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5 痛みの奥に(4)
東雨と並んで庭に面した回廊に座り、呑気に大あくびをしているこの初老の男は、かつて、宮中で名を馳せた武術の名手であったという。だが、今の彼からはそんな過去の堅苦しい立場など、微塵も感じられない。陽気な酒場の主人のようですらある。
「あの……」
東雨は、興味本位で、犀遠に話しかけた。
「若様のご様子はいかがですか? 涼景様から、近づくと理不尽に睨まれるから避けた方がいい、と脅されていまして……」
「はは…… 確かに。腹の虫がおさまらないのだろう。わしもさっき廊下で声をかけたが、無視された」
何でもない、と笑い飛ばす犀遠に、東雨は親しみを覚えた。本当にこの人が、宮中で恐れられた将軍だったのだろうか。
「子が親を無視するなんて…… いつもの若様なら、逆に叱りつけるところなのに」
「いつものあいつは、そんなに真面目なのか?」
「ええ。真面目というか、融通が効かないというか、頑固というか、とにかく、言い出したら曲げないから、こっちが迷惑してます。滅多に笑わないし、冗談を言う時も真顔だし、本気なのかどうかもよくわかりません」
「変わらんなぁ」
「子供の時から、あんな感じなんですか?」
「そうだな。物心つくまでは、普通の無邪気な子供だったんだが……同年代の子供たちより、妙に大人びたところがあって、可愛げがなくなった。陽にだけは懐いていたがな」
犀遠の物言いに、東雨は思わず笑った。
可愛くない、と言うわりには、犀遠は実に嬉しそうである。
「でも、時々、可愛いんですよ」
すっかり、犀遠に気を許している東雨は、遠慮なく言った。
「若様、草花がお好きでずっと眺めていたり、路上の野良猫をかまったり……それから、時々、体を丸めて寝るんです。子どもみたいに」
「そうか……おまえは、本当に星によくしてくれているのだな」
「え?」
東雨は犀遠の横顔を見て、首を傾げた。
「東雨を見ていればわかる。あいつは幸せ者だ」
なんとなく照れ臭い気がして、東雨は黙った。犀遠の目は、どこか遠くを見ているようだった。
中庭の隅の山桜の木の枝が、一際強く吹いた風に大きく揺らいだ。
「都に送り出すとき、わしはあれに、何もしてやれなかった。宝順帝の勅命とあらば、逆らうことは領民の命に関わる」
「若様は、親王様として、都に歓迎されたのでは?」
「あいつは、駒だ」
「え?」
「大人たちの都合で、いいように利用されてしまった」
明るかった犀遠の表情に、やるせない思いが走る。
「そんな話、初めて聞きました」
「あれは言わないだろうが、ちゃんとわかっていたはずだ」
犀遠は、深い森を思わせる静けさを感じさせる声で、
「お前は、星の出生を知っているのだろう?」
「はい、一通りは……」
「妻を先帝に召し上げられた時、私の命乞いをしてくれたのが、当時皇子だった宝順帝だ」
「まさか! 帝が?」
今まで、さんざん、涼景から帝の悪評を聞かされてきた東雨が、思わず本音で叫んでしまう。
だが、犀遠はそれを咎めることもなく、逆に何度か小さく頷いた。宝順の裏表の激しさを、この老獪も知っていると見える。
「あの頃の宝順帝は、お優しい方だった。子どもながらに、妻を取り上げられたわしを不憫に思ったのだろう。あのとき、わしは、処刑されることが決まっていた。妻との心中を図った罪でな。なのに、都下がりで済ませてくれた」
「命を助ける代わりに、二度と都には立ち入れない、ということですか」
「ああ。しかも、犀家の領地もそのまま、残してくれた。後妻をとることも許されたが、一人でいるのはわしの意志だ」
「それで、侶香様は、ここでずっと……」
「うむ。先帝に奪われた妻の行く末が気がかりでな。死にぞこなった」
東雨は膝を抱えて、じっと話を聞いていた。
「先帝は、玲家の血を引く姫が欲しかったのだ。玲家の女児には力があると言われているからな。だが、生まれたの皇子だった」
「それは、聞いたことがあります。若様、命を狙われたとか」
「必要のない血を残したくはなかったのだろう。妻は出産後にすぐ亡くなってしまったが、芳が星を連れ帰った。その時も、先帝から逃げられるよう、算段をつけてくれたは、宝順帝であった」
「宝順帝と先帝が衝突したの、その直後でしたよね」
「そうだ」
東雨が生まれる前の話である。
「そこまでして、宝順帝は若様を助けてくれた、ってこと?」
「そのような方であったのだ」
東雨は、現在の帝しか知らないが、同一人物とは思われなかった。
「だから、宝順帝は若様のこと、宮中に呼んだのか……あれ? それなら、歓迎していたんじゃ……自分が助けた弟なんだから」
「そこはまた、少々複雑でな」
犀遠はため息をついた。
「玲家が関係してくる」
「玲家……」
「玲家にとって、星は皇家から得た人質だ。星を宮中に返す代わりに、この土地での、玲家の支配に干渉しないよう、交渉の材料に使った」
「玲家……でも、若様は『犀』の姓を……あれ?」
寂しそうに、犀遠は首を振った。
「確かに、星はここで、わしと一緒に暮らしてはいたが、それはあくまでも養い親としてだ。星とは血のつながりもない。先帝の落胤であるから、わしが養子に迎えることもできん。形式的なつながりすらないのだ」
「……そうか」
「だが、玲家は違う。彼らには、堂々と、星の所有を主張する根拠がある。星の母親は、玲家の当主候補だったのだから」
東雨が難しい顔をして、庭の少し先を見つめた。
柔らかそうな土の上を、枯葉が風に乗ってくるくる回りながら通り過ぎてゆく。
「なんか、嫌ですね」
「うん?」
「だって、若様を育てたのは、侶香様じゃないですか。それなのに、都合のいい時だけ、玲家が利用するとか、虫が良すぎます」
「まぁ、そうでもない」
「え?」
「もともと、星は芳が連れ帰ったのだ。だから、本来はそのまま、玲家で育てられるはずだった」
「あ、そうか……」
「わしが、どうしても、と頼み込んだのだ。星は妻の産んだ忘れ形見。せめて、その成長を見守りたかった。そこで、わしは芳と取引をした」
「取引?」
「あの頃、芳はちょうど、陽を産んだ。だが、父親はいない。当然、玲家内に陽の居場所はなかった。そのままではいずれ、殺されてしまう。わしは星を預けてもらう代わりに、陽も安全に育てることを提案した。だから、一方的に玲家が横暴なわけでもないのだ」
東雨は、何度か小さく頷いた。
「だがな」
犀遠は、ゆっくりと立ち上がった。東雨が見上げると、そこには、今まで見たことのない、厳しい犀遠の顔があった。
「いかに玲家といえど、此度のこと、許しおくわけにはいかぬ。大切な息子を、二人も奪われてなるものか」
犀遠の企みは、東雨には想像もつかなかった。だが、犀星と玲陽に向けられた愛情の大きさだけは、強い決意とともに、東雨の胸を確かに打ったのである。
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