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5 痛みの奥に(1)

 抜け道の通路を這い出るだけで、玲陽は力尽きた。  犀星は玲陽を自分の鞍の前に座らせ、片腕で抱き寄せた。玲陽は直前に負った傷や、責め苦による疲労で、今にも気を失いそうになりながら、暖かな犀星の胸にもたれかかり、浅く不規則な呼吸をしている。  犀星が先頭を、涼景が追手を警戒して後ろを走る。  玲家領を脱するため、平地を一気に駆け抜け、犀家との境界の川を渡ったところで、二人はようやく手綱を緩めた。ここまでくれば、玲家も容易に手出しはできない。 「陽、頑張ったな」  犀星は励ますように、玲陽の額に口づける。肩で息をしながら、玲陽はわずかに笑って見せた。振り落とされまいと、犀星の着物の襟を握っていた玲陽の指は、血の気も失せてしびれている。 「あとは、俺が支えるから」  犀星は、涼景が聞いたこともないような甘い声で言った。  夜道でよかった、と涼景は心底思った。  まさか、白昼堂々、領民たちにふたりのこんな姿を見せるわけにはいかない。 「今頃、玲家は大騒ぎだろうな」  涼景は、少しでもふたりを励ますように、明るく言った。 「どこかの誰かが、ご丁寧に火をつけたからな」  と、犀星が応じる。涼景はにやりとしながら、 「さしずめ、初心な親王の、恋の炎ってやつだろ」 「それならば、しかたあるまい」  自分で言って、犀星は少し照れ臭そうに唇を歪めた。 「だいたい……」  照れ隠しなのか、犀星の声が若干上ずっている。 「俺はただ、明かりをつけろ、と言っただけだ。火を放てとは言っていない」 「なぁに、大した違いじゃない。明るくなっただろ?」  玲陽は、全身を苛む痛みと、焼けただれたようにひりつく呼吸に耐えながら、それでも二人の会話を聞き逃すまいと、意識を保っていた。  頭上で交わされる、他愛のない会話が嬉しかった。  犀星の声は、耳を当てている肩から、直接響いてくる。心音も混じって聞こえるその声は、玲陽の心をどこまでも柔らかく包み込む真綿のようだ。  どんなに辛くても、幸せだった。  こんな夢を、何度も見た。  犀星が自分を、地獄から引き上げてくれる夢。  目覚めるたびに、孤独と寂しさで気が狂いそうだった。衝動を抑えきれず、自らを傷つけたこともあった。  夢じゃ、ない。  玲陽は犀星の首元に顔を擦り寄せた。応じるように力を込める犀星の強い腕に、優しく抱き寄せられる。前髪を啄むように口づけが降る。  ああ、夢じゃない!  不思議と、涙は出なかった。犀星に会えば、自分はなりふり構わず号泣するものだと思っていたのに、実際には信じられないほど、穏やかだ。まるで、昨日まで、一緒にいたような錯覚すら覚える。離れていたなんて、きっと、嘘だ。  もっと、見つめたい。もっと、触れたい。もっと、話したい。  そう願っても、今の玲陽には力が残されていない。自分がどれほど傷つき、ずたずたになっているか、玲陽は本能で感じとっている。生きていることが不思議だった。  死にたくない。  そう思ったとき、玲陽は同時に、自分が生きる喜びを取り戻したことを、強烈に思い知った。 「星……」  たまらず、玲陽は名を呼んだ。 「ここにいる」  まるで玲陽の心をすべて見透かしているように、犀星はささやき返した。 「はい……」  玲陽は痛みを忘れ、犀星の温もりだけに心を傾けた。  月が天頂に至る前に、犀星は、満身創痍の玲陽を、犀家の屋敷に連れ帰った。  ことの次第を把握していた犀遠が、屋敷の手筈を整えてくれている。  犀家の警備兵が、犀星たちを門の外まで迎えに出ており、彼らは一足先に安全を確保した。  犀星はとるものもとりあえず、玲陽を暖かく柔らかい牀に寝かせた。  季節は秋。歌仙では暖を取る時期ではなかったが、玲陽の体調を考え、熏炉(くんろ)に火を入れて部屋は暖かく保たれた。玲陽の痛みを少しでも鎮めるため、薫香薬が焚かれ、部屋の中の空気はとろりとした粘性を帯びる。  犀星は玲陽に痛み止めと誘眠効果のある薬を飲ませ、湯を含ませた布で、丁寧に体を拭き清める。玲陽はうっとりとした様子で、全てを犀星に任せていた。  少し遅れて、涼景が薬や治療用の道具、湯を沸かすための炉を、部屋に運び入れた。彼は玲陽を介抱する犀星を見ながら、時間をかけて調合を始めた。  涼景が何をしていても、玲陽は不安を感じることはなかった。その薬の量や、種類、見なれない器具は、自分の体に使われるのだろうと思ったが、すべてを任せて、自分は受け入れるだけだ。  目の前に犀星がいるのだ。何を恐れる必要があろうか。  玲陽はふと、天井を見上げて、懐かしさを覚えた。  玲陽にとって、ここは我が家である。そばには、あの頃と同じように、犀星がぴたりと寄り添ってくれる。新たに親交を結んだ涼景も、犀星を支えながら、自分に心を砕いてくれる。また、姿は見えなくても、近くには、信頼する犀遠の気配。家人たちが静かに話しながら行き交う足音もある。  帰ってきた。  玲陽の胸が熱く火照り、鼓動が怖いほどはっきりと感じられた。  生きていたい。  この鼓動を、止めてなるものか! 「星……」  玲陽は痛みが落ち着くにつれ、眠気を発し、ぼんやりとした声で、犀星を呼んだ。  息がかかるほどに顔を寄せ、犀星は玲陽の金色の髪を撫でつけた。  玲陽は何か眩しいものでも見るように、犀星の顔を目を細めて見つめている。痩せ、やつれ、疲れ果てているとはいえ、玲陽の瞳は強い意志を宿して輝いている。対する犀星は、その生来の魅力はこれほどであったか、と思わせる透き通る笑みを浮かべ、まさに一目で誰もが心惹かれずにはいられない美しさだ。  目の保養なのか、毒なのかわからんな。  涼景は次の処置の支度をしながら、二人を見守った。 「……星……」  玲陽の唇が何かを囁くように動いた。それを読み取って、犀星は優しくうなずくと、頬を撫でた。心地よさそうに、玲陽は目を閉じ、そのまま、深い眠りに沈み込んでいった。  玲陽の意識が失せるにつれ、犀星の表情は、いつもの、落ち着いた感情のうすいものへと戻っていく。 「星、おまえも少し眠るか?」  涼景は、静かに犀星に話しかけた。  犀星は数秒、思案しているようだった。 「涼景、おまえは、どうする?」  聞かれたくなかった、という顔で、涼景は仕方なく答えた。 「陽の治療をする。早いに越したことはないのでな」 「それなら、俺も手伝う」 「そう言うと思ったよ」  涼景はため息をついた。 「気持ちはわかるが、おまえは長いこと眠っていない。いくらなんでも、そろそろ限界だ」 「お前に殴られて、さっき、眠った」  犀星はチラリと涼景を睨んだ。 「なんだよ、まだ根に持っているのか?」 「何度も殴られた」 「おまえだってやり返しただろうが」  涼景はさらりと犀星の視線をかわした。 「もしお前が本当に手伝うというなら、覚悟が必要だぞ」  涼景は真剣な顔つきで、あらためて犀星を見る。 「陽のためなら」  犀星は静かに頷いた。  玲陽が絡むと、犀星が落ち着きを失うことを、涼景は案じていた。だが、いつまでも避けては通れない。犀星にとっては荒療治になるかもしれないが、いい機会だろう。 「待ってろ」  涼景は丁寧に粉薬を湯に溶いたり、用意した布や棒、紐を組み合わせて道具の調整している。  眠ったままの玲陽の髪を撫でながら、犀星はそっと、涼景の手元を盗み見た。  涼景が言った『覚悟』の意味を、犀星も察している。  激昂していたとはいえ、あの小屋の中で見た光景を、犀星が忘れるはずがなかった。  玲陽の身体が、どれほど破壊されているのか。その凄まじさに、現実に起きたこととは思われない。  玲陽の容体は、どこをとっても酷いものだった。  身体中の外傷は、深いものはほぼ治癒していたが、栄養状態が悪かったせいか、傷跡がはっきりと残っている。皮膚の変色だけではなく、ミミズ腫れのように盛り上がったままの傷もある。背中側、心臓の裏側には、白く傷跡の浮く焼印の痕跡までが残されていた。今夜新たに付けられた圧迫痕が、すでに紫色に染まって、身体中に点在していた。白い膝の裏側には、鷲掴みにした大きな手の形が、はっきりと浮き出ていた。 「あいつら……」  思い出すだけで、血が燃えるようだ。  感情に任せて太刀を振るったことは、犀星も反省していた。函において強姦罪は、現行犯であればその場で死罪。その性質上、被害者は弱者であることが多く、また、過失では起こり得ない罪であるためだ。  これは、都であろうと、歌仙であろうと、変わらない。  ましてや、犀星にとって、玲陽の身に起きたこととなれば、もとより、彼らを生かして帰すつもりはなかった。だとしても、冷静に対処すべきだったと思うところはある。しかし、後悔はない。

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