19 / 59

5 痛みの奥に(3)

 涼景の問いに、犀星は真顔で頷いた。  涼景は処置を犀星に任せ、自分は補助にまわった。  犀星は玲陽の陰茎に指を添えると、腫瘍の硬さを確かめた、表面の皮膚が薄く、力を加えると皮膚が破れてしまいそうな怖さがある。犀星は細心の注意を払って、腫瘍をひとつひとつ揉み、力を加減しながら、しこりをほぐしていく。 「いいか、膿が出ても、絶対に飲み込むな。吐き出せ」  犀星はうなずくと、消毒薬で口内をゆすぎ、玲陽の先を咥え込む。その動きに、全くの躊躇がないことに、逆に涼景の方が驚かされる。  犀星は丁寧に腫瘍を押し、頃合いをみて強く吸った。ざらりとした粘液が舌に触れ、瞬く間に腐臭と苦味が口の中に広がる。嗅覚を弄する匂いが鼻腔を抜け、眉間のあたりに痛みが走った。わずかに表情が歪んだが、犀星は口を離さなかった。  限界まで耐えると、涼景の用意した皿に、黄緑がかったどろりとした液を吐き出す。  差し出された消毒薬で、すぐに口をすすいで、犀星は荒く息をした。  犀星が離れている間に、涼景は湿布を取り替えた。今、処置したところは腫瘍が凹み、玲陽の元の形を取り戻している。犀星は、舌で上唇を舐めた。 「まずい……」 「美味いわけがないだろ」  涼景は吐き出された膿を一瞥した。 「毒みたいなもんなんだから」 「いや、そう言う意味じゃなくて……」  と、犀星は視線を彷徨わせた。 「うん?」  どうにも落ち着きがないように感じられる。 「続けられるか? 辛いなら、代わるが……」 「いや」 「なんだよ?」  涼景の真剣な顔を見て、犀星は気まずそうに、口角を下げた。涼景はその顔に、かすかに浮かんだ羞恥を見た。 「星、おまえ、興奮してんのか?」 「……してない!」 「そっちまでは面倒見ないぞ」 「お前になんか頼まない」 「してんじゃないか」  犀星は慌ただしく口をゆすいで、再び、膿を吸い出した。  玲陽がいれば犀星が立ち直ったように、犀星が自分を取り戻せば、玲陽も助かる。  医術者らしからぬ精神論で、涼景は胸を撫で下ろした。  なんとなく玲陽の顔を見れば、先ほどよりも安らかで、呼吸も深く安定している。  やっぱり、おまえは強いんだな、陽。  涼景はこの時、玲陽の回復を確信した。  東雨は、自分だけが完全に除け者にされていることに、巨大なる不満を抱えていた。  犀家に到着した夜、犀星と別れた東雨が目を覚ました時、すでに犀星は涼景とともに出かけた後であった。それでも一日ぐらいなら、と、我慢して過ごしていた東雨は、夜になって帰ってきた犀星を大喜びで迎えに出た。  置いて行かれたことへの不満を言い、犀星たちが今日一日何をしていたのか聞き出そうと意気込んだ。だが、犀家に戻った犀星と涼景は、東雨を相手に話をするような雰囲気ではなかった。  犀星は自分の馬に、白く薄い着物を纏った人物をひとり、乗せていた。松明の揺れる灯りの中では詳しいことはわからなかったが、どうやら、それが玲陽だったのだ、と、東雨は後から家人たちに聞かされた。  犀星が玲陽と会えた。  東雨は素直に喜んで、すぐに挨拶に行こうとしたが、それはあっさりと家人たちに止められてしまった。  玲陽は酷い怪我をしているため、今は治療に専念し、誰にも会えない、という理由だった。  玲陽どころか、つきそっている犀星にさえ会わせてもらえない。  周囲から漏れ聞こえた話では、犀星と涼景が玲家との間に火種を撒いた、との情報もあった。  これは、犀家当主の犀遠に叱られるのではないか、と東雨は案じたが、状況は真逆だった。  どういうわけか、犀遠をはじめ、みな、犀星たちの行ったことを好意的に捉えて、玲家との全面対決も視野に、意気揚々と構えていたのである。  その理由を、東雨は仕事を手伝っていた馬丁から聞いた。  玲陽を子供時代から知っている馬丁の男は、楽しそうに、話をしてくれた。  玲陽が犀星と、この屋敷で仲の良い兄弟のようにして育ったこと、犀星が都へ行く時、仕方なく離れ離れになったこと。その後、玲家によって幽閉されていたこと。そして、今回、犀星が玲陽を救い出し、連れ帰ったこと。  どうせなら、直接犀星から聞きたかったが、今は待つしかなかった。  東雨の切り替えは早かった。犀星に会えないとなると、今度は屋敷の家人たちを訪ねてまわった。一通り、家の仕事がこなせる東雨は、どこに行っても重宝された。厨房で料理を手伝いながら、馬小屋で馬の蹄を磨きながら、庭の隅で薪割りに励みながら、東雨はさまざまな立場の者たちから、それとなく、犀星と玲陽の過去の話や、玲陽の怪我の様子などを聞き出した。  屋敷について五日目、東雨は中庭に面した回廊に座って刀の手入れをしながら、いつになったら会えるのか、と、ため息を繰り返していた。  玲陽の怪我の状態はよくないらしく、犀陽と涼景以外は、部屋にも入れてくれない。たまに犀星と廊下ですれ違うが、挨拶をする程度で、すぐに玲陽の部屋に戻ってしまう。  今まで、犀星の世話は全て自分がしてきたのに、犀家の使用人たちに全てとって代わられて、自分はやることがない。  午後の空は美しく澄んでいたが、風は冷たく、秋の装いを濃くしている。 「どうした?」  気配もなく、後ろから声がかけられ、慌てて刀を取り落としそうになりながら、東雨は振り返った。 「あ……侶香様」  東雨は犀遠を前に、膝を正して礼をした。さすがは宮中でしつけられている東雨は、このようなときはそつなくこなす。犀遠も若い頃は宮中で、今の涼景と同じような職についていた。東雨の振る舞いが、教養のある作法であることが、侶香にはすぐにわかった。 「東雨」 「はい」  東雨は顔を伏せたまま、返事をした。 「ここでの暮らし、慣れたか?」 「はい」 「不自由があれば、遠慮なく言いなさい」 「ありがとうございます」 「ときに」  下を向いている東雨には見えなかったが、侶香は口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「星はおまえに、人と話すときは目を逸らすよう、教えているのか?」 「……え?」  東雨はハッした。  そうだ、この人は、『あの』犀星の養父なのだ。宮中では、目下の者が目上の者の顔を見るのは、非礼とされている。犀遠は官職についているわけではないが、東雨は念のため、その通例に従っていた。 「いいえ」  東雨は顔を上げた。遠慮なく、犀遠を見上げる。 「若様は、話をするときは、相手の目を見るように、と」  犀遠は笑ってうなずいた。 「ならば、ここでもそうしてくれ。その方が気が楽だ」 「はい」  言い方が、若様にそっくりだ。  東雨は、犀星に会えたような気がして、懐かしく、嬉しかった。  犀遠は東雨の隣に親しく腰を下ろした。置かれていた東雨の細い刀を見る。 「その刀、見せてもらってもよいか?」 「はい」  東雨は両手で持ち上げて、差し出した。 「ほう、よく手入れしてある」  犀遠は刀を受け取ると、日にかざした。 「これは、お前のか?」 「はい。自分の刀は自分で整えるのが刀に対する礼儀、そうでなければ、いざという時に身を守ってはくれない、と、若様が……」 「あいつ、生意気を言いおって……」  犀遠はニヤリと笑うと、東雨に耳打ちする。 「それは、わしの受け売りだ」  思わず、東雨は呆れたような笑顔を見せる。  この屋敷に来てから、東雨と最も関係を持っていたのが、犀遠である。  まるで、父親のように東雨に話しかけ、からかい、笑顔にしてくれた。見知らぬ土地に来た少年の緊張をほぐすかのような心遣いを、東雨自身、ありがたく感じている。あの、無愛想で人嫌いな犀星を育てた父親とは思えない。  と、そこまで考えて、血は繋がっていなかったことを思いだす。

ともだちにシェアしよう!