24 / 59

6 誰がための刃(4)

「少しは気分が晴れたか?」  涼景は、まだ息が荒い犀星を見下ろして言った。 「おまえから教わった比翼、まさか、侶香様に見ていただけるとは思ってもいなかった」 「そうだな」  負け惜しみではなく、犀星は言って立ち上がった。 「やはり、お前と組む方がいい」 「うん?」  犀星は涼景の方を見ずに、 「父上と組むと引きずられて辛い。差がありすぎる」  涼景は苦笑いしながら、 「悪かったな、腕が悪くて」 「俺よりは上だ」 「珍しく殊勝だな」  涼景はにやにやしながら、犀星を見た。その肩はまだ呼吸に揺れている。 「涼景」 「うん?」 「……感謝している」  突然、思ってもいなかった言葉を耳にして、涼景はぽかんとする。ここまで素直に犀星が礼を言うなど、なかなかあることではない。 「今回のこと、お前がいなかったら、どうなっていたかわからない」  まともに顔を見るのは気まずいのか、犀星は庭の橘の木を、涼景に見立てて話しかけた。 「まぁ……なんだ。別に、俺がいなけりゃいないで、おまえがどうにかしていたさ」  いつもなら、俺に感謝しろ、と自分から言ってのける涼景だが、この時ばかりは、そんな冗談も出なかった。  犀星はじっと、立ち尽くしていた。庭の木々がそんな犀星を包むかのように、かすかな音をたてて揺れる。ふわりと漂ってくるのは、甘い金木犀の香りだろうか。青い空ははるかに高く、澄み渡っている。 「俺は……」  夢見るように静かに話す犀星の背を、涼景は黙って見つめていた。 「記憶にある頃から、俺は陽と一緒にいた。あいつは信じられないほど真っ直ぐで、純粋で、優しくて、そのくせ、負けず嫌いで」 「…………」 「大人たちからは、疎まれていた。その理由は、幼い頃にはわからなかったが…… 周囲にどう扱われても、必死に生きようとしている陽を守りたい。そう思って、刀を学んだ」  橘の小さな果実が、午後の日の光を受けて金色に輝いている。 「俺があいつを守るつもりだった。なのに、あいつ、俺より飲み込みが早くて、必死に稽古をしても、どうしても勝てなかった。天才肌ってやつだな。筋がいいんだ。学問でも、詩歌でも、何でも競った。競い合いながら、互いに惹かれていった。あいつのいない世界なんて、あり得ないくらいに。ずっと、一緒だと思っていた」  犀星は、橘の果実を一つとると、そのままかじった。酸味が強く、食用にすることはあまりないが、子どもにとってはご馳走だったことを思い出す。 「俺が十五になる前の月、都から、使いが来た。俺と陽は、父上に呼ばれた。そして、父上は俺に、奥部屋の上座に座るように、と」 「…………」 「親王として」  いつかは、そんな日が来るのだろう、と、犀星も玲陽も知っていた。しかし、目の前に迫った現実は、二人を混乱させると同時に、絶望の谷底に追い詰めた。 「行きたくない、と言った。だが、俺が拒めば、帝への叛逆の罪で父上も、犀家や玲家の領民も、皆、どうなるか…… 俺に選択の余地はなかった。それでも、ただ一つだけ、願いが叶うなら、陽を……一緒に連れて行きたかった」 「それは……」 「ああ。わかっている。今なら、わかる。だが、あの時の俺は無我夢中だった……」  じっと、手の中の果実を見つめて、犀星は声を震わせ、 「上座に座るよう、言われたとき、あいつは……陽は……俺の前にひざまづいたんだ。さっきまで、一緒になって転げ回って遊んでいたあいつが、突然、別人みたいに! あいつが言った言葉を、今でもはっきり覚えている。『親王殿下の戴冠の節、お喜び申し上げます』」  静かに、涼景は息を吐き出した。犀星が、自分の過去を語ることなど、今までになかったことだ。涼景も知らない犀星の本音が、滔々と紡がれていく。 「俺は、屋敷を飛び出した。陽が追ってきてくれることを祈った。あんな言葉、嘘だ。ただの悪い冗談だって! 本気にしたんですか?って笑いながら、あいつが……俺を……俺を……追ってくることはなかった」 「星」 「それが、最後だ。都に発つ前に、あいつの姿を見たのは、それきりだった」  犀星はまた、果実を一口、噛み締めた。その鋭い酸味と苦味は、今の自分にはふさわしい罰のようですらある。 「あの後、どうやって都まで行ったのか、覚えていない。まるで、悪夢の中を彷徨っていたようで。記憶がない。父上に聞かされるまで、俺は本当に何も知らなかった。俺は、必ず迎えにくる、と言っていたらしい。狂ったように、陽の名を叫びながら……」 「…………」 「狂ったように? いや、狂っているんだ。俺は…… お前も、見ただろ。俺が、あの夜、砦で、玲博たちに何をしたか」 「……ああ」 「十年前、陽をここに置き去りにしたことを、俺はずっと悔やんできた。あいつが、どんな目に遭っているのか、想像しただけで恐ろしかった。でも、もし、一緒に都に行っていたら、あいつは間違いなく、俺をめぐる陰謀に巻き込まれていただろう。そして、そのたびに俺は狂気に侵され、自分のこともあいつのことも、壊してしまったに違いない」 「……おそらく、陽には、それがわかっていた。だから、あえておまえから離れたんだろう」 「なぜ、そう思う?」 「なぜ?」  驚いたように、涼景の方が問い返す。 「あいつは、おまえより冷静だ。そして誰より、お前を知り、愛している」  涼景の言葉を背中に聞きながら、犀星は息を止めた。 「どうして……そう、言い切れる?」 「見ていればわかる」  きっぱりと、涼景は言い放った。 「星。おまえは狂っているわけじゃない。狂わされているんだ。自分の気持ちに。陽を想う心が、おまえを狂わせる。おまえ自身が、お前自身を崩壊させていく。それは恐怖かもしれないが、希望だ」 「希望……?」  犀星は、その言葉を噛み締めた。 「希望が、あるんだろうか」 「俺には、おまえたちの姿が、希望にしか見えないね」  一際声を張って、涼景は言った。 「怖がらなくていい。すべて、そのままで」 「…………」 「陽は、とっくに覚悟を決めている。だから、あれだけ冷静でいられるんだ」 「…………」 「おまえも、逃げるな」 「…………俺は……陽を……」  涼景は背後から、静かに親友を抱きしめた。 「もう、楽になれ。心を抑え込む必要はない。これからは、俺がお前たちを守る。俺の命も刃も、お前たちのために尽くそう」  黄昏が、ゆっくりと降りてくる。  沈みゆく夕陽のそばに、一際明るく光る(ほし)が一つ、光芒を放っていた。 【⭐️ここまで読んでくださった方へ⭐️】 ⚫︎外伝「敵か或いは」 https://fujossy.jp/books/29689/stories/644935 十年前、犀星と東雨、涼景が初めて出会ったときの物語。

ともだちにシェアしよう!