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7 花嵐(1)
犀家に入って十一日目。
東雨にとって、待ちに待った時がきた。犀星が、玲陽に会わせてくれるのだ。
これまでに、周囲から色々と玲陽の噂を集めていた東雨は、楽しみでならなかった。
玲陽を知る人たちが口をそろえて言うのは、彼は心根が優しくおだやかで、誰に対しても親切である上、その見目は犀星に勝るとも劣らずに麗しい、というものだ。
直前まで、東雨はそわそわと落ち着きなく、玲陽の部屋へ向かう間も、珍しく一言も喋らなかった。正確には、しゃべらなかったのではなく、緊張で声も出なかった、というほうが正しい。
若様だって綺麗なのに、それに匹敵するって…… しかも、若様より性格がいい!
東雨は期待に胸を膨らませた。
初めて犀星と出会った幼い日、東雨はこの世界には本当に美しい人がいるのだ、ということを知った。自分がそのそばに仕えるという現実に歓喜した。そして、すぐに外見に惑わされた自分を恨んだ。本質は自分で確かめなければわからないということを、知っていたはずだった。犀星の時に一度痛い目に会っているというのに、今回も花には棘ということを東雨は忘れていた。
もっとも、それを思い知るのはずいぶん後になってからである。
玲陽とのことは、単に犀星の幼馴染に会う、というのとは訳が違う。犀星の様子を見る限り、玲陽が元気になったら終わり、というわけではないらしい。おそらく、これからは一緒に暮らすことになるだろう。
まるで見合いに向かうような心境で、東雨は気が気ではなかった。
犀星は部屋の前まで東雨を連れてくると、念を押すように振り返った。
「いいか、あまりはしゃぐなよ。陽はまだ、熱があるんだ」
「はい!」
東雨は刀の稽古の時よりも、行儀の良い返事をした。目を輝かせている東雨を見て、犀星は難しい顔をしていたが、諦めたのか、黙って引き戸を開けた。
玲陽の休む部屋は、常に炉を焚き、暖かく保たれている。
扉を開けると、その熱気とともに、喉に絡むような薬香の香りが流れてきた。鎮痛効果を持つ香だ。嗅ぎ慣れない臭いに、東雨の鼻がむずむずする。部屋の奥には涼景もいて、炉の上で、薬だか粥だかの準備をしているようだ。
東雨は恐る恐る足を踏み入れた。と……
「はじめまして」
優しい声が、東雨の耳に聞こえた。
「あ……」
声がした方を見ると、寝台に横たわった金色の髪の美しい人が、こちらを見て、微笑んでいた。
東雨はその姿を凝視したまま、動けなかった。
仙女さまだ。
と、東雨は思った。
「東雨?」
犀星は東雨の背を押して、寝台の方へ促した。
柔らかな午前の日差しが、寝台の足元の格子窓から差し込み、白い褥を更に白く輝かせている。その輝きにも勝って、玲陽の薄い金箔のような髪がきらめいている。
「きれい」
思わず、東雨は呟いた。
「うん?」
犀星が東雨の後ろで静かに見下ろした。
「何をぼんやりしている? 香にやられたか?」
「そ、そんなんじゃありません!」
東雨は慌てて、よそ行きの顔を作った。ギクシャクとした動きで寝台に近づくと、枕元にひざまずく。
「こんにちは」
東雨は息を潜めるようにして話しかけた。
「若様のお世話をさせていただいています、東雨です」
玲陽は微笑んだまま、頷いた。その笑顔に、東雨はまた釘付けだ。
「きれい」
東雨は再び呟いた。玲陽は少し困ったように東雨を見たが、すぐに表情を和らげた。
「玲光理です。ご挨拶が遅れてしまい、失礼いたしました」
「はい! あ、いえ!」
明らかに挙動不審な東雨に、犀星はため息をついた。
「何が言いたいんだ、おまえは」
「だ、だって!」
言い訳っぽく振り返った東雨は、わずかに頬が赤い。
「だって?」
「だ、だって……こんなに綺麗な人だったなんて……」
東雨の慌てた姿は面白いが、理由が玲陽に見とれて、というのが、犀星には気に食わないらしい。だが、そこは主人としての最後の矜持か、いつもの感情のない仮面を外さない。
「東雨、顔が赤いぞ」
「え! そ、それは……この部屋が暑いから!」
「あ、すみません。兄様、私は大丈夫ですから、風を通して下さい」
「陽、いいんだ」
犀星は呆れながら、玲陽の牀の端に腰掛けた。
「でも、東雨どのが……」
「東雨どの?」
犀星が何とも言えない微妙な表情を浮かべる。
「東雨どの?」
当の東雨自身も、思わず繰り返して、それから、目を見開いた。
「光理様、ありがとうございます!」
「え?」
「俺、そんな風に呼ばれたの、初めてです!」
「あ、嫌でしたか?」
「いえ!」
東雨は前のめりに、
「ぜひ、ぜひ、そうお呼びください!」
「東雨、声がでかい」
涼景が、耐えかねたように奥から注意したが、舞い上がっている東雨の耳には入らない。
犀星は思わず額を抑えた。
「はしゃぐな、と言ったのに……」
「光理様、俺にもお世話させてください。俺、なんだってやりますから!」
と、玲陽に食いつく勢いである。
「あ、ありがとうございます」
さすがに玲陽もまずいと思ったのか、助けを求めるように犀星を盗み見る。
「東雨、話してもいいから、声を抑えろ。寝不足で頭に響く」
「若様、寝不足なんですか!」
「だから、全力でしゃべるな」
「寝てください! 俺、代わりに光理様のそばにいますから!」
「いや、それとこれとは……」
「一緒です! 任せてください!」
「うるさいっ!」
ついに、涼景が怒鳴った。
豪快な男ではあるが、涼景は怒りっぽいわけではない。よほど、腹に据えかねたと見える。
「ごめんなさい」
玲陽が、小声で東雨に謝った。
「涼景様も、お疲れなので……悪気はないんです」
東雨は怒鳴られたことは全く気にしていないが、玲陽がこそり、と自分に気遣いをしてくれたことが嬉しく、ニッと笑った。
「大丈夫です。俺、慣れてるんで!」
「東雨、いい加減に……」
「光理様。ねぇ! 是非、俺にもなにかお世話を……」
「東雨、ちょっと来い」
犀星は立ち上がると、東雨の襟首を掴んで部屋から引っ張り出した。
「若様ぁ!」
「いいから、来い!」
東雨に逆らう気はなかったが、犀星が手を離さずにずんずんと進むものだから、仕方なく後ろ向きに引きずられる。
廊下の角を曲がって犀星はようやく立ち止まった。ぽい、と東雨を離して、犀星は回廊に座ると、頭を抱えた。
「若様……」
「うん?」
「……すみません」
東雨は、ちょこん、と犀星の隣に腰掛けた。中庭を見れば、昨日よりわずかに陰った太陽が、雲の間から細い光をいく筋も庭に伸ばしている。
「おまえ、浮かれ過ぎだ」
言ってから、犀星は顔の下半分を、乱暴に手で拭った。片膝を曲げ、その膝の上に肘をついて、大きくため息を吐く。
「何がそんなに嬉しいんだ?」
犀星の声は怒ってはいない。しかし、どこか恨めしそうである。東雨は膝を抱えた。
「俺、光理様にずっと会いたかったから」
「なぜ?」
「なぜって……」
東雨は、ぽつりぽつりと、
「ここに着いて、若様と涼景様が光理様を探しに行って…… 俺は留守番」
「今は、連れて行かなくて正解だったと思っている」
犀星は、忘れることのできないあの夜を思い出した。もう、はるか遠くの記憶になっているが、実際には半月も過ぎていない。多くのことがありすぎた気がする。
「それから、おふたりがお戻りになって、光理様のお手当てをしている時も、俺は何もできなくて……」
「おまえだけじゃない。父上にも目通りさせられる状態ではなかった」
犀星と涼景以外は、どのような用件でも、決して部屋には入れなかった。それは全て、玲陽の人としての尊厳を守りたかったためであるが、玲陽の怪我の状態を知らない東雨にとっては、寂しく感じても仕方がなかっただろう。
「俺、お役に立ちたいです」
東雨は気持ちを落ち着けて、
「光理様がお綺麗だからじゃないですよ」
「当たり前だ」
「若様、ずっと光理様のこと、思い続けていたじゃないですか」
「うん?」
痛いところを突かれた、という顔で、犀星は黙った。
「若様、都に来てから毎日、光理様にお手紙書いていたでしょう? 普通、返事も来ないのに、十年も毎日毎日書かないですよ。おかしいですよ。絶対に変ですよ」
「…………」
「若様がお心を患った時だって、最後まで光理様のことばかり…… どんな人だろう、って気になっても当然じゃないですか」
「…………」
「それに……きっと今、こうして若様が前みたいに少しお元気になられたのも、光理様のおかげですよね? だから俺、少しでも役に立ちたいなって思っただけで……」
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