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58.胸の鼓動

 シャワーを浴びて、体を拭きながら、お風呂の掃除をしなくていい、ということにはまだ慣れなくて、違和感。  掃除は、いない間に人が入ってやってくれる。  富裕層専門の、身元のしっかりした超プロフェッショナルな人達らしい。シャワーしか使わないなら、水で流しとけば、来るときに超綺麗にしてくれる。ていうか、知らない人が自分の家に入ってお掃除……というのが、不思議すぎて。なんかすごい世界。予定が変わって家に来てほしくない時は、ネットからすぐ日時も変更できる。  牛乳を火にかけて、瑛士さんを待つ。  いつもなら触るスマホを触らず、ぼーー、とただゆっくり混ぜる。  ――契約、なんですよね?  ――そうだよ  さっきの竜と瑛士さんの会話。  竜、あれが試し?? 意味分かんないな。契約なんですよねって、当たり前じゃんね。明日、意味、聞こう……。  おにぎりは明後日、作っていこうっと……。牛乳をマグカップに注ぐ。  なんか――まだ頭、少し、くらくらするかも。  お水を飲んで、ふー、と息をつく。ちょっと外で、頭冷やそうかな。    熱々のホットミルクをカウンターに置いたまま、ベランダに出た。  涼しい――というか、やっぱり風は寒い。昨日よりも、真っ暗だから、夜空が綺麗だ。手すりによりかかって、下を見ると、なんか、眼下に広がる下界――みたいな。ふふ。変なこと考えてしまった。 「――」  瑛士さんは、ずーっと……こういうところから下を見て生きてきた人なんだろうな。  当たり前すぎて、考えもしないのかな……?  オレが、今までとは視界が違うから、そう思うだけなんだろうか。  本当なら、絡むことも無かった人だもんなー。 「凛太」  静かな声に振り返ると、窓のところに、瑛士さんが立っていた。 「湯冷めするよ。中入って」 「瑛士さん、ここから下見るの、好きですか?」 「――ん?」  瑛士さんは、くす、と笑うと、スリッパを履いて、オレの隣に歩いてきてくれた。 「冷えてない?」  瑛士さんの手が肩に触れて――そのまま、引き寄せられる。瑛士さんにくっついた部分が、暖かい。 「ここから下を見る?」  瑛士さんは下を覗き込んでから、ふとオレを見つめる。オレが頷くと、瑛士さんは少し首を傾げた。 「とっちかというと、下を見るより――」  肩をぐ、と掴まれて「上見てごらん」と言われて、自然と一緒に上を見上げる。 「街灯とかの影響が少ない分、星が綺麗だからさ」  確かに――。空が広くて、暗くて。星が綺麗に見える気がする。 「月も綺麗だよね」  瑛士さんは、空を見上げたまま、ふっと微笑んだ。  青白い光が、その顔を照らしている。  とく。  ――今まで、オレの胸の鼓動は、いつも一定で。緊張する時に速くなったりは経験があるのだけど。  今、オレは別に緊張してないし。緊張してなくて、すごく穏やかで優しい気持ちなのだけれど。なんだか。  とくとく、と胸が動いてる。  じんわり、なんだか――心の奥の奥の方が、あったかくなる、みたいな。  月の光に照らされて――なんだか、不思議な気持ち。 「入ろ、凛太。風邪ひいちゃうよ」  肩をひかれて、部屋の中に戻った。  オレはすぐ、ホットミルクの仕上げ。スプーンではちみつを入れて、かき混ぜていると、瑛士さんが隣に並んだ。  契約が、終るまでまだ三年。ていうか始まったばっかりだし。  ――だからまだまだ、瑛士さんとは居られる。  別に、寂しく想う必要なんて、少しもない。  ――母さんとずっと二人で、母さんが亡くなってから、一人で。  こんな風に、おはようやおやすみを言う人が、居なかったから。ごはんも、一人だったし。  だから、嬉しいのかもしれない。 「はい、瑛士さん」  マグカップを渡すと「ありがと」と微笑んでくれる。 「クッション、座る?」  優しい表情でクスッと笑う瑛士さんに、はい、と笑顔で頷く。 「あれに埋まってる凛太、可愛いよね」 「……瑛士さんも可愛いですよ?」 「――は?」  先を歩いていた瑛士さんは、オレを振り返って首を傾げつつ、「オレは可愛くないでしょ」と笑う。 「可愛いですけど……」 「意味が分からないけど」  ふ、と苦笑いを浮かべながら、二人でクッションに埋まる。  ふーふー冷ましながら、あったかいホットミルクを啜る。 「瑛士さん、今夜何食べたんですか?」 「今日は会食だった」 「また綺麗なもの食べました?」 「まあ……そうかも? ……凛太が綺麗って喜んでないと、あんまり目に入ってこないかも」  クスクス笑いながら、瑛士さんが笑う。「綺麗な食べ物に慣れちゃってるんですねぇ」と苦笑してから。 「オレ、今日、ご飯研究にいってきたんですよ」 「ご飯研究?」 「料理がおいしいって絶賛されてる居酒屋があったので、今度家でも作れるたらいいなーと思って」 「ふーん。……それって、オレに食べさせようとか? ……ってんなこと無いか」  はは、と笑う瑛士さん。 「え、そうですよ?」 「――」 「一人で食べるもの、研究したりしないですよ。瑛士さんがおいしそうに食べてくれそうだから、行ったんですけど……おつまみとしてはすごくおいしかったんですけど、普段食べるなら、味は薄目にしようかなとか……?」  そっと、頬に触れられる。 「……ほんと、可愛いよね、凛太。なんだろう、この、可愛い感じ」  人に可愛いって言って、なんか悩んだ顔するのは、なんだかちょっとやめてほしいんですが……?   んん……? と、オレも首を傾げてしまう。  

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