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7 花嵐(4)
「涼景様や、兄様のおかげです」
玲陽は夢見るように、
「兄様……約束を果たしてくれました」
「……兄様? 星兄様のことですか?」
今までの笑顔が消え、心配そうに玲凛は言った。
「陽兄様、まだ、星兄様のこと?」
肯定の笑みが、玲陽に浮かぶ。反して、玲凛は辛そうにうつむいた。
「四年前、私が陽兄様に最後にお会いしたとき、陽兄様は、星兄様を待つとおっしゃった。信じて、迎えにくるのを待つと。でも、私だってもうわかる。十年間、手紙ひとつよこさず、陽兄様を気遣う言葉もなかった。陽兄様がどんな目に遭っているか、何も知らないで。それを今になって……私は、絶対ににあの人を許さない」
話しながら、玲陽の痩せた指を握る。玲凛の気持ちは、玲陽にもしっかりと伝わっていたが、彼の考えは妹とは違う。
「凛どの、星にも事情があるのです。あの人は、私のことを忘れたりしていない。ないがしろになんてしていません」
「それは、陽兄様がそう思いたいだけです」
低めた玲凛の声が震えた。堪えているのは、悲しみか怒りか。
「凛どの」
玲陽の呼びかけに、玲凛は目をしっかりと開いて、
「陽兄様がそう信じたい気持ちはわかります。でも、騙されちゃだめ!」
「おい、凛、言い過ぎだ」
思わず、涼景が立ち上がる。今の言葉は聞き流すわけにはいかなかった。だが、玲凛は相変わらず、玲陽のことしか見えていない。
「陽兄様、お願い。冷静になってください。あなたは……私の大切な兄様です。これからは、私がお守りします。そのために私、強くなりました。叔父上に、たくさん教えていただいて……」
「凛、ここにいたか」
声を聞きつけたのか、犀遠が部屋を覗いた。
「陽、体はどうだ?」
玲陽は犀遠が止めてくれたことに安堵した。首を伸ばして、犀遠を見上げる。
「はい、昨日よりも少し楽になった気がします。毎日、少しずつ。これも、本当にみなさんがよくしてくれるおかげです」
「うむ。油断せずに安静にな」
犀遠は頷くと、玲凛を呼んだ。
「凛、おいで」
「でも!」
「いいから、来るんだ」
不服そうな玲凛に、玲陽は静かに、
「凛どの、私はもう大丈夫ですから、叔父上と一緒に。ね」
それは、玲凛の心をくすぐる、兄としての甘い声だ。さしもの玲凛も、このような玲陽の言葉には逆らえない。後ろ髪引かれながら、犀遠と一緒に部屋を出ていく。
残された男二人は、思わず同時にため息をついた。
涼景は苦い笑みを浮かべて、玲陽の牀に腰かけた。
「まったく、激しい娘だな、おまえの妹は」
「凛どのは、私を大切に思ってくれています。それゆえに、いろいろ考えてしまうんだと思います」
「邪推もいいところだ」
涼景は、犀星のことを悪く言われたことが気に入らないらしい。
「陽、今更おまえに言う必要はないと思うが」
「はい」
「星に他意はない」
「はい」
知っています、というように、玲陽は頷いた。涼景は懐かしむように、
「凛は星が都でどんなふうに過ごしていたかを知らない。だが、俺は見てきた。星がどれだけ、おまえのことを思い続けていたか。手紙もよこさないと言っていたが、あいつは毎日書いていた。馬鹿みたいにな」
「兄様は、私にどんなことを書いてくれていたのでしょう?」
玲陽は少し緊張しているように見えた。涼景は答えた。
「他愛のないことばかり。俺も、毎日よく書くことがあるものだ、と尋ねたことがあるが」
「…………」
「その日、どんなことがあった、誰とどんな話をして、どんなことを思った、とかな。一歩間違えば、情報漏洩の罪に問われるというのに」
「危ないですね。検閲を通されたら、あらぬ疑いを招きそうです」
「それはあいつもわかっていたようで、宮中の郵政署ではなく、都の民間の飛脚を使っていた」
「そこまでして……」
「そばにいれば何気なくかわす言葉。それを、毎日毎日、お前と話をする気持ちで、書き続けていたんだと思う。そして、手紙でおまえに届けようとしていた。そうすることで、離れていても、一緒にいられる気がしたんだろう。手紙を書くことで、おまえに話しかけていたんだよ、あいつはずっと」
聞きながら、玲陽の心はちくちくと痛んだり、締め付けられたり、ふわりと熱を帯びたり、忙しなく湧き起こる感情に揺れ動いた。最後には、切ない気持ちが、まるで当時の犀星の心を写したかのように、自分の心に宿るようだった。
玲陽は、声を低めた。
「それなのに、私は、その声を聞くことができなかった」
「おそらく、それをよく思わない誰かが、潰していたんだろう。だが、あいつはそんなことには負けなかった。返事はなくても、ずっと信じていたんだ。おまえが、自分を待っていてくれると」
「兄様……」
「あいつは、どんな陰謀にも屈しなかった。今は余計な心配をかけるから話さないが、これだけは覚えておいてくれ。歌仙親王としてのあいつの十年間は、決して生やさしいものではなかった。それを生き残って、さらにその上に実績を重ね、信頼を得て、誰も文句の言えない実力と立場を築き上げてきたのは、陽を守る力が欲しかったからだ。あいつは、ただ、そのためだけに、何もかもを投げ打ってきた。中途半端な覚悟でできることではない。俺が今更、言う必要はないのだが、万が一にもお前が不安になるのなら、そのことを思い出して欲しい」
涼景は感情を抑えながら、それでも止まらない、というように一気に言った。
その横顔を見ながら、玲陽は鬼気迫る雰囲気を感じ、胸を抑えた。こちらまでが、どんどん苦しくなってくるような、逃げ場のない寂寥に飲み込まれていく気がした。
玲陽が辛そうな顔をしているのを見て、涼景はわずかに微笑んだ。重たくなった空気を変えるように、明るく声を高める。
「まぁ、俺の言葉を、おまえがどこまで信じるかはわからないが」
「信じます」
せっかく、場を和ませようとしたのだが、玲陽の返事は今までになく真剣で、涼景は息を呑んだ。
「わずか十日前に会った俺のことをか?」
「確かに、私はまだ、あなたをよく知りません。でも、星が信じている人を、私は信じます。あの人が心を許したのなら、私も、習います」
「星を、信じているからか」
「はい」
揺るぎない、美しく強い玲陽の瞳。
涼景の心が、なぜか、ギシッと音を立てて軋む。それがどんな感情のためか、知るのが怖い気がした。もう一歩踏み込めばその正体に気づいてしまう。それが怖くて、涼景は玲陽から顔を背けた。
「でも……」
玲陽が声を詰まらせながら、
「これから、どうなるのか……」
「侶香様は、凛から詳しい話を聞くつもりなのだろう」
振り返らずに涼景が言う。妙な沈黙があって、涼景はちらりと玲陽を見た。
好奇心の塊のような玲陽の顔がある。
涼景は慌てて首をふった。
「陽、おまえはダメだ」
「ええ!」
「まだ、動けないだろ」
「では、皆さんをここへ! 私も話が聞きたいです!」
「無茶を言うな。おまえは体を休めることに集中しろ。他のことは俺たちに任せておけ。あとで話してやるから」
「そんな……」
「星も、侶香様もいる。凛も役にたつ。乱暴だが……」
「乱暴って……私の可愛い妹です」
玲陽は少し不満そうに口を尖らせた。涼景はぽかんとして、
「可愛い? あれ、可愛いか?」
「可愛いです!」
ムキになって主張する玲陽に、思わず涼景は吹き出した。
「おまえも、妹煩悩だな、陽」
「なんで笑うんです?」
「気にするな」
「気にします」
褥を口元まで引き上げて、玲陽は涼景を睨んだ。だが、涼景の表情が冷え、真顔になったのを見て、黙り込む。
遠くを見ながら、やけに感情のない顔で、涼景が呟くように問いかけた。
「妹のこと……妹に対する自分の気持ち……怖くなったことはないか?」
「え?」
それは、ひどく真剣な質問に思われた。だが、玲陽には気の利いた答えはなかった。
「凛どのは確かに激しい方ですが、怖がるということはないです」
「そうか」
「涼景様、何か……」
「いや、いいんだ」
涼景は切り替えるように、両手で膝を打った。
「星、遅いな。呼んでくるか?」
「いいえ。大事なお話があるのでしょう。私は一人でも大丈夫です。涼景様もぜひ、兄様の力になってあげてください」
「だが……」
「犀家の人たちもいてくれますし」
玲陽は安心させるように涼景に微笑みかけた。その顔を、涼景も嬉しく見守る。
「では、薬と粥はここに置いておくから、食わせてもらえ。星じゃないと嫌かもしれないが」
「そんなことは……」
玲陽は隠し難い想いに頬を染めた。
「行ってくる」
涼景は廊下に常駐している家人たちに玲陽を任せると、犀遠の部屋に向かった。
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