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第22話 初代と二代目
21 初代と二代目
どうしたものか?
大体この犬がどこの家で飼われているのか逸生は知らない。
アパートの一町ばかり先の住宅地のどこかの家だろうが、名前も住所も知らないのだ。撫でながら首輪を捕まえてはいるが、放っておいたらまた勝手にどこかに歩いて行ってしまいそうである。
そうして編み出した手段は自分のネクタイを外して、その先を犬の首輪に結び付けることだった。反対側の先を握って立ち上がると、ネクタイは犬の散歩にふさわしい長さになる。
「おまえの家はどこなんだ?」
などと話しかけながら自分の住むアパートを通り過ぎる。
十分程歩いてあまり来たことのない住宅地に達すると、奥からぱたぱたと足音が聞こえて来た。
「サツキ! どこ? サツキ、いないの?」
声と共に小走りにやって来たのは、あの主婦だった。
たちまち犬はネクタイの紐を引っ張って、その声の元に駆け出す。首輪のカウベルがけたたましく鳴り響く。あわてて追いかける逸生である。このベルがこんなに激しく鳴るのを聞くのは初めてだった。
犬の飼い主は部屋着らしいジャージの上にベンチコートを着込んで、飛びつく犬に歓声を上げている。
「あああ……よかった! ああ、もうサツキったら! 夜中にどこに行ったのかと思った」
若いように思っていたが、近くで見ると逸生の母親に近い年齢かも知れない。じゃれつく犬の頭となく身体となく撫で回しながら、
「ありがとうございます! よかった! すみませんでした!」
逸生に向かってしきりに頭を下げるのだった。
「あああ」「よかった」と繰り返すうちに涙声になって女性は犬を抱え込んでうずくまってしまう。
「あの」と逸生が声をかけると正気に戻ったかのように、いそいそとネクタイの紐を外そうとする。
「いや、そのままで。また逃げるといけないので、家までお送りします」
女性の手を制して逸生は改めてネクタイのリードを握り締めた。
そうして犬に引かれるままに飼い主の家の前まで歩くのだった。ブロック塀に囲まれた何の変哲もない家である。
門扉の前で今度は逸生が首輪からネクタイを外そうするのを女性は止めて、
「ネクタイはクリーニングしてお返しします。ご連絡先を教えていただけますか?」
乞われて逸生は内ポケットから名刺を取り出して渡した。
「お住まいは確か、あの辺のアパートですよね?」
重ねて問われて名刺の裏に自宅の住所も走り書きした。
部屋に戻ると隆生から何件かメッセージが入っていた。
〈もう俺達は終わりだ!〉
〈あのデザイナーが悪い!!〉
〈あの男はサイテーだぞ!!!〉
と〝!〟がどんどん増えるメッセージは次第に、
〈だMbeから!!ぇ@5逸生い3なの%〉
と意味不明になり途絶えていた。酔い潰れて寝たのだろう。
スーツを脱いでシャワーを浴びるとパジャマでベッドに寝そべる。
見上げると壁に掛かったパネルの中で、先代カロカロ犬と老人が朝日に向かって歩いている。
二代目カロカロ犬、サツキをネクタイで引いて歩きながら女性はしきりにすすり泣くのだった。困惑する逸生に「ごめんなさい」「すみません」と何度も謝る。
とりあえず逸生は尋ねたのだ。
「この犬、サツキさんは前の犬……おじいさんと一緒に散歩してた犬の子供ですか?」
「いいえ。血のつながりはありません。タロー、前の犬が老衰で亡くなったので……保護犬の中から似た子をもらってきたんです」
「ああ、そうだったんですか」
「タローが死んでから父は認知症を発症して……タローがいないと言って探しに出てしまうんです。いわゆる徘徊です」
「徘徊……」
「もしかしたらもっと前から徘徊をしていたのかも知れません。タローがいた時も妙に長い散歩の時があったんです。でもちゃんと家に帰って来てました。タローのお陰だったんですね」
「犬が連れ帰ってくれてた?」
女性は頷きながらうつむいて黙ってしまった。そして自分を励ますように言葉を続けるのだった。
「私も会社勤めで昼間はいなかったから気づくのが遅過ぎました。母は亡くなって三回忌も終わっているのに……父は忘れてしまって、タローと一緒に迷子になったと言っては探し回るんです。仏壇の写真を見せて死んだと言い聞かせても次の日にはもう忘れてて……」
逸生は黙って聞いていた。赤の他人だからこそ話せることもあるのだ。カーキなら〝袖触れ合うも他生の縁〟などと古いことを言うかも知れない。
「それで似ている柴犬のサツキをもらって来たんです。しばらくは、父もしゃんとしてサツキと散歩に行ってました。でもまた迷子……いえ、徘徊するようになって……」
薄く笑う女性である。
この時、逸生は初めてこれまでの認識が間違っていたと気づいた。
「失礼ですが、あなたはあのおじいさんの娘さんですか?」
「ええ、一人娘です。結婚もしないで仕事を続けて……ちょうど定年退職の時期だったんで早めに辞めました。短期のパート事務をしながら介護に専念したんですけど……」
嫁ではなく実の娘だったのだ。何故だかにわかに犬が鳴らすカウベルの音がカロカロと大きくなったような気がした。
「ずっとおひとりで介護を?」
「いいえ、サツキがいましたから。でもサツキはタローのように父を家に連れ帰ることもまだ知らなくて。父に連れ回されたんでしょうね。迷子になって、うんと遠くの交番から連絡が来たりして……」
「今はお父さんは……?」
「今は老人ホームにいます」
まだ亡くなっていたわけではないのだ。
「それはよかった」と言ってしまってからあわてて「いえ、まだお元気なんですね」とつけ加えた。
「サツキと一緒に迷子になって一晩帰らなくて……また警察のお世話になって……次の日の夕方ですよ、見つかったのは。私はもう……」
また女性は涙声になるのだった。サツキを見つけた時の取り乱し様は、その時のことが蘇ったのかも知れない。
老人の散歩がタローからサツキに変わった頃、逸生はといえば谷津理知に捨てられた事実を見ないふりをするのに必死だった。簡単に言えば失恋呆けだった。よその犬の散歩など意識の外だった。
佐藤和生と改めて交際すると決めてから、カロカロ犬が老犬から若犬に変わったことを認識したのだ。
「それで、もう自宅介護は無理だと決心したんです。老人ホームに入ってもらいました」
「一人では大変だったでしょう。プロに任せてよかったと思いますよ」
ベンチコートを着込んだ女性は母よりは少し背が高いが、やはり逸生にはつむじが見下ろせる。少しばかり白髪が混じった灰色の頭だった。自分もやがてこの女性と似たような経験をするのかも知れない。そんなことを考えていた。
今ベッドで横になってカロカロ犬の写真を見上げながら、何故か逸生は自分の未来に佐藤和生が寄り添っている図が想像できないのだった。それは「愛している」という思いとはまた別の感慨である。
あの女性には知った風に言ったが、逸生自身は介護の苦労などまるで知らない。
だがもし自分が老親を介護するようになれば、カーキとは別れるつもりである。愛しているからこそ、巻き込みたくない気がする。
それにつけても、傍に見ている分にはわからないものである。逸生はてっきりあの犬、タローは老人の息子や嫁そして子供たちのいる家庭で飼われていると思っていた。サツキの散歩をしているのは嫁だとばかり。
誰もが他人のことは自分の想像力の及ぶ範囲で考えている。
父は逸生が奥手で女を知らないから、ホモにたぶらかされたのだと思っていた。父の想像の範囲内ではそれしか考えられないのだろう。
そして弟の隆生はといえば、
「兄貴! あのデザイナーにガツンと言ってくれよ」
電話口で怒鳴って来る。土曜日の夜である。また酒を呑みながら話しているらしい。酒飲みというのは何故こうも毎晩呑むのだ?
「言ったろう。彼は別れた恋人だ。もう話したくない」
強気で返すのは、どうせ酒が覚めれば忘れるだろうと踏んでいるからだ。
逸生は狭いキッチンで母が寄越した缶詰などを開けて夕食の支度をしている。ご飯を炊いてインスタントの味噌汁と缶詰の鯖の味噌煮と野沢菜で食べる。父がひどく感心した逸生の調理能力とはこの程度なのだ。カーキが来れば何やら野菜料理を作ってくれるのだが。
「百香は会社を辞めて、あのデザイナーが興す会社を手伝うとか言うんだぞ!」
「会社を興す?」
「あの男、ウェディングドレス専用のデザイン会社を始めるんだとよ。そんで百香にマネージャーだか事務員だか……手伝いをして欲しいんだと」
「ああ……」
思わずにやりと笑ってしまう。
谷津理知にはそういったスカウト能力もある。今になれば逸生をモデルに選んだのも慧眼だったと思う。
自分で言うのも何だが、他の学生モデルに比べれば逸生は身長も見た目も秀でていた。おまけに真面目だからモデルウォーキングのレッスンにも通ったのだ(もちろん自腹である)。愛しい彼氏に恥をかかせたくないと必死だったのだ。
このアパートで半同棲のような形になったのも、逸生一人には広すぎる2DKが理知にとっては課題の制作場として恰好だったからだろう。決して逸生に対する愛がなかったとは言わないが、理知は自分の損得を瞬時に見抜く目を持っていた。起業家には必要不可欠な才能だろう。
有名な婦人服メーカーを辞めて独立しても、理知ならば充分にやって行けるだろう。
ましてやあのアマゾネスを片腕にしようと見極めたのだから大したものである。
「百香さんには、それだけのビジネスセンスがあると見込まれたんだろう。喜んで送り出してやれよ」
「送り出してって……一応、俺が亭主なんだぞ! あの男、絶対に二刀流だぞ。百香に変なことしてるんじゃ……⁉」
「だから。彼は女では勃起しない」
電話の向こうで「ンぐッ」というような変な声がするや激しく咳き込む音がした。一気に吞み込んだ酒は気管にまで回ったらしい。到底話の出来る状況ではないようだったが、
「百香さんの貞操については保証するよ。少しは妻を信じろよ。てか、いっそお前が主夫になったらどうだ?」
一気に言うと電話を切った。
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