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7 花嵐(5)

 回廊を足早に進んで、奥の犀遠の部屋へ向かう。  おそらく、犀星もそこにいるはずだ。  涼景は腰の刀の感触を確かめた。  凛が犀家に来たということは、何らかの動きがあったと見て間違いない。涼景は門前での出来事を知らないが、長年の前線での勘から、おおよその推論が立つ。  きな臭くなるな。  涼景は覚悟を引き締めた。少数で歌仙に入った時点で、何かあれば自分が犀星を守る腹はできている。犀星とて無力ではないが、軍人ではない。歌仙の兵力は、玲家、犀家の私兵がほとんどであり、大きな脅威にはならない。犀遠が味方についている今、敵は玲家だけということになる。厄介なのは、玲家が人並外れた奇策を弄する可能性がある、という点である。力を武器に戦うのであれば勝ち目はあろうが、怪しげな呪術などを用いられては、涼景には術が見つからない。そこは、玲陽や玲凛の知識が重要になってくるだろう。  涼景は犀遠の部屋の前で立ち止まり、膝をついた。 「ご無礼仕ります。燕涼景にございます」 「うむ。入れ」  中から、犀遠が声をかけた。涼景は一礼し、部屋に進みいる。上座には犀遠が絵地図を前に置いて座っている。その右手から、玲凛、東雨、犀星が、地図を囲むように座っていた。犀星が振り返る。 「涼景。陽は?」 「心配ない。本人が、こちらに行けと」 「そうか」  涼景は今一度犀遠に向き、 「侶香様、同席をお許しいただけますか」 「無論。おまえを待っていたところだ」 「は」  会釈して、涼景は犀星のやや後方に座をすえた。  犀遠は涼景に対して礼儀を押し付けることはしないが、涼景は略式とはいえ、犀遠を立てることを旨としている。普段はそのような格式ばったこととは無縁と思われる涼景だが、そこは天下の暁将軍、しかと心得ている。 「では、凛」  犀遠が玲凛を促した。はい、と答えて、玲凛は口を開いた。 「少し前、涼景様が玲家を訪れたこと、人づてに聞きました。それで、近々、騒ぎを起こすだろうと」  そこで、ちらりと涼景の方を見る。彼は頷いた。 「俺が玲家で玲芳様と直接お会いしたことか?」 「おそらく。涼景様が動いていることがわかったから、私も準備をしていました。……母上は最近、ずっと父に薬を盛られていたようで、話もできなくて……だから、私だけでも、どうにか逃げなくてはと」  玲凛は、先ほどまでの激しさが嘘のように、落ち着いた口調で言った。 「あの夜、砦から火の手が上がって、誰か殺された人もいたようで……」  玲凛はじっと犀星を見ていたが、犀星は表情を変えなかった。むしろ、見守る涼景の眉が微かに動く。 「大騒ぎになっている中、私は混乱に乗じて燕家に逃げた。叔父上がよこしてくれていた燕家の護衛の人たちには申し訳なかったけれど、こっそり、忍び込んだんです。春ちゃんには、先に手紙で知らせていたので。燕家でかくまってもらって、状況を確認するつもりでした」  突然出された妹の名前に、涼景は目を伏せた。それは無意識の反応であったが、それ故に彼の動揺を示している。犀遠は玲凛を見た。 「なぜ、わしに知らせてくれなかった? おまえも芳も、陽を黙らせる人質のようなもの。陽が砦から逃げたとなれば、誰がどんな目的で、おまえを狙わないとも限らない。わしも喜んで手を貸すものを。水臭いではないか」 「ここに、陽兄様がいるとわかったから」  玲凛が澱みなく答える。 「私のことを知らせたら、叔父上は動いてくださる。でも、私より、陽兄様を守って欲しかったんです。余計な負担をかけたくなかった」 「負担など……」  犀遠は首を振った。玲凛は、また、静かに続けた。 「玲家の状況は何もわからないままで……  そんな中、今日、武装した一団が燕家を奇襲しました。叔父上が常駐させている護衛の方達が応戦してくれたのですが、多勢に無勢……みんな、私を逃すことを一番に考えてくれました……悔しかったけれど、それ以上私が止まっても、迷惑をかけるだけ」 「そやつらの狙いは、おまえひとりだったのだな?」 「はい。私は以前から、玲家と燕家との付き合い方を知っています。無用な争いはしない。だから、私がその場を離れれば、燕家は無事ですむ。だから、一計を案じたんです」  涼景が目を開き、玲凛の様子をうかがう。 「私、護衛の一人に、先に犀家に行って開門するようにお願いして…… それから、わざと目立つように立ち回って、連中を引きつけたんです。そして……犀家に走りました」 「自分を囮にするとはな」  犀遠がため息をついて首を振った。  玲凛は困ったように、 「それしか、思いつかなくて。考えている暇はありませんでした。相手は護衛の人数の三倍はいましたから、早く事態を変えなければ手遅れになると思って……」  涼景は玲凛の説明を聞きながら、その時の戦況を頭の中で再現していた。それを察したのか、犀遠が涼景に向いた。 「涼景、どう思う?」 「は」  涼景は膝を正して顔を上げた。 「いかに凛の腕がたとうとも、一騎でその戦況を覆すことは至難の業。戦力差が歴然とある中、時間が経てば戦況は危うくなる一方。犀家の私兵が強者でも、燕家はあの急勾配の山の中、実力を発揮できる場所ではない。危険は伴いますが、味方の数が減る前に敵を燕家から遠ざけることは良策。燕家から犀家への道であれば、馬の体力ももちます。逃亡したと見せかけ伝令を先行させて犀家に知らせ、門を開ける。自身は敵との距離をはかりつつ、見失わないが追いつかれることのない距離を保ち、犀家に到着と同時に門を閉めれば、敵を締め出すことは可能です。そのあとは犀家からの増援と、燕家からの追跡隊を駆使して挟撃に持ち込みます」  まるで、詩でも吟じているかのように、滑らかに涼景は答えた。  満足そうに犀遠が頷く。 「おまえが来る前に知らせがあって、無事、増援が燕家の兵たちと合流したそうだ。賊は玲家領内へ落ちたとのこと。深追いはできん。念の為、そのまま燕家の警護に当たらせる」 「は。ありがたく存じます」  燕家当主、燕涼景は深く、頭を下げた。 「無理に走らせたから、馬には可哀そうなことをしました」  玲凛が一言、付け足した。犀遠が続ける。 「凛がここにいること、玲家に知られた、ということか。だが、凛、なぜ、賊が玲家の関係者だとわかった? 名乗ったわけでもあるまい?」  玲凛は、唇を噛んだ。それから感情を殺して、 「……賊のなかに、あいつが……博がいました」  どくん、と犀星の体が震えた。表情がサッと青ざめる。犀星の脇にぴたりとついていた東雨は、犀星の全身から殺気が迸るのを感じて、身震いした。 「星、おさえろ」  涼景が、犀星にしか聞こえない声で囁く。

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