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4 炎の刻印(4)

 涼景は全力で犀星の体を後ろから羽交い締めにし、地面に押し倒した。だが、その時すでに、犀星は涼景の腰から、一振りの太刀を抜き取っていた。 「まさかっ……うっ!」  恐ろしい力で涼景を振り払うと、体格でも力でも勝るはずの涼景を突き飛ばし、犀星は小屋の中に飛び込んだ。 「星っ……」  油断していたつもりはないが、涼景は犀星の力の前に、したたか、地に身体を叩きつけられ、一瞬、意識が遠のく。  玲陽を犯していた男の一人を、犀星は無言のまま、袈裟斬りにする。声一つあげなかったが、血走った犀星の眼は、明らかに我を忘れて狂気に満ち満ちている。  突然の出来事に驚いて、残った男たちが逃げ出そうとするのを、犀星が許すはずもない。  続け様に背後から、一人を串刺にすると、その背を蹴り飛ばして太刀を引き抜き、素早く最後の男の首を落とそうと振りかぶった。 「やめてぇっ!」  玲陽の掠れた叫び声が、かろうじて、最後の一人、玲博の命を救った。犀星が太刀を振り上げたまま、一瞬、動きを止める。  体勢を立て直した涼景が、犀星の手から太刀を叩き落とし、乱暴に腹を蹴り上げて弱らせると、その身体を床にねじ伏せた。 「陽! 来い!」  ままならない体を引きずって、玲陽は涼景のそばに這っていった。涼景は玲陽の手を縛っていた紐を解くと、代わりに動けずにいる犀星の手首を背中で縛り上げる。  犀星は、自分が殺した男たちの血の中に倒れ込んだまま、呆然と空を見つめていた。彼にも、何が起きたのか、理解できていないかのように。 「陽、肩を戻してやる」  逞しい胸に玲陽を抱き寄せ、涼景は今にも折れそうな肩の関節を探り、力を込めた。痛みが走ったはずだが、それ以上の苦痛にさいなまれ続けていた玲陽は、声すら上げない。  玲博は、あまりの恐怖のために、部屋の隅で失禁の憂き目を見ていた。  玲陽はともかく、突然現れた犀星と涼景の二人に、自分が何もできないことは明白だった。いや、何かできることがあるとすれば、意味をなさない言い訳くらいか…… 「玲格の二男、玲博だな」  涼景の厳しい声に、玲博は震えながら頷いた。 「な、何者だ……」 「おまえを殺しても、罪にはならない男だ」  涼景の言葉は脅しではない。  過去に遡っての事情は何にせよ、玲陽に対する玲格の仕打ちは、明らかに大罪だ。  劣悪な環境への幽閉と、繰り返される暴行は、許されるものではない。  涼景の判断だけで、この場で玲博を切り捨てても、彼が責められることはない。それだけの権限を、涼景は帝から授けられている。 「陽、お前が決めろ」  涼景は、犀星同様、床に崩れ落ちている玲陽に言った。 「こいつを生かすも殺すも、お前の意志に任せる。責任は俺が取る」  玲陽は乱れた長い髪の間から、金色の瞳で玲博を見つめた。  兄弟の中でも、彼の残忍さは抜きん出ていた。自分の体が命を保てないほどに痛めつけられ、何度も死を望んだのは、玲博の仕打ちによるところが大きい。  玲陽は涼景の手を借りて、どうにか立ち上がると、犀星が抜いた刀の鞘の腰紐をほどき、両手に掴んだ。  鞘で殴るつもりか、と涼景は思ったが、玲陽はあっさりと彼に背を向けた。鞘を杖にして体を支えると、ゆっくり小屋を出ていく。 「水を浴びてきます。こんなに汚れていては、兄様を抱きしめることもできない」  震える声で寂しそうに笑うと、玲陽はよろめきながら、小屋を後にした。玲陽が歩いた後には、白と赤の雫が点々と残された。  陽……  涼景は、首を振った。 「どうやら、命拾いしたようだな」  涼景は男たち二人の死骸を一瞥し、玲博に向き直った。 「玲格に伝えろ。玲芳とその娘に何かあれば、ただでは済まない、と。陽が味わった以上の地獄を見せてやる」 「そ、そんなこと、で、できるものか……父上に楯突くことなんか……」  精一杯の意地なのか、愚かな強がりは哀れでさえあった。  と、 「できる」  今まで魂が抜けたようになっていた犀星が声を発した。  後ろ手に縛られたまま、立ち上がると、玲博の前に進み出る。 「俺を覚えているか?」 「…………」  玲博は目を瞬いたが、隅の灯籠の光だけでは判別できないらしい。 「暗いか? 涼景、灯りをつけろ」  犀星の言葉に、涼景は黙ったまま、男たちが持ち込んでいた油を部屋中に撒き散らし、灯籠の灯心をそこに放り込む。途端に火は燃え広がり、熱気のためにぶわりと風が上昇する。  炎の中に悠然と立つ犀星の顔が照らされると、玲博は声にならない悲鳴をあげた。  紺碧の髪と、深い色の瞳。額の炎の刻印。 「……さ……犀家の……」 「焼け死にたくなければ行け。陽が助けた命だ。俺は手出しはしない。……今だけは」  つまづきながら、玲博が小屋を飛び出していく。  炎が屋根にまで達し、一部の梁が崩れ落ちてくる。  その中に立ったまま、犀星は恐れるそぶりも見せず、玲博を見送った。 「星、俺たちも行こう」 「その前に……」  星は振り向きざまに、涼景のみぞおちに強烈な膝の一撃を入れると、後退ったその脇腹に、容赦のない回し蹴りを叩き込む。 「悪かった……」  涼景は顔を歪めて、体を立て直すと、犀星の腕を解いた。と、同時に顔面に拳が飛んでくる。  涼景も予測していたのか、間一髪、その一撃だけは避けた。 「何をしているのです!」  外から、襦袢を羽織った玲陽が、驚いた目でこちらを見ている。 「危ない! 早く、外へ!」  犀星はフッと忌々しそうに荒い息を吐き捨てると、小屋を出て、真っ直ぐに玲陽を抱きしめた。  苦笑いと共に涼景が避難した直後、激しい音と熱風が三人を襲う。  犀星は玲陽の顔を胸に押し付けて抱いたまま、それを背中で受けた。  その背中を、涼景がさらに体で庇う。  崩れ、燃え続ける小屋を、玲陽はじっと見つめた。  その目には、赤々とした炎が写り込み、揺らめいたが、なぜかそれすら、小さな灯火であるかのように静かに思われた。 「博兄上は?」  小さく、玲陽は尋ねた。 「逃した」  強く玲陽を抱きしめたまま、短く、犀星が答える。 「どうして、火など?」  再び、玲陽は尋ねた。犀星は玲陽の首から腕を解くと、額を重ねた。炎の紋様が触れ合って、その一点だけ、熱を増すようだ。そのまま、穏やかに答える。 「ただの焚き火だ。水から上がったお前が、凍えないように、な」  中では、二つの死体が燃えている。そんな焚き火があってたまるか。  涼景は、今度は本気のため息をついた。改めて、犀星と玲陽の再会の意味を、考えずにはいられなかった。  自分もまた、賭けてみるしかない。  この、あまりに危うい二人の関係が、どんな未来を招くのか。明るい日は、まだ遥か遠くに思われた。

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