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89.楽しいな

 雅彦さんが言ってくれる、おかえり、なんて言葉も、すごく嬉しい。  「幸せ」とかもそうだけど。何気ない、ただいまとかおかえりに感じる気持ちも。  ―――母さんが亡くなってから、全部離れて生きてきてたこと、なんか……いちいち実感する。 「二人で着替えてきたのか?」 「うん。おそろい着たくなっちゃって、凛太にも着てもらった」  そのセリフを聞きながら、雅彦さんがオレに視線を流して「似合うね」と微笑む。  ありがとうございますと返しながらも、ちょっと気恥ずかしい。 「瑛士も似合ってるな? 珍しい服装だけど――絵柄のTシャツ着てるのなんて子供の時以来じゃないか?」 「そう言われたらそうかも。でも、凛太とお揃いで、気に入ってるから」  クスクス笑う雅彦さんに瑛士さんが答えて、「ね?」とオレに微笑んでくる。はい、と頷く。 「凛太、水槽、近くで見る?」 「あ、はい」  オレが瑛士さんに頷いたところで、雅彦さんが椅子から立ち上がった。 「――オレは、そろそろ仕事に戻るよ」 「え? 帰りは?」  驚いたように言う瑛士さんに、雅彦さんは微笑んだ。 「迎えに来てもらっているから大丈夫――ふたりは、ゆっくり遊んでから帰るといい」 「急な仕事?」 「いや、もともと、ある程度満喫したら、戻ろうと思ってたんだよ」  オレが、なんだか寂しく思いながら瑛士さんと雅彦さんのやり取りを見つめていると、雅彦さんがオレを見て、ふんわりと優しく笑った。 「ごめんね、先に帰るけど。楽しんで」 「いえ。寂しいですけど……忙しいのにありがとうございました。雅彦さんと一緒に来られて、楽しかったです」 「うん。楽しかったね――ほんと、来て良かったよ」  そう言いながら、雅彦さんは瑛士さんに視線を向けて、なんだか意味ありげに笑う。「何?」と首を傾げた瑛士さんに、いや、と雅彦さんが首を振った。もう一度、何だよ? と聞きながらも、ふと気付いた瑛士さんがオレを見る。 「じいちゃん帰るなら、今渡しとこ、凛太」  瑛士さんに言われて、リュックからお菓子と置物の入った袋を取り出した。 「じいちゃんにお礼。お菓子の方は、凛太が買ったの。可愛いから味わって食べてよ――ペンギン、凛太に似てるから」 「ああ、そうなんだ」 「もうひとつも、凛太が見つけたからさ。好きなとこに飾っといて?」  瑛士さんの説明を聞きながら、オレが手渡したものを受け取ると雅彦さんが、ありがとうと言って微笑んだ。オレは雅彦さんを見上げて少し首を振った。 「オレの方こそ。ありがとうございました」 「あ、お菓子ね、凛太が自分で働いたお金で買ったものだから。じいちゃんにはそれで買いたい、とかさ。可愛いでしょ」  ふふ、と笑いながら追加情報を足してる瑛士さんを見上げつつ、雅彦さんはどう思うんだろうと一瞬気になって、雅彦さんに視線を戻すと――――なんだかとても優しく、ふ、と微笑んだところだった。 「そうなんだね。それは嬉しいな。ありがとう――お父さんとのことは何となくは理解してるから。顔合わせの時は、瑛士と一緒にうまく対応するからね」  そんな風に言ってくれて。  また少し、言葉に詰まる。  とにかくお礼を言おうと思って、ありがとうございます、と言うと、背中をぽんぽんと軽く叩かれた。  ――――なんか。この二人は。  多分、本来ならオレなんかと、話すことすらないような立場のところに居る人達だと思うし。  一緒にいること自体が、不思議なんだけど……。  オレのそんな事情、ほんとなら全然関係ないはずだし。  ……オレがバイトで稼いだお金、なんて、ほんとのちっぽけなお金で。この人達にとったら、そんなの、取るにならないものすごいちっちゃいこと、って思われたって、そうだろうなーて思うくらいなのに……。  どうしてこんなに優しくしてくれるのか。不思議。  瑛士さんと雅彦さんが、オレには関係無さそうなことを話しているので、なんとなく水槽を眺めながら、ぼんやりと考えていると、「それじゃあね」と雅彦さんが言った。  雅彦さんが「帰るよ。ここでいいから」とにっこり笑った。 「――瑛士」  雅彦さんは、ふと、瑛士さんを手招きした。ん? と近づいた瑛士さんに、こそ、と何かを話してる。 「そんなこと思ってないって」  笑いながら言った瑛士さんに、雅彦さんがもう少し、続けて何かを言った。  聞いていた瑛士さんは、少しの沈黙の後。  雅彦さんを見つめて、ふ、と微笑して―― 少しだけ頷いた。  「凛太くん」 「はい?」  ちょいちょい、とオレも手招きされる。 「瑛士、これで結構甘えん坊だから大変だと思うけど。よろしく」 「えっ。そんなことは」 「よろしくね」  オレの否定しようとした言葉を柔らかく遮ってクスクス笑う雅彦さんに、オレは少しだけ間を置いてから。 「……はい」  頷くと、雅彦さんは楽しそうにもう一度笑って見せて、それから瑛士さんにも視線を向けてから。  じゃあね、と言って、出口に向かって歩いて行った。  一度振り返って手を振ってくれたので、瑛士さんとオレも振り返す。 「……帰っちゃいましたね」 「寂しい?」 「……まあ。寂しいですけど」  そう言いながら、ふ、と瑛士さんを見上げる。 「――でも瑛士さんが居てくれるので」  瑛士さんが居てくれたら、楽しい。  そう思いながら言うと、瑛士さんは、ふ、と微笑んだ。 「オレも凛太と居ると楽しいから――水槽の近くに行こ?」 「あ、はい」  肩に触れた手に促されて、そのまま歩き出す。  なんだか、歩く足が、心なしか弾んでるみたいな。 「つかオレ、甘えん坊とかじゃないし」  ちょっと嫌そうに言ってる瑛士さんに、あは、と笑ってしまう。  ――――うん。    瑛士さんと居ると。  一人で生きてるとか――――そういうの、全然思わない。  楽しいな。  

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