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7 花嵐(2)

 長く、犀星は口を開かなかった。東雨は犀星の横顔を見たが、例の如く、感情は読めない。犀星を知らない者が見れば、まだ具合が良くないのでは、と思うところだが、東雨にはそうではないことだけはわかっていた。  庭の砂利の上を、枯れ葉が音もなく風に乗って流れていく。東雨はふと、都の自分達の屋敷の庭にも、同じように枯れ葉が舞っている様子を想像した。  都・紅蘭を出てから、もう、一月が過ぎている。いつ帰れるともわからないが、その頃にはきっと、落ち葉でいっぱいになっていることだろう。 「光理様を、都にお連れするんでしょう?」  東雨は、静かに尋ねた。犀星は反応しない。犀星の目は庭を見ているようで、実際にはもっと遠い何かに思いを馳せているようだ。東雨は主人の様子を伺いながら、 「俺、光理様と仲良くなりたいんです。そうじゃないと、色んなこと、うまくいかないと思う」  そう言って、ぎゅっと膝を引き寄せる。  幼い頃から、ずっと、犀星と二人きりで暮らしてきた。仕事の時には他の人間も一緒だが、生活はすべてふたりを中心に回っていた。必要に迫られて、ではあっても、東雨はいつも犀星と一緒だった。そんな暮らしに慣れきっている東雨にとって、同じ屋根の下に他の人間がいる、という状況は想像もつかない。しかも、その人は犀星が特別に大切にしている相手である。  俺、どうなっちゃうんだろう。  漠然とした不安が、東雨にじわじわと迫ってくる。どうしても落ち着かない。自分の居場所が無くなりそうで、何をしていても手応えを感じることができなかった。 「あの、若様……」  東雨は心細さを感じて、犀星を呼んだ。返事もなく、ぼんやりと虚空を見ているが、こういう時でも犀星がちゃんと自分の声を聞いてくれていることを、東雨は知っている。 「若様は……」  光理様のことを、どう思っているんですか?  東雨はどうしても言葉が続けられなかった。  自分は犀星の侍童である。友人でも兄弟でも、それ以上の関係でもない。一緒に暮らしてきたからといって、犀星が自分を特別扱いしているわけではない。仮に、東雨が犀星の寝所を務めていたとしても、口出しをすべき問題ではないのだ。  逆に考えるならば、そのような部外者だからこそ、あっさりと聞いても不自然ではないところである。特に犀星のように、なんでも自由に発言を許してくれる主人においては、とがめられることもないだろう。  どうして、俺は、尋ねることをためらうんだろう。  東雨としては、簡単なことを簡単に口にできない自分の状態こそが、最も憂慮すべき事柄であった。  質問を飲み込んだまま、じっと足元を見つめている東雨は、いつの間にか犀星が気遣わしげに自分を見ていることに気づかなかった。  ふわり、と風が香って、東雨は顔を上げた。いつの間にか、犀星が中庭の隅にある小さな石碑の前に立っている。 「若様……」  長年の習性で、東雨はこのような場面で、反射的に犀星を追う。まるで、一定の距離にいなければ、息ができないというように。 「若様、この石碑……あ」  東雨はふと思い至って、犀星を見上げた。  都の犀星の屋敷の庭にも、似たようなものがある。 「母上の供養碑だ」  犀星は石の前に膝をつくと、手を合わせた。東雨はいつものように、犀星から一歩下がってかがみ込み、祈っているふりをしながら薄目を開けて犀星を見た。  じっと目を閉じている横顔は美しかった。この顔が東雨は好きだった。見るたびに、きっと、犀星は母親に似ているのだろう、と思う。犀星はしばしそうしてから、静かに立ち上がった。 「俺が玲陽にこだわるのは、母の面影を追っているからかもしれない」  突然、犀星が言い出した。東雨は驚いて顔を見つめたままだ。 「俺の母上と、陽の母上は双子でな。聞いた話では、外見は見間違えるほど似ていたそうだ。陽は母親似だから……」 「それなら、きっと、若様だって似ています」  東雨は遠慮がちに言って、立ち上がった。不思議そうに、犀星が振り返る。 「さっき、光理様にお会いしたとき、思ったんです。若様に似ているって」 「……そうか」  小さく呟いた犀星は、どこか、ホッとしたように見えた。 「若様は、お母上が大好きなんですね」 「……好きかどうかはわからないが」  犀星は、ゆっくりと、 「話をしたいとは思っている」 「それ、好きだからでは?」  東雨はじっと犀星を見つめた。だが、犀星は黙って首を横に振った。 「記憶にない相手を、好きか嫌いかなど言えるわけがなかろう」 「うーん、まぁ、そうか」 「ただ、恋しいのかもしれないな」 「え?」  東雨は少々、ぎょっとした。  恋しい?  そんな言葉を今まで犀星が使ったことなど、一度もなかった。感情を見せない犀星は、気持ちを表す言葉自体、滅多に用いなかった。 「母上は、ご自身の命と引き換えに、俺をこの世界へ送り出してくださった。だから今、こうしてここにいることができる。すべての始まり、生きることを許してくれたのは、母上なんだ」  東雨は犀星から目が離せなかった。  表情こそ、今までと同じように感情の薄いままだが、語る言葉はまるで別人のように柔らかく、想いが溢れている。  若様、どうしちゃったんだ?  驚き、戸惑い、そしてかすかな不安。  感情を伝えてくる犀星を歓迎すべきだろうと思いつつも、東雨はなぜか、素直に喜べなかった。そんな自分にまた、余計に困惑する。  だめだ、しっかりしないと!  東雨は自分を奮い立たせた。 「それで、若様はお母上と、どんな話をしたいんですか?」 「うん?」 「話してみたい、って言ったじゃないですか」 「ああ」  犀星は長く息を吐いて、 「よくわからないが、感謝だけは伝えたい」 「産んでくれて、ありがとうって?」 「そうだな」  東雨は不意に、自分の母のことを思い出した。自分の母もまた、出産が原因で命を落としていた。  でも……  と、東雨は思う。  ありがとう、って言いたいとは思わない。  東雨の面に、静かに暗い影が落ちた。自然と、表情がこわばっていく。  この世に生まれて、本当によかったのだろうか。自分は、生きていてよかった、などと、思ったことがあるだろうか。それが言えるのは、 「若様、お幸せなんですね」  嫌味のつもりはなかった。  それでも、言わずにはいられなかった。  我ながら、こんなに意地が悪いのか、と東雨は悔しくてたまらなかったが、それでも毅然として顔を上げた。震えそうになる声を必死に張る。 「生まれてきてよかった、なんて思えるのは、幸せな人だけです」  犀星の表情が動いたのを、東雨は見逃さない。  ざまみろ。  心の中で吐き捨てて、東雨はゾッとする。  俺、若様に何を…… 「おまえ……」  東雨の様子に何かを感じて、犀星が声をかけようとしたとき、門の方から、何やら騒がしい声と、開門を叫ぶ悲鳴が聞こえた。 「東雨、行くぞ!」  一瞬早く動いた犀星を追って、東雨は門へと駆け出していた。

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