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7 花嵐(6)

「玲博……次男坊か」  犀遠は険しい顔で腕を組んで唸った。 「博は、格の先鋒……糸を引くのはやはりあやつか」  玲格は、玲家の当主ではない。しかし、当主である玲芳を妻に抑え、近年では実質的な支配者となっている。そのために利用したのが、玲陽であった。玲格は玲陽を人質に玲芳を脅した。同時に、その玲芳を盾に、玲陽の抵抗を封じた。親子の情愛を利用した玲格のやり方に、玲家内部でも眉をひそめる者も多い。 「どうしてこんなことになった……」  今まで沈黙を守っていた犀星が、声を発した。  それは呻きにも近い、切羽詰まった感情をはらんでいた。 「それをあなたが言うんですか?」  突如、玲凛が泣き叫ぶような声をで叫んだ。ハッとして、犀星は目を見開いた。 「あなたがいなくなったあと、陽兄様が大変な目にあうことくらい、わかってたはずです!」 「凛、落ち着け」  涼景が取りなしに入ったが、その手を振り払って玲凛は犀星を睨みつけた。犀星は痛みを堪えるように顔を歪めたが、それ以上怯みはせずに食い下がった。 「何があったんだ? 俺は、都に上がったあと、陽の身に何があったのか、何も知らない。叔母上に手紙を送ったが、返事はなかった」 「言えるわけない!」  犀星の言葉は、玲凛には言い訳にしか聞こえなかった。彼女はさらに声を荒げた。 「あの砦で、陽兄様が何をされていたか、もう、わかっていますよね! あんなこと、誰にも言えるわけがない! まして、あなたに! 星兄様は帝と同じ、皇家の人。玲家に弓引くことがあれば、もう、私怨ではすまなくなる! 星兄様が知れば、絶対に動いてしまう」  犀星は困惑に瞼を震わせた。 「おまえ、何を言って……」 「自分でも支離滅裂なことを言っているのはわかっています! 助けにこなかったって星兄様のこと責めるくせに、一方で、知らせれば必ず助けにくるってこともわかってた! 星兄様の立場だってわかります。でも、でも、でもっ!」 「落ち着け、凛。今は……」 「偉そうに言わないで!」  玲凛は、突き刺すように犀星を睨みつけた。 「全部、星兄様が悪いんだ!」  声の残響が消え、その場に、しん、とした静寂が降りる。誰も何も言えない、重たい空気が満ちていく。息をするのも苦しく感じられる沈黙の中、不意に、声がした。 「いい加減にしろ……好き勝手言いやがって……」  押し殺した低いその声は、東雨のものだ。  ずっと俯いていた東雨が、ガバッと顔を上げた。両の目に、涙が溢れていた。 「十年だ。十年かかりましたよ! 若様、決して器用じゃないから! 確かに時間はかかった!」  東雨はポロポロと溢れる涙を拭おうともせず、声だけは震わせまいと全身に力を込めた。 「だけどな! 若様は毎日毎日、光理様に手紙書いて! 毎日、毎日、精一杯で……命狙われて、危ない目にも数え切れないほどあって、それでも、それでも……若様だって頑張ったんだよ! 楽なことなんてなんもない! 甘えていたわけでもない。贅沢していたわけでもない。ひと月、三十文だぞ! おまえにそんな生活できるか! 若様のこと、何も知らないくせして、勝手なことばっかり言いやがって! 光理様の妹だろうが、そんなこと知るかよ! 若様の方がずっとおまえより、光理さまのこと、想ってるんだからな! 馬鹿野郎!」  悲鳴のように叫んで、東雨は肩で息をして、乱暴に腕で顔を拭った。 「もう、いい。十分だ」  犀星が、目を伏せ、小さく囁いた。その声は短く、儚かったが、東雨の胸に強く響く。  玲凛はじっと東雨を見つめていたが、おもむろに口を開いた。 「あんた……だれ?」  衝撃的な一言に、すでに言い返す気力が残っていなかった東雨は、顔をくしゃくしゃにしたまま、部屋を飛び出した。犀星が追おうと立ち上がる。それを、涼景が手で制した。 「俺が行こう」  涼景は東雨を探して部屋を出た。  まったく、あいつは……  複雑な表情を浮かべながら、涼景は東雨の姿を追った。さほど広くない屋敷で、東雨はすぐに見つかった。  中庭の橘の木の前に突っ立っている。涼景はふとそれが、数日前の犀星の姿と重なって見えた。  まだ目元は赤かったが、涙は止まったようだった。  涼景は回廊に立ったまま、柱にもたれて声をかけた 「随分派手に啖呵切ったなぁ。あの凛を相手に、見事だ」  東雨はちらりと涼景を見て、またすぐに顔を背けた。 「涼景……様。ごめんなさい」 「何を謝っているんだ?」 「俺、なんか、悪いことしたんですよね。だから、涼景様がきたんでしょう? 俺をしかるために」  いつも強気で元気の塊のような東雨を見慣れている涼景には、今の姿は少々意外だった。東雨とて、泣きもすれば悩みもするのだが、今回はなんとなく、今までとは違う気がする。妙な胸騒ぎを覚えて、涼景はつとめて明るく笑い飛ばした。 「わけがわからん! おまえは一体どんな悪いことをしたんだ?」 「?」 「おまえは、身を挺して主人を庇った。侍童として…… お前がしたことは、至極真っ当! むしろ、誉れに思うべきだ。星も、嬉しかったはずだ」  東雨は、じっと、橘の実を見つめたまま、それを聞いている。 「まぁ、三十文は余計だったがな」  涼景は一言付け足すと、真面目な口調に切り替えた。 「東雨、これから事態は荒れるだろう。おまえにも、働いてもらわなければならない」 「俺……」 「とはいえ、本来、おまえは無関係だ。星のそばにいるのも、おまえの意志ではないだろう?」 「え?」  あどけなさの残る東雨の横顔を、涼景はじっと見た。声を低める。 「そろそろ、はっきりさせた方がいい。おまえはもう、子供じゃない。いつまでも、星の影に隠れてはいられない。……俺も、いつまでもおまえを、好きにさせておくわけにはいかない」  東雨はゆっくりと、真顔で涼景を振り返った。 「涼景様、何をおっしゃっているんですか?」  涼景は微塵も表情を変えない。 「すごいな、おまえは。本当にすごいよ」  感情を見せずに言う。その顔は記憶にないほど冷めていて、涼景のものとは思われない。東雨はじっと見返した。 「だから、何のことだか」  涼景は柱から体を離すと、一歩進んで東雨に体の正面を向ける。 「わからないなら、わからないままでいい。だが、心当たりがあるのなら、これだけは約束して欲しい。歌仙にいる間は星に尽くせ。それが、おまえのためだ」  東雨はみじろぎもせず、涼景と向き合った。  二人の間を、一羽の小鳥が羽虫を追って飛びすぎてゆく。  涼景はそのまま、隙のない動きで背を向けると、犀遠の部屋へと戻っていく。その後ろ姿を、東雨は目で追い、廊下の角を曲がって消えてから、目を細めた。 「なんだよ、腹立つ……」  その声は、彼のものとは思われないほど、暗く大人びていた。

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