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第9話 事情と純情(4)
雨こそ降っていなかったが、湿気がひどい火曜日の午前だった。奏汰の髪は癖があるので逆にパーマをかけて落ちつかせていたが、今日はボリュームが出過ぎている気がする。
大学の最寄り駅までは3駅しかないが、区間が長いので空いてる席に座ることにした。通勤ラッシュは過ぎているが、上りの電車はそれなりに混んでいる。人の熱気と蒸し暑さにイライラする。髪のセットも気に入らないし、ふと昨日の光輝のことを思い出して余計にイラついてしまった。
しかし彼が二度と自分の前に現れることはないだろう。と思い直して心を落ち着ける。もう少し大人しい子かと思ったけれど、だいぶ思い込みが激しく直情的な性格のようだ。自分は嫌われたようだし、考えるのはもうやめよう。
奏汰が気を取り直した時、よろよろと松葉杖をついた人が乗り込んできた。怪我をしたのだろうか。あまり松葉杖に慣れていないように見える。優先席は空いているが、人が塞いで行けないようだ。席を譲ろうにも奏汰からは少しだけ遠かった。
(クッソ。近くの奴譲れよ)
しばらくスマホを眺めるふりをしながら見ていたが、松葉杖の人は諦めてその場に立つことにしたらしい。電車が動き出す。僅かに体勢を崩しそうになり、奏汰は思わず立ち上がりそうになった。
(ああ!もう!)
「あの!どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
奏汰は自分が座っていた席にその人を案内する。素直に座ってもらえて安心する。ここで断られたり遠慮されると応酬が面倒なのだ。電車の中に緊張感のようなピリッとした空気が流れたのを肌で感じ、奏汰は密かにため息をついた。
(はぁ、初っ端から疲れる)
いくらでも無視できた。寝たふり、見ないふり、しようと思えばいくらでもできたのにどうしても奏汰はその場が丸く収まる選択しかできないのだ。
火曜の5限は大体ゼミがある。奏汰は教授から気に入られていて、いつも雑用を押し付けられていた。最初は厚意で進んで手伝いをしていたが、いつのまにかゼミの後は何かしらやらされるのが常になっていた。今日もゼミとは関係のないレジュメのホチキス閉じを手伝っていたら19時を回ってしまった。
(あーあ、パッとしない日だったな)
奏汰は生徒や講師たちがほとんど帰宅して空き室だらけの静かな研究棟を一人歩いていた。この棟は研究室の他に図書館があるだけで昼でも比較的静かだ。夜だと自分の足音さえコツコツ響く。不気味だ。早く帰りたい。
(今日は久しぶりに湯船でも張るか…その前に飯はどうしよう。作るの面倒だなあ、でも確か消費期限切れそうな肉が)
「浅見さん」
「う、おおおおおお!!ビビったあああ!」
エレベーターに乗ろうと薄暗い廊下の曲がり角を曲がったら、ぬぼーっと誰かが突っ立っていた。奏汰は悲鳴を上げた。
「こんばんは。浅見さんって心理学科だったんですね」
光輝だった。光輝は平然とした顔で話を続ける。
「なんだよ、お前なんでこんなとこいんだよ、ストーカーかよ!!」
奏汰はバクバクする心臓を押さえながら早口で喋った。
「サークルの人に聞いたらここでゼミやってるって聞いて…終わるの待ってたんです」
対する光輝は少しだけ照れたようににやにやしながら話す。
(え、こわ……)
奏汰は顔を引き攣らせた。怖いので、光輝を無視して歩き出した。エレベーターを待っているのは嫌だったのですぐ隣の階段から降りた。しかし光輝は以前のように雛のように後をてててとついてくる。
「浅見さん。俺、見ちゃった」
光輝は背後から思わせぶりな言葉を吐いた。
「何を?」
奏汰はできるだけそっけなく返事をする。こいつは少しでも優しくするとダメな奴だともう分かっている。
「電車でストーキングしてる時、松葉杖ついてた人に席譲ってる浅見さん、見ちゃいました」
「いやいやいや!!情報量多いこと言うなよ!?」
奏汰は思わず光輝の方を振り返った。
「浅見さんってやっぱり優しい人じゃないですか?」
光輝は「してやったり」とでも言いたげな満面の笑顔で自分を見下ろしていた。
「わざわざそんなこと言いにきたのかよ」
まんまと光輝のペースに乗っかってしまい奏汰はギリギリ奥歯を噛み締めた。
「違います。もっと浅見さんのこと知りたくて。話をしに来ました」
「どゆこと?俺たち昨日、険悪な雰囲気になってなかった?」
「あれから色々考えたんです」
「……」
「やっぱり俺、浅見さんと付き合いたいです!!」
(声でっか!!)
光輝の声は吹き抜けになっている階段で上から下まで響いた。
「だからさあ!!そういうことでかい声で学校で言うなよ!!俺、隠してるんだから。君は隠してないの?」
奏汰はきょろきょろと周りを見渡して人がいないか確認した。
「え、いや、特には…」
「ふーん…。まあ隠してないなら、もっと違う人探せば。意外と学校にもいると思うよ。知らんけど」
「だったら浅見さんがいいです。だってまさかの同じ大学で同じサークルとか運命じゃないですか」
キラキラした声で光輝は言う。昨日はブチギレていたのにどうしたことだろう。記憶喪失にでもなったのだろうか。
「運命じゃないですー。偶然ですー。大体マジでサークル入るの?」
「最初は嫌だったけど、浅見さんいるなら入る」
「えぇー…すっごいやだなあ」
「なんでそんなに冷たいんですか!?」
「だって君、冷たくしないとすぐ絆されるんだもん」
「それはそうかもしれないけど、でも俺もう浅見さんがほんとは優しい人って知ってますから!」
(はぁ、もう勘弁してくれ…)
奏汰は言葉を返すのも面倒になった。
「ああ、そうだ。あの子は。佐伯くん。高校の時の友達なんだっけ?」
「あいつはただの友達だしノンケですよ」
「あ、ああ!ヤッたノンケってあの子?」
「違います!!」
「なんだ、違うのか」
しばらく無言で階段を下りて、やがて外に出た。陽が落ちて気温は下がったように感じるが、蒸し暑さはあまり変わってはいなかった。大学から駅までの人気が少なくなった道を二人でてくてく歩く。
「浅見さん、俺やっぱり浅見さんのこと好きです」
「なんでそうなるんだよ。俺に暴言吐いたくせに」
光輝はうーんと唸ると
「俺、サイコっぽい人のこと好きになりがちなのかも」
と閃いたように言う。
「失礼だな!?俺、サイコパスじゃないからね!?」
「いや、浅見さんが俺にしたことの方が失礼ですからね!?」
まあ、そう言われてしまうとそうなのだ。奏汰としては良い思い出作りを手伝った、に過ぎないが光輝からしたら合意があったとはいえセカンドヴァージンを奪われて期待させるだけさせておいて捨てられたという感覚だ。
「ふーん。そんな失礼な奴と付き合いたいとかちょっとおかしいんじゃない?君、もしかして毒親育ち?虐待とかされて育った?」
「え?普通の家ですけど」
「じゃあ、君もマゾ?」
「え?」
「いや、なんでもない。とにかくさ、俺と君とじゃ合わないと思うよ」
「なんでですか!?理由は?」
「体の相性が悪い」
「それって俺が奏汰さんのこと抱ければいいってことですか?」
「そういうわけでもないんだけど、とにかく無理だよ。君とは付き合えません」
「試しに付き合うとかだめですか?」
「だめです」
「じゃあ、サークルの人にバラすって言ったら?」
「え?君そういうことしちゃう人?」
「するわけないじゃないですか。ただ弱み握ってるアピールです」
「もぉー!!」
「浅見さん、もう~とか言うんですね」
揶揄うようにふふふと笑う光輝を恨みがましく睨みながら、とんでもない事故物件を引いてしまったと奏汰は激しく後悔した。
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