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6 誰がための刃(2)

 一、二、三、四……  東雨は小さくつぶやいて拍子を取りながら、中庭で刀を振った。  犀家に来て、はや十日が過ぎた昼過ぎ。ここ数日では例になく暖かな日和で、体を動かすにはちょうど具合が良い。北方出身の東雨には、歌仙の気候は温暖で、汗ばむほどである。  相変わらず、犀星の頭の中には玲陽のことしかないが、容体は確実に快方に向かっているらしく、今朝、回廊で出会った時には、久しぶりに犀星の方から声をかけてくれた。東雨にはそれが何より嬉しい。  一、二、三、四……  構え、踏み込み、打って、下がる。  東雨は真剣な眼差しでしっかりと前方を見つめ、基本の動きを繰り返した。  東雨は、八歳になる頃、都に上がった犀星の侍童の役目を、宝順帝から言いつかった。  彼は孤児であったが、いずれは貴人に仕える侍童となるべく、幼い頃から相当の教育を受けてきた。学問はもちろん、芸事も宮中の儀礼も叩き込まれた。また、夜伽相手をつとめるための特殊なことがらも教わった。東雨は宦官ではないが、同年代には、そのような手術を受けた者たちも多い。  八歳になる頃には、心構えも実力も、十分に備えていた。生来、賢かった東雨は、体は大きくないが、理知的で機転がきき、また、性格も明るく明朗で、申し分のない魅力を持ち合わせていた。  帝から、若い親王の世話を命じられ、初めて犀星と引き合わされたとき、東雨はその美しい姿に胸が躍ったのを覚えている。  こんなに綺麗な人と一緒にいられる!  まだ純粋だった東雨には、犀星の本性を見抜けるはずもなかった。  あれから十年。  彼は、他の主人を持つ侍童ならばしなくて良いような苦労の数々を、重ねてきた。  本来の東雨の役割は、犀星の身の回りの世話、簡単な読み書きの代行、夜伽の相手、とされていた。だが、実際にはそんな範疇を超えて、なんでもやらなければならなかった。というのも、犀星が自分の屋敷に、東雨以外の人間を誰も置かなかったためである。  広い屋敷に、犀星と東雨のふたりきり、だ。  警護の兵はいたが、それは屋敷の外回りのみで、中のことは文字通り生活の全てを、自分達で行う必要があった。  食事から掃除、洗濯、繕い物、買い物、風呂炊き、水汲み、薪割り、馬の管理に加え、犀星が作った畑の世話まで、東雨はその全てを否が応にも身につけなければならなかったのである。  就任初日にその条件を聞かされたときには、目の前が真っ暗になったのを覚えている。  だが、ここで、東雨にとってありがたい誤算が生じた。  自分がひとりで全てやらされる、と思っていたが、実際には半分以上を犀星がこなしたのである。  この人、絶対に変人だ。  東雨は、犀星の俗っぽさに、愕然とした。  いくら、田舎の歌仙育ちといえども、親王は親王である。歌仙でも、それなりに贅沢な暮らしをしていたのだろう、と思っていたが、とんでもない思い違いだったらしい。  自分で薪を割り、包丁を握り、茶を煎れる犀星は、親王と言うよりも働き者の近所の若者だった。  風呂掃除から庭の掃き掃除、畑の雑草抜き、堆肥撒き、果ては、東雨の着物の洗濯まで、犀星はそれが当たり前、という顔で平然とこなした。  さらに東雨を動揺させたのは、その倹約思考だった。  犀星はとにかく、金を使わなかった。  無駄なものは一切買わない。着物も普段着が三着あれば十分、履き物も動きやすいものと、防水になる長靴だけである。  消耗品も節約する。灯りに油を使わないよう、日が落ちたらさっさと寝る。薪の代わりに、庭に落葉樹を多く植え、落ち葉を燃料に加えてカサ増しをはかる。  食べるものも、節約対象だった。庭の一部を耕して畑を作り、野菜を育てた。肉が食べたければ山へ、魚が欲しければ川や湖へ自ら行き、獲物は保存できるように加工した。日中は仕事で屋敷を開けるため、さすがに家畜は飼わなかったが、可能な限り自分達で行うという姿勢は貫かれていた。  東雨は、飯といえば白米、と思っていたが、犀星が市場で自ら買い付けてきたのは、粟であった。それまで、鶏の餌だと思っていた微小な粒々が、自分の食卓の椀の中で湯気をたてているのを見た時、東雨は涙を禁じ得なかった。 『このままでは、俺は鶏になってしまいます』  幼い東雨が涙ながらに訴えると、当時十五歳になったばかりの犀星が、 『鶏なら、ミミズやバッタも食えるようになるな』  と、さらに絶望感を煽ったことを、東雨は今でも根に持っている。  後に知ったことだが、歌仙ではミミズもバッタも食していたとのことである。 「鶏!」  東雨は不意にその話を思い出して、数字の代わりに叫んだ。 「ミミズ!」  言いながら、刀を振る。  回廊を通りかかった犀遠が、何事か、と立ち止まった。 「バッタ!」 「東雨?」  犀遠は、面白いことが起きていそうだ、と、期待を込めた表情をしている。 「何を妙なことを叫んでいる?」  東雨は刀を納めて、犀遠の前に進み出ると、一礼した。 「過去の不満を退治していました」  首を傾げた犀遠に、東雨は犀星との鶏の話を聞かせた。 「なるほどなぁ」  回廊に座ってくつろぎながら、犀遠は笑った。 「笑い事じゃないんですよ」  東雨は並んで座り、肩で息を吐いた。 #__i_2ecf3e24__# 「本当に、ありえないくらい、ケチなんです」 「親王の俸禄はどうなっている? 決して不足はせんと思うが?」 「そうなんです!」  東雨は、ここで犀遠を味方につけておけば、今後の家計が豊かになるかも、と期待して訴えた。 「禄は十分にいただいているはずなんです。でも、家計には全然入れてくれなくて! 一月の生活費が三十文ですよ。それだって、この前まで、二八文だったのを、どうにか上げてもらって……」 「それはそれは、随分と思い切った金額だな」  愉快だ、というように、呑気に犀遠は笑っている。 「それで、あれは残りの金を溜め込んでいるのか?」 「いえ、我が家は貯金がないんです」 「ほう? では、賭博にでも手を出したか?」 「それなら、まだ、責めようがあります」  犀遠に反して、東雨はふくれっつらだ。 「若様、全部花街に使っちゃうから」 「……ほう! これは愉快!」  犀遠が手を打った。思わず、東雨は犀遠を睨んだ。 「あれが女につぎ込むとは。色好みとは意外であった」 「え? あ、違います」  東雨は慌てて首を振った。 「花街は花街でも、花代(女郎に払う金)に使っているわけではありません」 「なんだ、違うのか」  なぜか、犀遠は少しがっかりしたように見える。 「花代どころか、若様、まったくそういうの、興味ないんですよ。美人ですから、宮中では男性からも女性からもお声がかかるんですけど、完全無視、してます」 「面白味のない男だなぁ」 「まぁ、おかげで俺も、仕事がひとつ減って、楽といえば楽……」  東雨は、身につけたものの、まったく使い道のない夜伽のことを思い出した。 「では、花街で他に何をしているのだ?」 「治水です」  意外な答えに、犀遠は目を見開いた。 「治水?」 「はい。何年も前から、花街の水路を整備して人工の川を作ったり、生活に使う井戸や給水網を作ったり……」 「ほほう」 「でも、予算をつけてもらえない、とかで、お金が足りなくて、若様、私財を全部そっちに回しているんですよ」 「なるほど、それでは、ケチをしても責められんな」 「だから、タチが悪いんです」  東雨は不満そうに言いはしたものの、本気で責めているようには見えなかった。 「若様って、変わってます」  ふと、東雨は真顔になった。 「なんていうか、普通じゃないんです。はじめは、単なる変わり者かと思っていたんですけど、最近、それも違うなって」 「ほう?」  犀遠は、興味津々である。都での犀星の様子が聞けるのが嬉しいらしい。 「若様が考えていることって、他の貴人たちとは違うんです。他の人たちはわかりやすい。お金、地位、権力、色、嫌いな相手を潰すこと。でも、若様はどれも、関心がなくて。だから、何を考えているか、全然わからない」 「ふむ」 「でも、わからなくても、黙って若様のお手伝いをしていると、不思議なことが起こるんです」 「不思議なこととは?」 「なぜか、みんな、笑顔になるんです」  犀遠は、目を細めた。 「市場で買い物をしていたら、歌仙様にどうぞ、って、いろんな物をもらいます。賄賂とかじゃないですよ。じゃがいもを賄賂にもらうなんて、聞いたことがありません」 「市場の……民衆には好かれているようだな」 「はい」 「あれは、なんと言っているんだ?」 「お礼を言って受け取ってますよ。でもなんか、あまりに若様が粗末な暮らしをしているから、哀れみをかけられているんじゃないかって思って、俺は喜べません。食費は助かるけれど、どうしても……」 「面白いものだ」  満足そうな犀遠を、東雨は見上げた。 「東雨、愚息が迷惑をかけてすまぬ。わしからも、少し言っておこう」 「は、はい!」  東雨はパッと笑顔になった。  いかに犀星でも、尊敬する犀遠の言葉ならば、聞くかもしれない。  もしかしたら、三十二文にしてもらえるかも!  それで満足する東雨は、自分が犀星によって感覚を麻痺させられていると気づいていない。

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