バスの四角い明りが近づいて来るのだった。温かそうな光だった。 「うん……いいんだ。今度キー坊に会った時に話す」 「年末年始はちゃんとカレンダー通りに休めるから。その時にいっぱい話そう」 「うん」と頷いた後、どうした加減か逸生はためらいもなく、 「愛してる。またな」  と言うと声を待たずに電話を切った。  こんな台詞を言うのは生れて初めてである。頬はやたらに熱く火照っている。木枯らしで全身が冷えているはずなのに。まるでやって来たバスの明るさが熱源であるかのようだった。 〈ぼくも愛してるよ。いーちゃん〉  バスの席に座って見たスマホにメッセージが届いていた。熱い頬がゆるゆる溶けてしまいそうである。一人にやにや笑いながら逸生は目が潤んでいるのだった。  弟の隆生から電話があったのは、それから数日後のことである。師走になって残業が多くなっていた。いつもより遅く退社して地下鉄に乗った途端に電話が鳴った。一瞬、母親からかと思ったが隆生からだった。 「ごめん。今電車だから……」 「兄貴! あの男は何なんだ⁉ あいつはやっぱり百香を狙ってたんだ」  車内にまで響きそうな大声である。 「駅に着いたらかけ直す!」  負けずに大声で言い帰したのは隆生に対してではなく、どちらかといえば車内の乗客への言い訳に近かった。駅で降りても逸生は弟に電話をかけ直すことはしなかった。  どうせあの大声は酒を呑んでいたに違いない。酔っ払いの相手はせめて部屋に戻ってからにしたい。  アパートに急ぐ道の向こうから、カロカロカロと聞き覚えるある音が近づいて来る。  何か奇妙な気がして逸生は立ち止まってしまった。カロカロ犬の散歩にしては時間が遅すぎる。  しかもカッカッと獣の爪がアスファルトを蹴る音は聞こえるのだが人間の歩く音はない。  恐怖という程でもないが奇異な感覚に足を進めることが出来ない。  やがて街灯の明りの下に現れたのは、ミニカウベル付きの首輪をしたあの白い犬だけである。飼い主の姿はどこにもない。 「おい……」  思わず犬に呼びかけていた。  一人きりになってしまったのか?  共に歩く者を見失ったのか?  変な恐怖に捕われそうになり、 「どうしたんだ? ひとりなのか?」  殊更に明るい声をかけていた。  カロカロ犬は自分に話しかけられたのを理解したかのように逸生に向かって歩いて来る。  実を言えば逸生は犬を飼ったことはない。いや猫もだが。ペットには縁のない家庭だった。  だが幸いにも佐藤家のヤマトには触ったことがある。カーキが飼い犬にどう接していたか思い出してみる。  屈み込んで膝元にやって来た犬の頭をわしわし撫でる。白い犬は嬉しそうに舌を出してへっへっへっと息をしているのが、まるで笑っているようである。  白い尻尾をふりふり振っている。

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