23 / 26
第23話 睡眠不足とぎっくり腰
22 睡眠不足とぎっくり腰
日曜日の朝、カーキはいつものパンを持ってやって来た。ドアを開けて見たのは一重瞼が殆ど糸のようになった寝ぼけ顔だった。
「それで運転して来たのか?」
呆れて問う逸生の胸に倒れ込むようにして、首を横に振る。
「電車で……ずっと眠って来た……ごめん。もう少し寝かせて」
既に半分寝息をたてるようにして呟くカーキである。逸生がその身体を抱きかかえてベッドに運ぶ間も、寝言のように言っている。
「ずっと職場にいて……土曜日? 昨日は寝ないで今朝、何とか切りをつけて……」
「そうまでして来なくても。家で寝てればいいのに」
と布団をかけてやる。
カーキはその手にすがるようにして、
「日曜日はいーちゃんと一緒にパン食べるんだ……」
呟くと、どすんとばかりに深い眠りの底に落ちるのだった。
逸生はベッドの枕元に座って手を握られたままである。すーすーと健やかな寝息はまるで妙なる音色のようだった。サラサラの髪に手を伸ばして撫でずにいられない。
「キー坊」と耳元で呟けば「んん」と寝ぼけた息が返って来る。口元は少しばかりにんまりと笑っているようにも見える。
唐突に玄関チャイムが鳴った。あわてて玄関に走る。
「おはようございます」
開いた玄関ドアの向こうに今度は見覚えのない女性の顔がある。
「先日はサツキが大変お世話になりました」
深々と頭を下げるのは二代目カロカロ犬、サツキの飼い主である。
あの夜の取り乱した姿とは打って変って、きちんと化粧をして髪も整え、ビジネススーツの上にコートを着込んでいる。見事に中堅ビジネスウーマンである。手に下げているのは老舗デパートの紙袋だった。
「お借りしていたネクタイをお返しに上がりました。クリーニングはしたんですけど、犬の首輪に着けた物ですもの。もしお気に障るようなら、新しいネクタイもご用意しました。よかったらお使いください」
差し出す手提げ袋にはクリーニング屋のビニール袋に包まれた逸生のネクタイと、老舗デパートの包装紙に包まれた細長い箱とが入っていた。
「え、いや。首輪に結んだのは僕なんだから、別にいいですよ」
「そうおっしゃらずに。どうか受け取ってください。ほんのお礼の気持ちです」
何やら自宅の玄関先が会社の応接室に変わったかのようなやりとりの末に、逸生は女性から手提げ袋を受け取ったのだった。そして、女性が帰ろうとした途端に、
「ちょっと待っててください」
にわかに思いついて室内にとって返した。
ベッドでは相変わらずカーキが平和な寝息をたてている。その奥の壁に掛かっている写真パネルを取ろうとしたのだ。
カーキの身体を踏まないように、そっとベッドの上に上がってパネルを外した。掛けていたのはほんの短い期間だったのにパネルの表面や裏には埃が付いている。ふっと吹いて取ろうとしたところが、よろめいて掛布団の上からカーキの身体を踏んでいた。
「あっ!」と、たたらを踏んで改めて足を置いた場所にベッドはもうなかった。逸生はもんどり打って床に落下した。
激しい地響きと共に奇妙な体勢で床に転がっていた。
両手は写真パネルを庇っていたから、腰で全身の重みを受け止めた具合である。
「な……何が? どうなさいました⁉ 大丈夫ですか⁉」
玄関先で女性が叫んでいる。
「え? いーちゃん何……どうしたの?」
カーキの寝ぼけ声までする。
「やっ、全然、だいじょぶ! なっ、何でもない!」
と言うわりには、床に這いつくばって立ち上がるまでかなりの時間がかかった。
腰が痺れてうまく歩けない。それでも必死で写真パネルを抱いて玄関に行った。途中で思いついてティッシュボックスから引き抜いた紙で表面の埃を拭って、
「これを……持って行ってください」
と女性に差し出した。
女性は手を束ねて写真を見ている。訝し気な目をするのは当然である。はっきり言ってこれは盗撮写真なのだ。
「僕が、僕の友達が……無断で撮った写真です。すみません」
女性の目は逸生の背後に向けられている。振り向けば目覚めたカーキが心配そうに立っている。
「いや、彼じゃなく……撮ったのは僕の昔の恋人です。ちょっと試し撮りした写真だけど素晴らしいので……」
ようやく女性は警戒の目を緩めて、写真パネルに手を伸ばした。そして受け取ると、改めて老人と老犬の姿をじっと見つめている。
「勝手に撮った物を飾って鑑賞していました。申し訳ありませんでした」
「これを撮った方は、プロのカメラマンさんですか?」
ようやく顔を上げた女性の瞳は少しばかり潤んでいた。
「いえ。撮った時は服飾デザイン学校の学生でした。今はウェディングドレスのデザイナーをしています。谷津理知という男です。大分前に別れた恋人ですが、最近ふとしたことで再会して……」
言わなくてもいいことを言っている。そう思ったが、訂正することはしなかった。
〝袖触れ合うも他生の縁〟で徘徊する老父とタローのことを話してくれた女性には正直に言うべきだと感じたのだ。
「ウェディングドレス専用のデザイナーさん……今はそういうお仕事があるそうですね。会社の寿退社した子が憧れていましたよ。予算の都合で式場貸し出しのドレスを着たそうですけど」
「ええ、谷津理知もそういうデザイナーです。今度独立して会社を興すそうです」
逸生は微笑みながら、何故か自慢げに語っているのだった。別れてから初めて交際していたことを誇らしく思っていた。
「そんな立派な方に撮っていただいて……」
女性はパネルを胸に抱いている。
「これはあなたが持っているべき写真だと思います。どうか家に飾ってやってください」
女性は逸生の言葉に何度も頷くと、
「父やタローも喜ぶと思います。ありがとうございました」
頭を下げて帰って行った。何か他に言おうとしたようだが、また「ありがとうございます」と深々と頭を下げるばかりだった。
玄関ドアが閉まって鍵をかけていると背中にふわりと抱き着かれた。
「ねえ、一緒にパン食べよう」
いつになく甘やかな声だった。それはつまりクリームパンを頬張りたいという意味である。パンからはみ出したクリームが唇や頬や時には何故かそれより下に付着したのを互いに舐め合うという、毎度エロいお約束なのだが逸生はそれどころではなかった。
抱き着かれたまま動けないのだ。
「待っ……待ってくれ。腰、腰……」
少しでも脚を動かすと、腰から脳天に突き抜けるような痛みが走る。ベッドから落下した打撲のせいでぎっくり腰を発症していた。
そうと知ったのはカーキに背負われるようにして行った救急外来でだった。
翌月曜日から三日間、逸生は会社を休んだ。何しろ動けないのだ。腰からの痛みが少しの動きで全身に響く。なるほど腰こそが身体の根幹だと意識せずにはいられない。
カーキも三日間有給休暇をとると言うのに、
「いや、大丈夫だから。何ならおふくろを呼ぶから」
と遠慮するなり叱りつけられた。
「ダメでしょう! 千帆子さんに心配かけちゃ。いーちゃんの看病は僕がするから!」
と徹夜をする程忙しかった仕事を休んでくれたのだ。
「いつかさ……年取って寝た切りになっても僕が介護するよ。僕はカロカロ犬で、いーちゃんが飼い主だもんね」
「キー坊のが三つも年上だし。寝た切りになるのはそっちが先だ」
逸生がすかさず言い返したのは、涙ぐみそうだったからである。だが、カーキもまた言い返す。
「僕は農作業や山歩きで鍛えてるから大丈夫だもん。座りっぱなしの経理部員のが危ない」
思わず小突こうとしたところが「ひえッ!!」と悲鳴を上げてしまう。
だから何で手を動かしただけで腰に響くのだ!?
ぎっくり腰の完治には二週間ほどかかった。
カーキは三日間の休暇後も逸生の部屋に留まった。何くれとなく世話を焼いては、ヒスイカズラ色のレヴォーグで真柴本城市の職場に通ったのだ。
逸生も師走の繁忙期に三日以上の休暇はとれなかった。ロボットのようにぎくしゃくした動きで会社に行くのをカーキは車で送ってくれた。まずは車で逸生を会社に送り届けて、その後一時間近く運転を続けて真柴本城市まで通ったのだ。
結果、逸生は一時間早く会社に着いたのだが、事情が事情なのでフレックスタイムで働いた。帰りもカーキの車を待ったが残業の場合はタクシーを使わざるを得なかった。
「ごめんね。お金をかけちゃって」
夜遅くに帰って来るとカーキは謝るのだった。
「キー坊が謝ることじゃない」
返す逸生が不機嫌そうなのは別に怒っているわけではない。
そんな夜はフィジカルに謝意を表明したりする。逸生自身は腰に響く激しい運動は出来ない。キスしただけで身体が動くのか腰に疼痛が走り「ひょえっ!」と叫んでしまう。
だから手技を披露するばかりだった。
「やだ、やめてよ。僕ばっかそんな……あン、やン……いい……」
恥ずかしさと悦びとで真っ赤に頬を染めるカーキを堪能するのもまた一興だった。
そしてまた逸生は動けないアフターファイブに不動産屋のサイトを検討しては、マンション購入に気持ちが固まって行くのだった。
弟に勧めるよりも自分こそマンション購入すべきなのだった。さすがに電卓を叩く理由をカーキにローンの試算とは明かせなかったけれど。
ともだちにシェアしよう!

