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6 誰がための刃(1)

 もう、何日になるか。  犀星はずっと玲陽の側を離れなかった。  体力が落ちている玲陽は、それを補うようによく眠った。昼夜を問わず、不意に目を覚ましたが、半刻も待たずにまた眠ってしまう。  それでも、ひと眠りごとに、少しずつ、気力を取り戻しているように見えた。  玲陽の意識は、覚醒と睡眠の合間をいったりきたりしていた。  酷く混乱した夢を見たようにも思えるし、甘い糖蜜の中に浸っていたようでもある。  腹部の重たい痛みは常に玲陽を苦しめたが、それ以外は確実に力が蓄えられているのを感じる。  一度だけ、犀星が腹腔内の処置をしてくれている時に、目が覚めたことがある。背中から頭をつんざく鈍痛に息が止まりかけたが、玲陽は気づかれないよう、じっとしていた。  もう少しだから。大丈夫だから。  犀星が繰り返していた言葉は、自分に向けたものだったのか、犀星自身を励まそうとした独り言であるのか、わからない。だが、その必死な思いは、痛みを凌駕して玲陽を包み込んでくれた。  自分が今、犀星や涼景をはじめ、多くの人たちの庇護のもとにあることに、玲陽は現実味のない浮遊感を感じる。これは全て幻なのかもしれない。  時折、不意に訪れる恐怖のせいか、体がビクリと痙攣して目覚める時は、すぐに犀星が安心させるように玲陽の手を握った。  それが昼の日の光の中でも、夜の油灯のゆらめきの中でも、いつも、かたわらには愛しい人が寄り添っていてくれた。  何度目かに、玲陽は目を覚ました。  目覚めるたびに見る天井の景色は、これが幻ではないことの印である。 「陽」  囁くような声が、耳に触れる。  玲陽はわずかに首を傾けた。深い蒼色の瞳が、白い日差しを移してキラキラと揺れる。  この人はいつ、眠っているのだろう。  玲陽はぼんやりとそんなことを思った。 「……に……いさま」  か細い、声と呼ぶには儚い音の連なりで、玲陽は犀星を呼んだ。  暖かな手が、玲陽の額から奥へと、優しく撫でてくれる。その手は、記憶にあった犀星のものよりも大きく、力強かった。  ああ、大人になったんだ。  唐突に、玲陽は、そう思った。  自分が砦の中で、意味もわからず昼夜を繰り返している間、犀星だけが先に行ってしまったような、置いて行かれたような、そんな寂しさを覚える。 「どこにも、行かないで」  自分でも甘えていると恥じらいながら、玲陽は言った。犀星は目を細めて、唇で頬に触れた。 「ここにいる。怖くないから」  甘える自分を、さらに甘やかす犀星の声。心に絡みついて、傷を癒すような疼きを与えてくれる。  もっと聞きたい。  玲陽は目を閉じ、頬擦りをするように、首を伸ばした。その仕草に、犀星の胸は静かに高鳴る。  玲陽の温もりは、万金に値する。  犀星は夢中で玲陽の耳元から首筋に口づけを繰り返し、頭を掻き抱いてわずかに掠れた吐息を鳴らした。交わす体温は、玲陽だけではなく、犀星にとってもどんなやすらぎより心地よい。 「おい」  低く、よく響く呼び声が、背後から飛んできて、犀星は動きを止めた。  名残惜しそうに体を起こすと、犀星はゆっくりと振り返った。  質素な毛氈の上にあぐらをかいて、膝の上に肘を乗せ、身を屈めるようにして、涼景は上目遣いに犀星を見ていた。 「そういうことは、陽が回復してから、夜中に二人きりでやってくれ」  涼景の傍には炉が置かれ、その火の上では、玲陽のための粥が煮込まれている。 「目が覚めたなら、陽にこれを飲ませろ」  涼景は白湯を注いだ竹筒を、ぶっきらぼうに犀星に差し出した。ばつが悪そうにそれを受け取って、犀星は口をつけ、温度を確かめる。寝たきりの玲陽の口元に持っていくと、そっと傾けた。 「陽、白湯だ。熱いからゆっくり……」  唇の端からこぼれた湯を手巾を添えて拭き取りながら、犀星は玲陽に与えた。  涼景は粥の米粒を摘んで舌と上顎ですりつぶし、かたさを確かめた。玲陽の目覚めを待ちながら、時間をかけて煮込まれていた粥は、すっかり溶けて容易に飲み込める。  涼景はそれを杓子に一杯、銅鍋から木椀に移すと木匙をそえ、やはり竹筒に入れた甘草湯とともに盆に乗せて、犀星の前に押して寄越した。  犀星は頷いて、白湯同様、匙で一口ずつ吹いて冷ましながら、玲陽の口に運んでやる。  玲陽は大人しく給餌を受けて、じっと犀星の顔を見つめていた。犀星の方がそれに照れて、狼狽えてしまうほど、真剣な、どこか鬼気迫る眼差しだった。 「陽、味気なくてすまないな」  涼景が残った粥を自分と犀星の分として取り分け、塩を足しながら、 「明日には、蓮の実を入れてやる」 「ありがとうございます」  嚥下の合間に、玲陽は礼を言った。その声は、随分としっかりしてきている。 「すぐに、鶏の煮凝りも食えるようになる。もう少しの辛抱だ」 「はい」  玲陽は頬を緩めた。 「でも、私は、こうして甘い粥をいただけるだけで十分です」 「そりゃ、星が手ずから食わせてくれるんだから、なんだってご馳走だろうよ」  涼景は軽口を叩いた。ふわり、と玲陽の頬が紅潮するさまに、犀星は見とれ、思わず手を止める。 「そ、そんなんじゃ……」  玲陽は態度で肯定して、はにかんだ。 「おまえたちを見ているだけで、腹が膨れるな」  涼景は嬉しそうに、粥を一気に飲み干した。 「涼景、行儀が悪い」  犀星が拗ねたように咎めた。が、今は何を言っても、涼景のからかいの種にされてしまう。 「真っ昼間から病身の陽を食おうとするような奴に、行儀作法どうこう言われたくないもんだ」 「涼景! そういう下品な言い方は……」 「おや? 意味がわかったようだな、偉いぞ」 「くっ……」  涼景の言葉に翻弄される犀星を、玲陽は面白いものでも見るように、にっこりと笑って見つめた。その笑顔に気づいて、犀星はまた、戸惑う。  涼景と玲陽に、自分は調子を狂わされっぱなしだ。  犀星は感情を抑えて、また、粥を運んでやった。  薬湯を飲ませ終わると、犀星は自分が食べるのも後回しにして、玲陽の腹のあたりに手を乗せ、ゆっくりと円をかくように撫でた。その感触が気持ちよいのか、玲陽は大きく深呼吸をすると、目を閉じた。  また、眠ってしまうのか。  犀星の表情に、寂しげな色が浮かぶ。まるでそれを察したかのように、玲陽は再び目を開けた。犀星を見上げる。 「兄様」 「うん?」  玲陽は一度目を伏せてから、改めて犀星を見て、 「兄様も、少し、眠ってください。体を壊してしまいます。そんなのは嫌です」  涼景が鼻で笑った。 「そいつは頑固で言うことを聞かないんだ。俺もずっと寝ろと言い続けているが……」 「わかった」 「はぁ?」  あっさりと玲陽に従った犀星に、涼景が信じられない、と目を白黒させる。  俺があれだけ言ってもきかなかったくせに……  納得できない、と顔をしかめる涼景を気にもせず、犀星は玲陽の枕元に腕を乗せ、そこに顔を半分埋めた。 「ここで眠る」 「そんな格好では、体、痛くなりますよ」 「それなら……」  犀星の目が、するりと玲陽の寝台を滑る。 「待て!」  涼景が制止の声を上げた。毛氈から立ち上がると、部屋の奥から褥を抱えてきて、犀星の上に放り投げた。突然降ってきた厚手の褥に、犀星は押し潰された。 「涼景、何をする!」 「おまえこそ、何をするつもりだった?」  涼景は大きなため息をひとつつき、額を抑えて首を振った。 「さっさと食って寝ちまえ」  犀星は、じっと涼景を見ていたが、それ以上言い返さず、自分も椀の粥を一気飲みして、褥にくるまり、玲陽の寝台の足にぴたりと体をつけて目を閉じた。  そんな犀星の一連の動きを、玲陽が目で追う。  犀星が動かなくなると、玲陽は涼景と顔を見合わせ、小さく吹き出した。

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