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第47話 付き合ってあげる(7)
まん丸の月が出ていた。奏汰は夜空を見上げながら歩く。夜の九時を回っていたが、涼しさはあまり感じない。湿った風が肌にまとわりつく。まだまだ暑い日が続いていた。今夜も熱帯夜になるだろう。
「あ、おかえりなさい」
奏汰が自宅のドアを開けると光輝が裸足でペタペタと玄関まで出てきてくれた。奏汰が塾のアルバイトに行っている間、留守番をしていたのだ。
合宿から数日後の今日は皆既月食が起こる日だ。一緒に見ようと約束していたのだ。しかし今夜は健やかに月の観察だけで終わるつもりはなかった。合宿から帰ったら『しよう』と言ってくれたことを奏汰は覚えていた。光輝はどうだか分からないが、奏汰は最初からそのつもりで光輝を家に招いた。
出迎えてはくれたものの、光輝は以前のようにドアを開けた瞬間に抱きついてくることはない。距離感は相変わらず微妙に離れたままだ。それはそれで仕方ない、と思ってはいるが今夜は少し距離を詰めたい。
「前みたいに抱きついて欲しいなあ」
奏汰はにっこりと笑いながら両手を広げて待ってみた。
「えっ、うん……」
光輝はやや戸惑った顔をしたのち、ぎゅうと腕を回してきた。
「ただいま」
負けじとぎゅっと抱き返す。今日の光輝は薄い膝下丈のハーフパンツに薄手のシャツを着ている。触れると体温も体の線もよく分かる。思わず手のひらを身体のラインに沿うように滑らす。悪戯心が湧いてしまってそのまま光輝の尻をむんずと鷲掴みにする。
「ふぎゃ!」
光輝は素っ頓狂な声をあげて、奏汰の腕の中で暴れた。
「やめてくださいよ」
光輝は奏汰を押し返す。前はベタベタしてきたのは光輝の方だったが、今や好き好きとくっついてくるのは奏汰の方だ。
光輝はこんなふうに好かれることに慣れていない。盲目的に奏汰を追いかけ回していた時ならこんなスキンシップをされても無邪気に喜んだかもしれない。しかし、今はなんだか調子に乗ると悪いことが起きるような気がして、いまいち乗り切れない。
「もっと触らせてよ」
奏汰は光輝の頭を撫でる。癖のないサラサラした綺麗な黒髪は撫でると肌触りが良い。加えて光輝は頭の形も良い。
「今更遅いんですよ。馬鹿」
棘のある言い方ではあったが、これが照れ隠しなのを奏汰は分かっていた。触れられることは嫌がっていないようだ。むしろ、少し嬉しそうに見える。光輝は自分の気持ちを隠し通すのが下手だ。クールぶってはいるが結構顔に出る。それが、すこぶる可愛い。しかしあまりしつこくすると却って意固地になられそうなので殊勝な態度を見せておくことにする。
「反省してるよ」
本当に反省はしていた。もっと早くこんな気持ちになれれば良かったのに、と。けれどもこんなふうにゆっくり関係を進めていくのは楽しかった。
以前の光輝は関係を進めようと焦っていたし、奏汰も期待に応えなければと思うことが多々あった。今はそれがないから楽だったし、ややそっけない態度の方が却って好感が深まる。初手から強く好かれると、自分に夢を見られると、どうしても理想通りに振る舞わなければと思ってしまう。
「奏汰さん、パウンドケーキ食べる?」
夕食後、光輝は切られた黄色いケーキを二切れお皿に乗せて渡してきた。奏汰に何かを作るのは変わらず好きらしい。遅い夕飯も久しぶりに光輝が作ってくれたものを食べた。鮭とツナマヨのおにぎりと野菜がゴロゴロ入った豚汁だった。
「君が作ったの?」
一口食べると手作り特有の素朴な甘みとバターの香りが口に広がる。チョコチップも入っている。甘いものにあまり興味のない光輝が奏汰に喜んでもらいたくて作ったのは明白だった。美味しいよ、と言うと照れたように目を逸らした。
「ここにオーブンあったら出来たて食べてもらえるのにな」
光輝はそっぽを見ながら独り言のように呟く。
「一緒に暮らしたらオーブンとかハンドミキサーとか買ってみたいな。いくらくらいするんだろう」
ぼんやりと妄想を語っているらしい。夢見がちなところも相変わらずだと奏汰は安心する。その夢の中に自分がいるらしいことも。一緒に暮らそうなんて話し合ったことはないが、光輝のビジョンでは何かそういう未来があるのだろう。そういえば普通に好きな人と暮らすのが夢だとかなんとか言っていたような気がする。
「あ」
はっとした顔をして光輝は奏汰を見た。夢から醒めたらしい。
「なんでもないです」
と言って顔を赤くした。
「なんでもないことないよ」
奏汰が間髪いれずに答える。
「買おうよ。楽しみにしてる」
「…………」
光輝は何も答えなかったが、恥ずかしそうに俯いていた。
一緒に片づけをしてシャワーで汗を流したのち、奏汰はいつものようにローテーブルとベッドの隙間に挟まって、カメラをいじり出した。合宿の時くらいしか使わないのだが、今日は皆既月食を撮影するつもりで取り出してきた。バッテリーは大丈夫か、メモリは足りているかなどを確認する。
「皆既月食っていつから始まるんですか?」
ベッドの上に座っている光輝が尋ねてきた。光輝の投げ出された素足が床に座る奏汰の横でぶらぶら揺れる。
「うーん、一時半くらいからかなあ」
まだ日付も変わっていない。
「まだ、全然時間ありますね……」
「エッチなことでもしてる?」
奏汰は投げ出された光輝の脚に自分の腕を蛇のように巻きつけた。
「うわっ」
驚いた光輝は足をベッドの上に引っ込めた。
「前さ、合宿から帰ったらしようって言ってたよね」
奏汰はそのままベッドに上がるとやんわりと光輝を押し倒した。抵抗はされない。ああ良かったと安堵と同時に気持ちが昂ってくる。上に乗ったまま光輝の体を抱きしめる。光輝の心臓の鼓動が服ごしに奏汰の肌に伝わってきた。
奏汰は唇がすぐにでも触れそうになる距離で光輝を見た。光輝が困ったような目で見ている。けれどその瞳に熱がこもっているのが分かる。小刻み息遣いが聞こえる。触れ合っている肌が熱い。
体を合わせなくなって二ヵ月くらい経っていた。光輝への恋心を自覚してからずっと彼とセックスがしてみたかった。好き合っている人とのセックスがどういうものか奏汰はちゃんと知らない。ずっとカイに惚れていて、それ以外は妥協で付き合っていた人しかいない。
今なら普通のセックスができる気がする。普通の、変なこと言ってもらったりしなくても、光輝に無理をさせなくても、きっと好きな人とのセックスは──、
「待って」
「ぶっ」
キスをしようと唇を近づけた刹那、光輝は急に手のひらで顔を押し返してきた。おかげで変な声が出た。
「俺が奏汰さんにしたい」
「え、」
それは予想外だった。奏汰は光輝の事を抱く気まんまんだったのだ。自分はもう抱かれなくてもいい。光輝相手だったらそれでもいい。と思っていた。
それは別に自分が我慢をしようとか自己犠牲の気持ちではなかった。光輝が望むことをしてあげたい。喜ぶことをしてあげたい。そして、それだけでもういいと思った。光輝がそう望んでいるからではなく、自分がそうしたいと初めて思った。
「もう、いいんだよ。俺は」
やや気が逸れてしまって奏汰はベッドの縁に座り直した。
「なんで?俺だとイケないから?」
直接的な物言いと過去の苦い思い出がぐさりと心を刺す。
ふいに光輝が後ろから奏汰に腕を回してきた。背中に重みとぬくもりを感じる。うなじにかかる光輝の前髪がくすぐったいが、じっとした。光輝の方から抱きついてくれたのでしばらくこのままでいたい。
光輝は奏汰の首元で顔をこすりつけたり頭を預けたりして猫のように過ごしていた。
「奏汰さんっていつもいい匂いがする」
光輝がすんっと匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす音が聞こえた。今日の奏汰は甘いフルーツのような香りがした。
「香水じゃない?」
「香水だけじゃない気がする」
光輝は唇を奏汰の首に押し付けた。奏汰の顔は見えないが息を飲むような音が聞こえた。
「おいしそうな匂いがする」
そう言うと光輝は奏汰の首筋をぺろっと舐めた。
「ひゃっ」
奏汰は肩をびくりと震わせた。過剰に反応する奏汰に光輝は笑う。もう、と言いながら奏汰は首の後ろを押さえた。心臓がどきどきしていた。
「どうして俺なの」
光輝は再び奏汰に後ろから抱き着くとおんぶをしてもらった子供のように肩口に顔を乗せた。体格のいい奏汰に身を預けるのは気持ちがよかった。
「あんなにうざがってたじゃん。俺って人に好かれる要素ないし…。セフレの人と切れてキープしたいのかと思った。今でもちょっと思ってる」
光輝が淡々と話す。そういえばどこが好き、とかそういう話をしたことがなかった気がする。しかし好かれる要素がない、なんて…。そんなことは決してないのに、なぜそんなことを言うのだろうと悲しくなった。
「俺は君が可愛いよ。君の純粋すぎるとことか、ヒートアップするとちょっとおかしくなるところとか面白くて好きだよ」
「馬鹿にしてます?」
光輝が怒って奏汰の首に回した腕に力をこめた。それがおかしくて奏汰は声を出して笑った。
「君は俺が熱出した時とか体調悪い時もうざがらないでくれたじゃない。あと、俺の変な性癖とかもさ。一生懸命合わせようとしてくれたじゃん。そういうの嬉しかったんだと思う」
ひとしきり笑った後、奏汰は静かに言った。
「そんなの別に普通じゃないですか?」
謙遜ではなく本心だった。光輝は父親の闘病生活やそれを支える母を間近で見ていて、誰かを世話することに抵抗があまりない。しかしそれは優しさとは違うものだった。やらなきゃいけないから当然やるという行動理念だった。
「俺が吐いたりした時も嫌がらないで助けてくれたじゃん。なかなかできないと思うよ」
「そんなこと、」
『ない』と言おうとした光輝の言葉を奏汰は遮る。
「あるよ。おばあちゃんはそうだった」
奏汰の口からたびたび出るおばあちゃんだったが、今回はやたら強い語気で言い放った。思わず光輝は言葉を飲む。いつもおっとりとした話し方をする奏汰には珍しく、恨んでいるような憎んでいるようなそんな感情が滲み出ていた。
「俺が具合悪くて吐いた時悲鳴あげてたよ。あと精通した時も」
奏汰はオチをつけたようにおかしそうに言い放った。なんでもないことにしてしまいたかった。あんなこと、なんでもないどうでもいい出来事だったと。ここで昇華してしまいたかった。
「…………奏汰さんはそれが悲しかったんだね」
光輝はしばらく奏汰の顔を見つめたあとにぽつりと言った。一緒になって笑うことなどできなかった。奏汰は可笑しそうに言った割にはひどく悲痛な怯えたような顔をしていた。笑っているけど笑っていない。それが苦い思い出ではないと、誤魔化し切れていなかった。
「うん……」
と言ってから奏汰はまるで今さら重大なことに気づいたかのように呆然と言った。
「うん、ずっと悲しかった」
奏汰の目からぽろっと涙が溢れた。びっくりして思わず頬に触れた。泣いている、と気づいたらもっと涙がぽろぽろ顔の上を転がっていった。鼻の奥がツンとして痛む。
確かに苦々しい記憶ではあったが、そこまで自分が気にしていたとは思ってもみなかった。けれどあの時も今までも自分は傷ついていた。傷つき続けていたのだ。傷ついていたのに怒れなかった。
傷ついたら痛い。痛かったら助けて欲しい。
それを分かって欲しかった。
「よしよし」
光輝は奏汰の髪を優しく撫でるとそっと眼鏡を外してベッドサイドに置いた。奏汰は涙を拭うように光輝の肩口に顔を埋める。
光輝は奏汰の頭を抱えるように抱きしめた。ふわふわとした奏汰の柔らかい髪が顔に当たる。光輝は何か、か弱い小動物を抱えているような気持ちになる。
弱々しい奏汰を見る度に燻る庇護欲と嗜虐心が息を吹きかけた炭火のように燃える。
彼は今、自分を支えにしていて、自分の中にかくまわれている。自分に依存していく重みを光輝は心地よく感じた。
これをずっと自分の中で飼い慣らしていたい。外ではいつでも落ち着き払ってにこにこしているくせに、自分の前では簡単に涙を見せる弱々しい奏汰を閉じ込めておきたい。こんな気持ちを愛と呼んでいいのか光輝には分からなかったが、こんな愛おしいと思う気持ちは初めてだった。
「ねぇ、この奏汰さんを俺にちょうだい」
「へっ……?」
奏汰は驚いたように顔を上げた。奏汰の目が赤くなってしまっている。それを可愛いと思ってしまう。
「これ、まだもらってない奏汰さんだから」
下瞼にくっついていた涙の雫をそっと唇で吸い取った。
「全部、俺のものになって」
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