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8 さだめ(1)

​「侶香様?」  犀遠の居室に戻った涼景は、部屋の中を見回した。そこにはすでに犀星と玲凛の姿はない。 「あの二人は?」 「陽のところだ」  涼景はしばし考え込んだ。それからおもむろに、 「では、俺も向かいます。あの二人では、また、水掛け論が始まってしまいそうですから」  犀遠が面白そうに口の端で笑う。 「それぞれに陽を思っているだけだからな。あのようなじゃれあい、放っておいて良い」  犀遠は涼景を引き止めると、自分の前に招き入れた。  涼景は会釈し、それに従う。  犀家の奥座敷での一幕。  犀遠は涼景をそばに座らせておいて、自分は立ち上がった。自分も立とうとする涼景を、笑顔で制する。  犀遠は上座の後ろ、北の引き戸を両側に開いた。その向こうの景色に、涼景はため息が漏れた。  犀家の屋敷の北は、切り立った崖になっている。攻め込むことのできないその地形は、同時に、退路を絶たれているとも言える。  引き戸の額縁の向こうには、眼下に田畑が広がっている。その中を流れるいく筋もの川は、昼の光を弾いて眩く煌めいた。まるで、大地という布に銀糸であやどりをしたようである。その大地も、季節によって、また、民が植える作物によって色合いや質感を変えるのだろう。季節、時刻、天候、そして、人の営み。それらが作り出す絶景は、素朴でありながら、悠久の時に抱かれた名画と言えた。地平線に連なる山脈は、都・紅蘭からの侵略をはばみ、他者からの独立を守っている。この歌仙が南函の別国と言われる所以である。  秋の高く澄んだ空は、惜しげもなく瑠璃を敷き詰めたように美しかった。  これが、犀星と玲陽が愛した歌仙だ。  涼景は、ふと、思った。  彼にはこの地で暮らした記憶はない。幼くして都の親類に預けられた涼景にとっては、歌仙は妹という細い糸で繋がった、どこか遠い記憶の断片だった。  犀遠はその景色を、後ろに手を組んで眺めた。 「ここからは、犀家の領地一帯が見える。そして、それよりも広大な土地が、さらに続いている。人はちっぽけなものだと、この景色は常にわしを諌めてくれるのだ」 「侶香様……」  犀遠はわずかに、涼景を振り返った。その佇まいは、大将軍として都で名声を得たままの、威厳と自信に満ちている。そばにいるだけで、涼景は自身の未熟さを思い知るようだ。  犀遠は堅苦しいことを好まず、部下とも親しく付き合う異色の人物であったが、礼をわきまえていないわけではない。彼は義を重んじ、人々の信頼を集める、涼景に近い気質を持っていた。いや、正確には、そんな犀遠を手本として、涼景は我が身を正してきたのである。 「燕将軍」  と、犀遠は静かに呼びかけた。涼景の背筋がぴん、と張る。まるで、そこだけが宮廷であるかのような厳かな雰囲気が漂う。 「此度のこと、愚息たちが大変に世話になった。礼を言う」  突然の犀遠の言葉に、涼景は恐れ入って首を垂れた。 「当然のことをしたまで。伯華様は、我が希望にございます」  伯華様。  その名が自然と己の口をついたことに、涼景自身が驚く。心の奥底に沈めている静かな忠誠が、途端に色鮮やかに浮かび上がる気がした。  犀遠は目を細めた。 「陽のことは?」 「同様に」  また、迷わずに言葉が浮かんでくる。  犀星が人が変わったように夢中にすがる玲陽は、知り合っての時間は短くとも、守るべき人となっていた。 「そうか」  ふっと頬を緩めた犀遠は、再び厳しい目になると、眼下の景色に向いた。どこか、物思いにふけるようである。 「将軍。そなたは、この世界に憎しみが尽きる時が来ると思うか?」 「……いいえ」  涼景はわずかに目を閉じた。 「うむ。わしもそう思う。憎しみのないところに、愛もまたない。人の世とは、皮肉なものだ」  涼景は、犀遠が言おうとしていることを感じ取ろうと、全神経を傾けた。  犀遠が、ただの軍人ではなく、文武併せ持つ才人であることは、涼景も重々承知している。今、都を追われ、歌仙でひっそりと隠遁する彼の胸中を、涼景は慮った。やり残したことが、狂おしいほどにあるはずだった。玲心という一人の女性をきっかけに、彼は全てを失った。愛した玲心その人も、都での地位も権力も、それによって叶えられたはずの数多の理想も、全てが泡のように儚く散った。犀遠の恨み言を聞いたことはないが、その思いは想像するにあまりある。  犀遠は、一呼吸つくと、静かに言った。 「そなたに頼みがある」 「なんなりと」 「愚息のことだ。あやつはおそらく、夢物語の理想を掲げて猛進するに違いない。そなたには、それを御してほしい」  涼景は、ふっと口元を緩めた。 「十年前、伯華様が宮中へ上がられた時から、微力なれどこの身を賭す覚悟で、わたくしはおそばにおります」 「ありがたい」 「侶香様よりいただいたこの命、都に上がれぬその口惜しさを、我が身をしてお使いください」  歌仙事変。  それは十年以上前。いまだ、犀星が都に上がる前の出来事だった。当時、涼景は名前が売れ始めたばかりの若き猛者で、周囲からの圧力も相当なものであった。そんな彼に持ち込まれた難題が、歌仙事変の収拾である。  南方部族の侵略が歌仙を脅かしたこのできごとは、戦地こそ犀家の領内には及ばなかったが、当時、一帯の人々に眠れぬ夜をもたらした。涼景はその戦において、地元の義勇軍として参加した犀遠と共に戦陣に立った。そのとき、何度もこの老将軍に命を救われたことを、決して忘れはしない。  犀遠は恩着せがましいことを言う男ではなかった。とうに、そんなことは時効だ、と、笑い飛ばしている。しかし、涼景の意思は固い。  お役に立ちたい。  一途な涼景の思いは、こうして、犀遠に対する礼と、犀星への献身によっても明らかだ。  と、犀遠が唐突につぶやいた。

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